気怠げな昼下がり
眼前には無機質なプラスチック製のトレイが鎮座している。その上には、水滴を纏った透明な樹脂製のコップ。濛々たる湯気を立ち昇らせ、芳醇な鰹出汁の香りを周囲に散乱させる安価なプラスチック丼。利き手の左手に割り箸を無造作に構え、その先端で茹で上がったばかりの褐色の麺を高く持ち上げると、周囲の喧騒など意に介する様子もなく、ただひたすらにズゾゾと音を立てて啜り上げていた。
ここは国際信州学院大学、通称〝国信大〟が誇る巨大な学生食堂。昼時ともなれば、数百人規模の腹を空かせた学生たちが一斉に押し寄せ、熱気と食欲が入り交じった特有の坩堝と化す空間へと変貌する。
入り口付近には、電子決済に完全対応した最新鋭のホログラム投影型の食券機がずらりと並べられているにも関わらず、出力されるのは昔ながらの感熱紙の食券という、異能普遍社会の高度なテクノロジーと旧態依然としたアナログが奇妙に交錯する、実に大学らしいアンバランスな情景が広がっていた。厨房の奥では、炎を操る能力で巨大な中華鍋を振るう体育会系の料理人や、念動力で大量の皿を空中に浮遊させて運搬する調理補助の姿が見受けられ、多種多様な異能が日常的な労働力として消費される、この世界特有のカオスな活況を呈している。
そんな喧騒の渦中、広大なフロアの隅のテーブル席の一角に、長身を丸めてちょこんと一人座る筮麽の姿があった。
彼女の眼前に並べられた食事の量は、一般的な大衆向け飲食店で提供される一人前の基準と比較すると些か少なく、トッピングに至っては刻んだ白ネギがほんの申し訳程度に散らされているだけという、極めて粗末で質素な代物。だが、その価格は驚くべきことに一杯百八十円という、学食という治外法権ならではの破格の値段設定。
彼女のトレイの上には、既にその安価な蕎麦の丼が三つも整然と並べられており、傍らには追加オプションとして購入したトッピングの温泉卵。小さな白い小鉢の中で出番を待ちわびるようにちょこんと置かれている。
このチープさがたまらない。そう思いつつ、丼の両端を両手で掴む。底に残ったつゆに口をつけて一気に飲み干した。大量生産の濃縮還元とはいえ、労働者の疲労を癒やすかのように塩分と濃厚な鰹出汁が強烈に効いた黒いつゆ。それは彼女の胃袋へと滑り落ち、心地よい温もりをもたらす。一杯目のプレーンなかけ蕎麦を、ものの数分で瞬く間に完食した。
休む間もなく、彼女の左手は滑らかに二杯目の丼へと移行する。
この二杯目の水面には、受け取りカウンターに備え付けられていた無料のラー油が、致死量スレスレまでドバドバと容赦なく注がれ、赤黒い油膜の層を形成していた。筮麽はそれを箸で軽くかき混ぜると、躊躇うことなく一気に啜り上げる。
咽喉を直撃する強烈なカプサイシンの刺激を味わう。安っぽい蕎麦の風味にジャンクなラー油の辛さと油分がプラスされることで、味わいは劇的かつ暴力的な変化を遂げていた。刺激的な辛味が食欲の中枢を容赦なく蹴り上げ、細胞の隅々まで熱を帯びていく。そして、彼女はそのラー油が分厚く浮かんだ赤黒いつゆまでも、残さず全て喉の奥へと流し込んだ。
いよいよ、大トリを飾る三杯目。
ここで満を持して、小鉢で待機していた温泉卵を丼の中央へと投下し、箸の先端でその白くプルプルとした表面を無慈悲に割った。裂け目から、黄金色に輝く半熟の濃厚な黄身が、どろりと艶かしく流れ出す。
すぐさま、その流れ出した黄身と麺を丹念に絡め合わせ、ずぞぞぞと豪快に啜り上げた。
瞬間、卵黄の持つ圧倒的な包容力と濃厚なコクが口腔内全体に広がり、先程までのラー油によるピリリとした暴力的な辛さは見事に中和され、完全にリセットされる。塩気、辛味、そしてまろやかさ。計算し尽くされた味覚の三段活用である。黄身が溶け出して濁った、まろやかで優しい味わいのスープもまた、最後の一滴まで愛おしむように全て飲み干した。
プハーッ、と微かな吐息を漏らす。
最後のお口直し。
コップに残っていた冷水。
一気に飲み干す。
満足げに長い睫毛を伏せる。空になった三つの丼が乗ったトレイを持ち上げる。緩やかな動作で立ち上がり、そのまま指定された返却口のベルトコンベアへと向かう。返却口へトレイを滑り込ませ、迷うことなく大学の敷地内に設置された屋外喫煙所へと歩みを進める。世界最強の異能者であろうとも、いや、むしろそうであるからこそ、食後の至福の一服は彼女の精神的安定に欠かせない重要な儀式。
