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からくり戦棋  作者: 水前寺鯉太郎


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第2話「不備の指摘」

第2話「不備の指摘」


 床を走る金色の線が、網膜を灼く。

 実体化した駒が重低音を響かせてスライドするたびに、心臓の横が締め付けられた。「借り物のマブイ」が脈動している。他人の命の残滓が、俺の血管を泳いでいる。

 【マブイ残量:12】

 左目の端で、赤い数字が点滅した。

 瞬きをするたびに、ノイズが走る。

 ――あつい。

 ――出せ、返せ。

 ――殺してやる。

 刑事の犠牲者たちだ。マブイを流し込まれた瞬間から、彼らの「最期の断片」が俺の意識に滲み出てくる。止める方法が分からない。止める余裕もない。

「どうした、"ゼロ"。手が震えてるぜ」

 刑事が、蟹座の紋章が刻まれた車兵を前線へ押し出した。

 轟音。床のコンクリートが砕け、衝撃波が俺の頬を裂く。車兵は直線に刻む。一直線に、ハサミのように。

「そんなもん背負って、まともに駒が持てるか。あいつらの恐怖の重さが分かるか、ゼロ」

 刑事のデッキは、見るからに防御特化だった。

 士が二体、象兵が二体、帥の周囲を鉄の蓋のように覆っている。問題はその「重さ」だ。これだけの防御力を維持するには、それに見合うだけのマブイを常時供給し続けなければならない。

 派手だが、燃費が悪い。

 窓口で何百枚も処理してきた申請書と同じだ。予算を無視した設備投資は、必ずどこかに歪みを生む。

 俺は震える手で「兵」を一歩、前へ進めた。

「……一歩か。泣けてくるな」

 刑事が嘲笑い、車兵を横へ走らせる。俺の騎兵が圧力に押し潰され、光の塵になった。

 ――ぐッ。

 脳の奥が焼ける。駒が消えるたびに、俺の中の何かが剥がれていく感覚。

 そして気づいた。昨夜食べたはずの飯の味が、消えていた。白米の甘み、味噌汁の塩気、全部が霧の中に沈んでいる。

 代償だ。マブイ器官を持たない俺が「借り物」を回すには、自分の記憶と感覚を燃料にするしかない。

 構わない。今は関係ない。

 俺は盤面を見続けた。

 刑事の象兵が、また微かに揺れた。三度目だ。同じ座標で、同じ周期で。過剰な防御力を維持しようとするマブイが、逆流して駒の足元に溜まっている。建物で言えば、基礎に亀裂が入り始めた状態だ。

 そのとき、ノイズの中から一つの声が浮いた。

 ――そこだ。そこを突け。

 知らない声。だが、確かに俺の意識の中で、盤面の一点を指し示していた。

「……刑事さん」

 掠れた声で、俺は言った。

「なんだ、遺言か?」

「申請書類に、不備があります」

 刑事の表情が、わずかに固まった。

「今朝の窓口。あなたが殺した男の妻は、古びた将棋盤を抱えてきた。あなたは『完璧な盤面だった』と言った。しかし――」

 俺は、視線を盤面から外さずに続けた。

「象兵が、三度、同じ座標で振動しています。マブイの逆流です。あなたの出力はシステムの許容コストを超えている。窓口業務で言えば、予算外申請。現場で言えば――構造的な座屈です」

「何を言ってる」

「駒の動きではありません。申請そのものの話です」

 俺はポケットから認印を取り出した。窓口で毎日使っている、安物のハンコだ。

 それを、盤面の虚空へ叩きつけた。

「第十四手、車兵の移動を『申請不備』として差し戻します。あなたのマブイは今、象兵の自重に耐えきれていない」

 バキ、と音がした。

 盤面の中央。刑事の絶対的な防壁だったはずの象兵の足元から、亀裂が走る。一本が二本になり、二本が四本になった。過剰なマブイが逆流し、自分の駒を内側から砕いていく。

 刑事は、黙った。

 怒鳴らなかった。ただ、盤面を見つめた。初めて、余裕のない顔をした。

「……お前、何をした」

「監査です」

 俺は生き残っていた唯一の「兵」を、敵陣の境界線へ滑らせた。

 川を渡る。

 その瞬間、名もなき兵が赤く発光し、巨大な「将」へと変わった。成駒の熱が、手のひらを通じて心臓まで届く。

 【マブイ残量:8】

 視界が白く濁る。

 次に消えたのは、窓口のスタンプのインクの匂いだった。

 毎朝、出勤すると最初に嗅いでいた匂い。それが今、跡形もなく消えた。

 構わない。

 梓を取り戻すためなら、鼻なんて利かなくていい。

「これより、強制執行の手続きに入ります」

 盤面が震えた。

 刑事の帥が孤立する。守るべき士も象兵も、自壊した今はただの残骸だ。

 追い詰められた駒は、静かに光を失っていく。派手には消えない。ただ、じわじわと色が抜けて――最後に、一片の塵にもならず、消えた。

 

 ガチャン、と音がした。

 

 処理印を押す音に、似ていた。

 

 それで終わりだ。人が一人死んだことが、業務の一件として閉じていく。

 

 俺は、盤面が消えていく床を見下ろした。

 梓の眠るカプセルが、また少し遠い気がした。

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