離婚へのステップ1
外は冷たい雨だった。
戸川忍はその雨の中で立ち尽くしていた。
家の中から笑い声が聞こえて来ている。
リビングに面した窓から、楽しそうに笑っている夫・数馬の姿が見えた。
⦅あんな風に笑うんだ………初めて見た………。⦆
リビングに居るのは、数馬と親友たち……そして、数馬の秘書・土屋華蓮。
数馬に頬を寄せている秘書。
抱き合っているようにも見えた。
「やっぱり、麗しい華蓮が数馬の隣に居ると、いいねぇ!」
「美男美女! 正しくその言葉がピッタリだ。」
「何と言っても、美人秘書だけでなく、当社のキャンペーンモデルだもんな。
誰かさんとは大違いだ。」
「そこで、誰かさんを出すなよな。興覚めだぜ。」
「家事しか出来ない専業主婦と華蓮とは違うのさ。そうだよな、数馬。」
「あぁ……忍は家のことさえしてくれたら、それでいい。」
「じゃあ、私は?」
「君は……家事をしなくていいんだ。手も綺麗なままで居て欲しい。」
「うふふっ……綺麗なままで居るわ。」
⦅こんなとこで、聞いてる私……馬鹿みたい。
ううん、馬鹿だわ。⦆
◇◇◇◇
昨日夜に忍は電話した。
なかなか出てくれない夫の電話に……。
4回目、5回目……やっと出てくれたのは6回目だった。
「なんだ。用件を言え。」
「明日、退院するの。」
「そうか……それで?」
「迎えに……来て欲しいんだけど……。」
「重病じゃないから一人で帰れるだろう。」
「…………………。」
「社長、今日のホームパーティのことですけれども……
いつものメンバーで宜しいんですよね。」
「そうだ。」
その声の後、電話は切れた。
ツーツーツーという音が空しく聞こえる。
忍は卵巣嚢腫で入院した。
卵巣嚢腫は初期では無症状で、卵巣が破裂するまで気付かなかった。
その頃、忍は夫・数馬の母の看病をしていた。
数馬の母・戸川可那子は厳しく、「貴女は戸川家の長男の嫁なのですよ。」が口癖だった。
姑の看病をしてから自宅に戻るまでの間に激しい下腹部の痛みで忍はその場に蹲った。
「痛い………痛い………。」
痛みは激しさを増していった。
卵巣嚢腫が破裂したのだ。
「どこが痛いんですか?」
「救急車!」
誰かが救急車を呼んでくれて搬送されると、直ぐに手術が始まった。
病院の看護師から数馬に電話が架けたそうだ。
だが、出なかったと目が覚めた時に忍は聞いた。
忍は呆然としていた。
「出てくれなかった……やっぱり、ね。」
「えっ?」
「いいえ、何でもありません。」
「手術のこと、今後の治療についてなど、お一人で聞かれますか?」
「はい。一人でお話を伺います。」
「分かりました。先生に伝えますね。」
そして、一人で聞いた。
数馬から電話が架かって来たのは、手術の三日後だった。
「忍、どうして電話に出ない!
お母さんの所に行ってないのか?」
⦅数馬さんは帰ってないんだ……家に……。⦆
「おいっ! 聞いてるのか?」
「聞いてます。電話出来ませんでした。」
「えっ? 何でだ。君は何度も電話を架けて来たじゃないか!」
「それは病院の看護師さんです。」
「病院?」
「入院しています。
緊急手術を終えました。
入院期間は約1週間です。
だから、電話出来ませんでした。
数馬さんこそ、如何して出てくれなかったの?
看護師さんからの電話だったのに…………。」
「…………仕方ないだろう……忙しいんだから……。」
「あの人と一緒に居るのに忙しいのよね。」
「あの人?」
「華蓮さん………綺麗な彼女の為なら何でもするのよね。」
「忍! いい加減にしないかっ! 彼女とは何も無い。」
「ねぇ~、数馬さん、早く。レストランの予約の時間が迫ってるわ。」
「分かった。」
⦅やっぱり……傍に居るんだ。⦆
数馬は何も言わずに電話を切った。
それが、さも当たり前のように……。
⦅もう、電話は架けないでおこう。
もう、これ以上、惨めな思いをしないために………。⦆
◇◇◇◇
翌日、何故だか、数馬から電話が架かって来た。
「忍、退院は何時だ?」
「予定は5月5日の午前10時。」
「迎えに行く。」
「えっ?」⦅嬉しい!⦆
「退院したら、そのまま僕の実家に連れて行く。」
「えっ?」
「お母さんには傍に誰かが居て看病する必要がある。
分かるよな。」
⦅母親の世話をさせるために……その為に迎えに来るって……。⦆
「社長、お話し中、申し訳ありませんが……。」
「いや、大したことない用事だ。」
そう言ったきり、数馬は電話を切った。
迎えに来ると言っていた数馬は来なかった。
独り病院の正面玄関で忍は待った。
待てども待てども、数馬は来なかった。
その瞬間、忍が姑の家に行く必要はなくなった。
忍は自宅へ帰ることにした。
雨が降り始めた。
まるで、それは忍の涙のようだった。
自宅の門を潜り、玄関を入った所で家政婦の小島厚子が居た。
「まぁ! 若奥様!」
厚子は驚き、直ぐに意を決したようだった。
「若奥様、今日はホテルでお過ごしになられた方が宜しいかと……。」
忍はその言葉で全て理解した。
「分かったわ。用意して来るわね。」
「………………。」
厚子は無言で頭を下げた。
忍は自分の部屋に入って、当面必要だと思う物をスーツケースに入れた。
音を立てないように気をつけながら家を出た。
⦅どうして……音を立てないように……って………。
馬鹿らしいほど、だわ。⦆
外は雨だった。
「若奥様、傘を………。」
「要らないわ。」
「でも………雨が降っております。」
「厚子さぁ~~ん!」
「はい。」
「早く行って、ね。
待たせたら、いけないわ。」
「……はい。若奥様、傘をこちらに置いておきます。」
「ありがとう。」
「厚子さぁ~~ん! 早く!」
「早く! 厚子さん! お姫様がお待ちだぞぉ――っ!」
「はい。今直ぐ。」
厚子は後ろ髪を引かれる思いで、リビングに向かっていった。
忍は庭からリビングへ向かった。
それは無意識のことだった。
気が付いたら、リビングを庭から見ていたのだ。
そして、知った。
忍の退院日にホームパーティを数馬は開いていたのだ。
その中心に居るのは数馬と華蓮だった。
⦅もう、終わりだって分かってたのに……。
長居しすぎたのね。
終わりにしましょう。数馬さん。
見事に消えて見せますから……迷惑が掛からないように……。
離婚届に署名して郵送するわ。
数馬さん、出してね。⦆
忍はその足で出来るだけ遠い所へ行きたかった。
駅に着いてからネットでビジネスホテルの予約状況を見て、空いているホテルを探し出した。
直ぐに予約し、そのホテルに向かった。
始めて降りる駅だった。
ホテルに着いてから、ベッドに倒れ込んだ。
そして、声を殺して泣き続けた。