初夏を思わせる陽光の下、筮麽は羽織っていた薄手の上着のポケットに左手を無造作に突っ込み、異次元空間に物を収納する能力を極めて私的な目的のために使用した。
宇宙の物理法則を根本から捻じ曲げるその恐るべき力によって、彼女のポケット内の座標は一時的に絶対真空の亜空間へと接続され、そこから一つの小さな箱が現実世界へと引き摺り出された。
手の中に現れたのは、アークローヤルのパッケージ。銘柄は、芳醇な甘さを売りにしたキャラメルマキアート。
強化ガラスで仕切られた指定喫煙所の中へと足を踏み入れると、そこには既に食後か、または講義の合間の時間を潰す数人の学生たちの姿があった。
慣れた手つきで箱から一本のタバコを取り出し、その端正な薄い唇で咥える。フィルター部分に塗布された、砂糖菓子のようなくどいほどの甘い味が舌先に触れた。使い込まれた銀色のジッポーライターを取り出し、親指で弾いて小気味よい金属音と共に火を点けた。
チリチリと葉が燃える微かな音。彼女はこのような着香タバコに関しては、ニコチンを肺の奥深くまで吸い込むことはせず、あくまで口腔喫煙、いわゆるクールスモーキングによってその香りを楽しむことを信条としている。
ゆっくりと煙を吸い込む。口内でそのキャラメルのような濃厚な甘い煙を舌の上で転がした。味わいを堪能したのち、紫色の唇の隙間からふわっと白い煙を虚空へと吐き出す。
吐き出された煙が空中に拡散するよりも早く、喫煙所の天井付近を羽音もなく静かに浮遊しているこの時代の最新設備、超小型ドローンが展開する空間浄化結界が即座に作動する。見えない不可視のフィルターがタバコ特有の刺すようなヤニ臭さや有害物質を一瞬にして原子レベルで分解、浄化し、結果として空間にはアークローヤルの心地よいキャラメルのフレーバーのみがアロマテラピーのように漂うという、喫煙者にも非喫煙者にも配慮された極めて近代的なシステム。
紫色の髪を微風に揺らしながら、高身長で目を惹く美貌を持つ彼女が、気怠げな手つきで優雅にタバコを燻らせるその姿は、まるで一枚の映画のポスターのように完成されていた。喫煙所にいた男女問わず数名の学生たちが、その神秘的な佇まいに思わず魅入られ、言葉を失って彼女へと注目する。
だが、筮麽自身はそんな周囲の熱を帯びた視線など一切感知していないかのように、ただぼんやりと死んだ瞳で何処かを眺めて、周りを気にするそぶりは微塵も見せなかった。圧倒的なまでの自己完結。
やがて、根元ギリギリまで吸いきった一本目のタバコを、彼女は無感情に底に水の溜まった吸殻入れの穴へと投げ入れる。ジュッという短い断末魔のような音を立てて火が消える。そのまま二本目。さらには三本目と立て続けに火を点け、甘い煙を肺に入れずに堪能した後、満足したように喫煙所を後にした。
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紫煙の香りを微かに身に纏ったまま、筮麽は綺麗に整備された外キャンパスの遊歩道へと足を運んだ。午後の講義が始まるまでは、まだ一時間近くの猶予がある。
彼女はこれといった目的もなく、ただぼーっと虚空を眺めつつ、てくてくと適当な歩調で芝生沿いのレンガ道を歩いていた。
季節は初夏。吹き抜ける風には仄かな湿り気が混じり始め、キャンパス内の木々は眩しいほどの深緑の葉を茂らせている。暦の上ではもうすぐ待ちに待った長期休暇、夏休みに入ると言う時期なのだが、現在、筮麽の脳内は暗く重苦しい憂鬱の雲で隙間なく満たされていた。
その最大の要因は、他でもない夏期休暇期間中に課される膨大なレポートの存在。
彼女が所属しているのは、この大学でも比較的難易度が高いとされる国際コミュニケーション学部、フランス語学科。
そして、伝統と格式を重んじる───そして学生を苦しめるのが大好きなフランス語学科の老教授は、容赦のない通達を出していた。提出される全てのレポートは、一切の母国語を排し、完全なるフランス語によって記述・提出することが厳命されているのだ。
今回の課題内容は、〝二十一世紀フランスにおける異能黎明期の社会的受容と、十九世紀の文学者、バルザックの人間喜劇に見る群像劇的視座の考察〟という、日本語で書くことすら困難を極めるような、小難しくも学術的なテーマ。
