夏休みの課題完了
十
「お、終わった……」
東京の片隅にひっそりと佇む、築年数の経過したうらぶれた木造ボロアパートの一室。
その薄暗い空間において、世界最強の座に君臨する能力者、亜鳴蛇筮麽は、精根尽き果てた悲痛な声を漏らしながら、万策尽きたかのように万年床の布団へと五体投地の姿勢で崩れ落ちた。
彼女の虚ろな視線の先。
国信大から課された、極めて劣悪な難易度を誇る夏季レポートの提出画面が、液晶の光を鈍く放ちながら、ようやく完了の二文字を告げていた。
今回の課題は、文系の学生にとっては拷問に等しい過酷な代物だった。
それを筮麽は、一切の外部ツールを遮断し、完全なる自力のみで最後までやり遂げた。
他者の異能を自らの血肉とする、文字通りの規格外たる視認コピーの能力を持つ彼女。
これまでにあらゆる事象を模倣し、無数の特異性質をその身にストックしてきた膨大なライブラリを誇るものの、何故か高度な翻訳や言語運用を司る高精度な言語系の能力だけは、そのコレクションの中に存在しなかった。
そのような能力は、一応この世には存在する。
だが。
言語とは単なる超常現象の出力ではなく、長きにわたる歴史と文化が育んだ知識の集積であり、脳内における認知処理のプロセスであるが故に、視覚的にその発動の瞬間を捉えることが出来ても、本質を見極めるというが極めて困難という特性に起因していた。
現代の異能普遍社会においては、このような難解な課題であっても、思考を入力するだけで完璧な外国語へと変換してくれる高精度な人工知能、すなわちAIに全ての作業を丸投げするという選択肢が広く普及している。
しかし、彼女の脳裏に、そんなちんけな機械仕掛けの道具に依存するという矮小な思考は一片たりとも存在しなかった。
仮に手抜きが発覚した際に大学側から受けるであろう、執拗な追及や再提出のお叱りが非常に面倒くさいという現実的なリスクを恐れた訳でもなく、ただ純粋に、筮麽のプライドが、そのような安易な妥協を断じて良しとしなかった。
普段の生活においては、極限の怠惰を絵に描いたような自堕落な生態を晒している筮麽。
しかしその実、自らが関わる事象に関しては、過去にコピーした多種多様な能力を組み合わせるか、あるいは超常の力に頼らない自身の純粋な知的地力を駆使するなど、頑なまでに自分の力だけであらゆる困難を完遂することを信条としていた。
それこそが彼女の確固たるポリシーであり、唯一無二の生き様という表現が最も適していた。
だが、その崇高な精神性の本質をさらに深く掘り下げてみれば、そこには実に単純かつ個人的な理由が隠されていた。
すなわち、唯一無二の親友である鴨紅柄長に対し、一切の曇りなく、堂々と「自分の力だけで課題を終わらせた」と胸を張って宣言するため。
柄長は相手の嘘を強制的に見破るような、精神干渉系の嘘を見抜く能力を宿しているわけではない。
ただの電波と技術干渉能力だ。
しかし何故か、あの生真面目な友人に対してだけは、どんなに巧妙に仕組んだ欺瞞や誤魔化しも全く通用しない。
筮麽がどのような思考を経て、どういった言動に及ぶかなど、まるで最初から全てを手のひらの上で把握しているかのように振る舞う柄長。
如何なる誤魔化しも即座にお見通しにされてしまうという事実に、筮麽は訳が分からなかったが。
単純すぎる筮麽の言動など、付き合いの長い柄長なら簡単に予想できるなど、当の本人は知るよしもなかったが。
とはいえ、日頃から怠惰の極致に身を置き、最小限のエネルギー消費で生きることを至上命題としている筮麽にとって、自力で長大なレポートを完遂するという作業は、精神的剪断を伴う筆舌に尽くしがたい苦行。
現代の東京という帝都には、彼女の脆弱な集中力を容易く瓦解させる誘惑の罠が、あまりにも過剰に溢れ返っていた。
ほんの数分ほどフランス語の辞書と格闘し、文字通り気力の限界を迎えて脳細胞が悲鳴を上げ始めると、彼女はすぐさま現実逃避の口実を見つけ出す。
ほんの少しの気晴らしと称して、紫煙を燻らせるためにタバコを手にベランダへと這い出たが最後、気づけばその眼眸に遠方の景色を捉える千里眼の能力を宿し、日本全国の有象無象の生態をぼんやりと覗き見する時間へと突入。そのまま、街を行き交う有象無象の能力者を観察し、新たな能力コピーの作業に没頭しているうちに、瞬く間に数時間が瓦解していくという悪循環を繰り返していた。
