53 海の向こうから
城下を抜けるまで馬車の中は馬のいななきと木の軋みのみが響く。対面に座るエルドレンは、顔に当てたまま石像のように動かない。
エルドレンとの別れの時間は着実に迫ってきている。少しでもお話したいし、彼の顔を焼き付けてから帰りたい。そう思ったメアリーは意を決して、彼の横に座り直そうと腰を上げる。
「あっ!」
訓練もしていない女性がこの揺れの中、支えなしに立つのは至難の業だ。メアリーは壁に手を伸ばしたが、それはわずかに届かない。
「危ないだろう。」
その声とともに、メアリーはエルドレンに体ごと引き寄せられた。瞼を開くと、彼の顔がすぐ横にある。どうやら、彼の膝の上に収まるように抱きかかえられていた。恥ずかしさが残るものの、メアリーは彼の顔に手を添える。
「やっと顔を見せてくれた。」
微笑むメアリーにエルドレンはあっけにとられたようで、二の句が継げない。
「顔を隠していたのによく見えましたね。実は手の隙間から覗き込んでいたりして。」
メアリーはいたずらっぽく笑う。
「メアリーは策士だな。」
エルドレンははにかむ。
「ああ、そうだ。」
2人が見つめ合っていると、彼は何かを思い出したように胸元のポケットを探る。エルドレンが前から後ろに手を回すと、メアリーの胸元に固い何かが触れる。それを持ち上げると、ペンダントの先には緑の鉱石が光っていた。荒々しく削られたそれは不安定で、支える指先が少し震えてしまう。
「それは翡翠なんだよ。」
メアリーの指に彼の手が重なる
「母方の国にもともとあった伝統で、悪いものから身を守るおまじないなんだ。」
「ああ、皇后様の。」
メアリーは翡翠をそっと胸元に戻す。
「あとこれも、イシュタルの知人から譲り受けてね。」
エルドレンの手元には謎の筒があった。
「これもお守りの一種で、メアリーなら使い方はわかるはずと言われてしまって。」
「ええと、私のことをご存じの方からでしょうか。」
メアリーはその筒を頭上に掲げる。
「いや、おそらく向こうが一方的に知っているだけじゃないかな。私もイシュタルも何かわからなかったんだけど、女性なら何かわかるものなのかと思って。」
「うーん、今はわかりませんが、そのうち思い出すかもしれませんね。」
しかし、馬車が船着き場に着いてもさっぱり何も思い出せない。そうこうしているうちに、先に馬車を降りたエルドレンに手を引かれ、地面に足を下ろす。太陽に雲がかかり、撫でつける海風で身を震わせていると、肩に重みのある暖かいものが触れる。
「乗船直前までこれを着ているといい。」
シャツだけの姿になった彼が、メアリーの背を撫でる。自分の腕を上げると、見慣れた彼の黒い軍服の裾が見えた。
「メアリー、お願いだから嗅がないで。」
ついうっかり。香を焚きしめた匂いと、彼の香りがかすかにする。
「持って帰らないでね。」
思考を読まれたか。やっぱりエルドレンには、自室の祭壇のことを把握されているかもしれない。
「さすがにそんなこといたしませんわ。」
別の意味で早まる鼓動を押さえつつ、メアリーは笑顔を繕う。
「でも、エル様を感じられる品なので、返すのは惜しいですわね。」
「メアリーって意外と大胆だね。」
笑い合っていると、後ろに控えていたラウルが2人の前に顔を出す。
「はいはい、もう乗船口ですよ。」
彼は面白くなさそうにこちらを見つめている。
「ラウルは東方からなかなか帰ってこないし、婚約者に手紙すら送らないから、彼女と喧嘩しているんだ。かわいそうに、私たちに嫉妬しているんだろうな。」
「誰のせいだと思っているんですか。かわいそうに思うなら、首都で休暇をくださいよ。」
年相応の言い合いをする彼らは単なる上司と部下の関係に見えない。
「お2人は仲が良いんですね。」
「幼馴染だからな。」
「曽祖父が同じなんですよ。うちは公爵家だけど、母がエルの乳母をしていまして。」
どおりで一国の皇子を愛称で呼べるわけだ。
「そうだ、メアリー様。エルのことが嫌になったら、うちに遊びに来て構いませんからね。」
「あら、頼もしい。いつかお世話になるかもしれないわ。」
2人のやり取りを聞いたエルドレンは、その美しい顔を歪めて、ふくれっ面をしている。
「その時は、妹に会ってやってください。メアリー様のファンなんですよ。」
「嬉しいわ、それなら妹さんに会わなきゃね。是非訪問するわ。」
「結婚する前から家出の相談はよしてくれ。」
エルドレンは額に手を当てて、首を振る。
「まあいいじゃないですか、これまでのことを考えれば、メアリー様が嫁いでくれるなら御の字じゃないですか。」
「これまで?」
ラウルの頭に拳が落ちる。
「メアリー、こいつの言うことは聞かなくていいから。」
エルドレンが手で追い払う動作をすると、ラウルははいはいと言って去っていく。その間にメアリーは肩にかけられた軍服を脱ぎ、簡単に折りたたんで彼に差し出す。
「もう別れるなんて、寂しいな。」
メアリーのかすかな声は、軍服に袖を通すエルドレンには聞こえなかったのだろう。こちらの視線にやっと気づいた彼はただただ笑顔を返すだけだ。
冷たい海風が耳元を掠める。メアリーは少し赤くなった手を差し出した。
「エル様、お見送りありがとう。じゃあね。」
その手は取られることなかった。代わりに、エルドレンがメアリーの肩に手を回し、身を寄せるように抱きしめる。
「私も寂しいよ、メアリー。」
吐息がかかるほどの距離で囁かれる。卒倒しそうになったメアリーはエイダに支えられつつ、後ろ髪を引かれながら船へと乗り込んでいった。
◇
港で見送るエルドレンは手を振りつづけていた。メアリーが小粒ほどの大きさになったところで、後ろに控えていたラウルが声をかける。
「さあ、エル、行こうか。」
「ああ。」
港に残された2人は海を背に、来た道を戻る。
「本当によかったのか、引き留めなくて。」
「正式に婚姻するまではシェレンディアには留め置かない。」
「は、エルが?まともなことを言っている気がする。」
ふざけるラウルに、エルドレンは冷ややかな視線を送る。
「ラウスト国王とメアリーの兄上とはそういう約束をしているんだ。」
エルドレンは深い溜息を吐く。
「エルにとっては我慢するより、メアリー様を取り返すために侵略する方が簡単じゃないですか?」
「普通は主人の暴走を止めるのが部下だと思うんだが、お前が過ぎた冗談を言うから俺は冷静になれるよ。」
冗談を掛け合う2人が馬車を留め置いた場所まで戻ってくると、激しい蹄の音が近づいてくる。
「エルドレン殿下!」
早馬で駆けてきた従者が、馬上から叫ぶ。規律正しく統率してきた部下の礼を欠いた様子に、ただ事ではないことがわかる。
「どうした。」
馬から降りた従者は、最短距離で駆け抜けてきたのだろうか。彼の髪は鳥の巣のように荒れ、簪のように小枝が刺さる。エルドレンは差し出された手紙を奪い取るように手にして、端を破り取る。澄んだ青い瞳は上から下へと移動していく。
「お前には朗報かもしれんな。」
中身を確認し終わったエルドレンの口元は弧を描く。ラウルは悪魔のような微笑みに、思わず後ずさった。
同刻、船上にいたメアリーはまだ何も知らなかった。海の向こうから嵐が近づいていることに。