だが、問題はそこではない。自ら「天才」と豪語し、事実それに見合うだけの圧倒的な頭脳と情報処理能力を誇る彼女にとって、フランス語などとうの昔にほぼほぼ習得済みの言語。さらに言えば、英語に関しても幼少期から慣れ親しんだかのようにほとんどネイティブレベルで流暢に操ることが可能だ。しかも、これらの語学力は何か都合の良い他者の能力を略奪した結果ではなく、彼女自身の純粋な学習と地頭の良さのみで獲得した「能力なし」の完全な実力なのだが。
それゆえに、皮肉な事実が存在した。
彼女の膨大な保有能力のストックの中には、過去にどこかの誰かからコピーして手に入れた言語習得の能力という、一見すれば夢のような異能も確かに存在している。しかし、いざ発動させて使ってみると、それはまるで黎明期の旧式AIが無理やり直訳したような、文脈もニュアンスもガン無視した極めてお粗末で機械的な翻訳しかできない代物だった。
あんなものは、現代の市販の翻訳アプリの足元にも及ばないゴミ能力じゃないのか。
筮麽は過去の落胆を思い出し、深い溜息を吐いた。彼女の高度な言語感覚からすれば、その能力は完全なるハズレ能力として処理され、結局実用には至らずに脳内のゴミ箱フォルダの奥底で埃を被っている。
語学の壁はない。テーマの理解も容易い。だが、それでも「数万文字に及ぶ学術論文を指定の言語でタイピングして構築する」という物理的な労働と知的作業の工程そのものが、根っからの怠惰主義者の彼女にとっては、拷問にも等しい耐え難い苦痛。
念じるだけで勝手に完璧なレポートが生成されて印刷までしてくれる能力、誰か持ってないものか。
そんな現実逃避の極みのような願望を抱きつつ、青空を見上げた。
彼女は現在、大学二年。年齢は二十歳を迎えている。世間の同級生たちがインターンシップだの、就職活動の早期準備だのと騒ぎ始めている中、彼女は自身の今後の進路をどうするかなどという厄介な問題については、これまで一切、ただの一秒たりとも考えてはいなかった。
彼女の価値観において、社会に出て労働の歯車となることや、未来の人生設計を構築することなどは、極力考えたくない忌避すべき概念であり、意識の最も深い場所にある忘却の彼方へと意図的に追いやっている。もし可能であれば、このままモラトリアムという名の永遠の温水プールに浸かり続け、親の金と友人の奢り、そして時折の気まぐれな能力の行使だけで一生を終えたいとすら本気で願っていた。
まだ、鬱陶しい午後の講義が始まるまでは時間がある。
筮麽は、重苦しい現実の課題からは目を逸らし、この無為な散歩をもう少しだけ延長し続けようと決意した。初夏の少し強くなり始めた日差しを全身に浴びながら、彼女はのんびりとした足取りで、当てもなく広大なキャンパスの中を彷徨い歩き続けた。
そんなこんなで、鬱蒼と生い茂る木々の間から差し込む木漏れ日を浴びながら、のそのそと広大な敷地内を歩行している筮麽。先程までの、己の今後の進路や就職といった自身の将来などという極めて都合の悪い思惟は、初夏の微風と共にすっかり脳内から消え去っていた。
現在、彼女の優秀な頭脳の大部分を占めているのは、本日の豪勢な夕食の献立についてであり、そして如何にして親友にして専属の財布たる柄長に次なる美食を奢ってもらおうかという、底なしの怠惰な欲望のことだけ。
時刻は昼下がり。天頂から降り注ぐ初夏特有の太陽光は、既にジリジリと肌を焼くような不快な熱気を周囲に放射している。しかし、筮麽の透き通るような白い肌には、一滴の汗すら滲むことはない。彼女は体温を下げる能力を発動させ、自らの肉体をややひんやりとする快適な温度帯まで強制的に冷却させているのだ。そして、すかさず体温を保つ能力を併用する。
これら二つの極めて利便性の高い能力の併用により、彼女の体温は周囲の過酷な環境要因を完全に遮断し、恒久的に最適化された。歩く完全空調設備と化しており、炎暑の屋外にあってもその精神的平穏は保たれている。
「行くぞっ! 指の力を五倍にする能力っ!」
突如として、静寂を切り裂くような女子学生の甲高い声が、木立の向こう側から響き渡った。
ふと視線を向けると、木陰の涼しい場所に女子学生が数人集まっており、なにやらペットボトルのキャップを弾き飛ばして遊んでいる姿が見受けられた。彼女らの眼前には、樹齢を重ねた巨大な楠の木が聳え立っており、その幹には手製の円形の的が貼り付けられている。的は同心円状に点数が書き込まれており、最も中心にある小さな赤い丸は百点という最高得点が設定されているようだ。