それだけに留まらず、ちょっとした気分の切り替えと称して財布を片手に外食へと出歩き、挙句の果てには悪友の伽羅部からの突発的な誘いに応じ、都内の大盛り専門の飲食店を巡っては、常軌を逸した物量を胃袋へと収める暴食乱舞──すなわちバカ食いの一途を辿ることもしばしば。
そんなこんなの自堕落な紆余曲折を経た結果、本来であれば彼女が持つ桁違いの地力と演算処理能力をフルに活用すれば、僅か数時間もあれば容易に片付くはずの課題。
それを全て終わらせるまでに、実に一週間以上の貴重な時間を浪費してしまった。
ともあれ、どれほどの時間を要しようとも、課題は完全に消滅した。
これによって、進捗を生暖かく監視していた柄長から一方的に言い渡されていた、悪魔の如き「接近禁止令」は目めでたく解除される運命にあり、再び彼女の財布を当てにして至高の食事を無償で奢ってもらえる権利が復活するというわけだ。
もっとも、その絶縁期間中であっても、最低限のラインによる意思疎通だけは継続して行われていた。
最近、柄長から送られてきたメッセージによれば、あの西圓寺とかいう地女大の地雷女と会うべく、彼女は東京へと赴いたらしい。その際に立ち寄ったとされる、肉汁が鉄板の上で激しく爆ぜる実に美味そうなハンバーグの鮮明な画像が、『きょう、郝躬とギウヤホって店きたよ。ハンバーグがうまかった』という文面と共に、ラインの画面へと送りつけられてきた。
狭いアパートでフランス語のレポートと格闘していた筮麽にとって、その視覚的テロリズムは怨嗟の念を抱かせるに十分な破壊力を持っており、誠に恨めしいという感情が脳内を支配していた。
今すぐにでも通話を繋ぎ、課題の完全終了を大々的に報告した上で、その祝福の儀として総重量数キログラムを超えるであろう巨大カツ丼でも盛大に奢ってもらいたいところだが。悲しいかな、歓喜の連絡を入れるその前に、現在の彼女の肉体は致命的なまでの栄養補給を緊急で欲していた。
難解な語学の処理によって、脳細胞の糖分が完全に枯渇している。
最愛のスポンサーたる友人に勝利の宣言を送りつけることよりも、まずは疲弊しきった己の脳組織を急速に回復させ、思考を正常な軌道へと戻すことこそが最優先事項。
筮麽は布団に寝そべったまま、すっ、と怠惰な動作で細い左手を虚空へと掲げ、室内の冷蔵庫へと向ける。
彼女は脳内のライブラリから、一つの極めて矮小な能力を選択し、発動させた。
冷蔵庫の扉を開く能力。
この能力社会において、星の数ほど存在する能力の中でも、極めて用途が限定され、日常生活における実用性が皆無に等しいとされる、典型的なハズレ能力の一つ。
ガチャ、と気の抜けた機械的な音を立てて、誰の手も触れていない冷蔵庫の重い扉が滑らかに開かれる。
筮麽は首だけを僅かに動かし、その庫内へと怠惰な視線を這わせた。
薄暗い棚の奥。目当ての物品を確認。
あった。
昨日買っておいた、極上のいちごのミルクレープ。
続いて彼女は、間髪入れずに次の異能を連動させる。
引き寄せる能力。
ヒュッ、と空気を切り裂く風切り音と共に、透明なプラスチック容器に収められたミルクレープが、重力を無視して彼女の手元へと一直線に引き寄せられてきた。ふたつ入りのミルクレープ。
手元に目的の品が収まったことを確認すると、間髪入れずに開いた扉を閉める能力を発動。パタン、と主人の意思を汲み取ったかのように、ひとりでに冷蔵庫の扉が強固に閉められた。
世界最強の能力者が、単に数歩歩いて冷蔵庫へ向かうという身体的労力を惜しむがためだけに、三つの能力を発動させているという、極めて罰当たりかつ阿呆らしい光景。
手元に届いたプラスチックの容器を、筮麽は目の前の空間でパッと手放した。
本来の物理法則に従えば、容器はそのまま無残に畳の上へと落下し、中身が悲惨に飛散してしまうはず。
しかし、その容器は彼女の顔面上方数十センチメートルの虚空において、見えない何かに支えられているかのようにピタリと静止した。
空気の皿を作る能力。
これは最近、都内で話題を集めていた新進気鋭のケーキ屋を訪れた際、その店舗の店主が保有していた能力を、筮麽はコピーした。
空中にケーキが美しく浮かび上がるという、重力を超越した幻想的なビジュアルを最大の売りにしており、若者たちの間でインスト映えすると大いに話題を呼んでいた、あの伽羅部と共に長蛇の列に並んでまで潜入した店舗の技術。
宙に浮く見えない皿の上で、容器の蓋を滑らかに開け放つ。
スパン、と不可視の鋭利な刃が通り抜けたかのような風切り音と共に、突如としていちごのミルクレープが、一切の狂いなく正確無比に半分へと切断された。
視界のケーキを触れずに切断する能力。
これもまた、極めて限定的な時においてしか恩恵を享受できないタイプの限定的な能力ではあるが、刃物を使用せずとも、一切の断面のブレなく真っ直ぐに美しいケーキを両断できるこのニッチな能力を、筮麽は地味に利便性が高いとして結構気に入っている。
彼女はあんぐりと、野性味を帯びた動作で大きく口を開け、再び引き寄せる能力を微弱に発動。
空中から彼女の口腔へと、吸い込まれるように突っ込んできたいちごのミルクレープ。
もぐもぐ、と咀嚼の音を響かせながら、その豊潤な味わいを舌の上で堪能する。
幾重にも丁寧に重ねられたクレープ生地の柔らかな食感と、酸味の利いた果汁、そして濃厚なミルクの甘みが、極限まで飢餓状態にあった脳細胞へとダイレクトに上質な糖分を送り込んでいく。
その幸福感に浸る間もなく、残されたもう一切れに関しても、全く同一のプロセスを経て彼女の口内へと放り込まれた。
一般人であれば上品にフォークを用いて時間をかけるであろう逸品が、たった二口という圧倒的な速度で、筮麽の底なしの胃袋の中へと完全に消え去った。
続いて、容器に残されていた二つ目のケーキに関しても、あっという間にその姿を消し、瞬く間に食べ尽くしてしまった。
枯渇していたエネルギーが満たされ、霧が晴れるかのように脳の機能が急速に回復していく確かな手応えを感じる。
「さて」
満足感を湛えた筮麽の両の眼眸から、パチパチと小さい紫色の電磁火花が走った。
彼女の象徴たるヴァイオレットの瞳が、能力の励起に伴って、より深い濃紫色へと怪しくその輝きを増していく。
柄長の能力、電波でテクノロジーを操る能力を発動したからだ。
彼女の眼前の虚空。
何も存在しなかったはずの空間に、電子の光が瞬き、ホロフォンの鮮明なホログラム画面が揺らめきながら浮かび上がる。
思い返せば、柄長から過酷な接近禁止令を突き付けられ、孤独な戦いを強いられていたこの一週間ちょいの期間。生活費に窮し、実の姉である煮麼筮の元へと這い寄り、情けない姿で食事を恵んでもらったり、自費による手痛い外食の出費が増加したりと、文字通り散々極まりない極貧の日々を余儀なくされていた。
忌々しい過去を振り払うように、画面上の操作で柄長のラインのアカウントを開く。
柄長は現在、生活費を稼ぐためのアルバイトのシフトに就いている時間帯であり、今すぐリアルタイムでの通話を繋げて連絡を密に取ることは叶わない。
ならば、用件だけを簡潔に吹き込んだボイスメッセージを残しておくのが最善の策。
ホログラムの録音ボタンを視線で起動する。
感情を隠さない独特の気だるげな声音。
マイクに向かって語りかけ始めた。
「柄長、やっと課題終わったよ。もちろん、君との約束通り、全部自力で最後まで終わらせたから。……というわけだから、あの悪魔みたいな接近禁止令、いい加減に解いてくれると非常に助かる。で、今日のバイトが終わったあと、何か予定とかある? もしなかったら、最近ネットのトレンドで見かけた、北海道にあるっていう有名な激ウマカツ丼店に一緒に行こうよ。平気なら、柄長のアパートに行くからさ。もちろん、食事代はいつものように柄長に全部奢って貰うつもりだけど。いつもみたいに私の瞬間移動で北海道まで一瞬で連れてってあげるから、往復の移動費は実質タダだよ。……気がつけば楽しかった夏休みもあと一週間くらいしかないけど、この一週間近く会えなかった寂しい分、これからまた夜通しゲームでもして、死ぬほど一緒に遊ぼうね」