気合いと共に叫んだショートヘアの女子が、親指と中指を弾くフォームでキャップに狙いを定め、ピン、と鋭く弾いた。瞬間、空気抵抗を無視したかのようにギュンと凄まじい風切り音を立ててキャップが飛翔し、見事に的に激突した。だが、悲しいかなその着弾点は中心から大きく逸れ、的の端っこに辛うじて引っかかるような結果。
「くっそ~! 外れたかっ」
「あはは、力が強いだけじゃコントロールは難しいって。じゃあ次は私ね。見とけ~」
悔しそうにぐぬぬと唸る女子の後ろ。今度はポニーテールを揺らした次の女子が自信満々に歩み出た。彼女はキャップを指にセットすると、流れるような動作で弾き出した。
直後。
空中に放たれたキャップ。不自然なほどの急加速を見せた。
カン。乾いた音を響かせて的の中心の少し横に鋭く命中した。
「うーん、七十点か。おしいなあっ」
「うわー。相変わらず強いなぁ。その速度、反則級じゃん」
指力強化の女子が、目を丸くして感嘆の声を漏らす。
「あはは。まぁ、重さ制限が結構酷いから使い所が限られるけどね。あたしの物を加速させる能力、対象物が十グラムまでっていうケチな制約付きだし。それに、初速から爆発的に速くなるわけじゃないから、全体の速さだってまだまだしょぼいしね」
加速の女子は、己の能力の限界を自嘲するようにカラカラと笑った。
そして、次なる挑戦者の番が回ってきた。
「よっしゃー! いくぞーっ!」
元気いっぱいに跳ね回りながらはしゃぐ、小柄な女子。彼女が満を持して指に構えたキャップを、力任せに前方に弾き飛ばした。
すると、次なる瞬間。空中に放たれた一個のキャップは、空中でブレたかと思うと無数に分裂増殖し、まるで散弾銃の弾幕の如く広範囲に散らばって飛んでいったのだ。ババババッという連続音と共に、いくつものキャップが木肌や的に激突する。その無数の弾幕のうちのひとつが、見事に的の中心の赤い丸に命中していた。
「やったー! ど真ん中っ!」
その小柄な女子が、両手を挙げてピョンピョンと跳ねて大喜びする。
同時に、分裂して周囲に散乱していたはずの無数のキャップは、蜃気楼のようにスッと虚空に溶けて消え去り、本体であるたったひとつのキャップへと回帰した。それは、カランと音を立てて楠の木の下に虚しく転がっている。
「いやいや、それはいくらなんでもずるいって! 弾いた物を分裂させる能力とか、あんなに数が増えたら数撃ちゃ当たる理論で、絶対に当たるじゃんっ」
指力強化の女子が、納得がいかないとばかりに唇を尖らせて文句を言うが、当の分裂させた本人は全く気にしておらず、勝利の余韻に浸ってはしゃぎ回っている。
「うわー、相変わらずすごいチート能力だなぁ。見た目のインパクトがエグいよ」
「てか、これ何点になるのかな? 重複して当たってるから、二百点はいったんじゃない?」
「複数全部は点数にカウントされませーん。ルール違反ですー」
他のギャラリーの何人かが手を叩いて褒めそやし、指力強化の子はブーブーと文句を言い続ける。そんな喧騒の中、彼女らの列の最後尾に並んでいた、大きな丸メガネをかけた知的な顔立ちの女子が、見た目通りの聡明そうな口ぶりで静かに口を開いた。
「みんな、落ち着いて。私がしっかり見ていたけど、一番最初に当たったのは間違いなく真ん中の赤丸のやつだよ。だから、得点は百点で決定」
「ちょっ、あんたまでこいつの味方するのっ? 誤審だよ誤審!」
「違う違う。そんなに疑うなら、私のレンズを通して記録する能力で、証拠映像を確かめてみる? 」
丸メガネの女子が、自身の顔からスッとメガネを外して提示した。文句を言っていた子も含め、残りの女子たちが興味津々でその小さなレンズを覗き込む。
そうすると。その透明なレンズの表面。まるで超小型の液晶ディスプレイのように先程の物理現象の映像が鮮明に記録されており、無数に分裂したキャップ群の中で、一番最初の一個が寸分の狂いもなく的の真ん中に当たっている映像が、スローモーションで再生された。
「うわー、ほんとにど真ん中に当たってら……」
決定的な証拠を突きつけられ、指力の子はぐぬぬと悔しそうな顔をし、他の女子たちはおおー、と感心の声を上げる。
「でしょー? 私の実力だよっ! じゃあ文句なしで百点だっ!」
分裂の女子が、腰に手を当ててエッヘンと自慢げにふんぞり返った。
丸メガネの子が、役目を終えたメガネを再び顔にかける。だが、そのレンズには視力を矯正する度は一切入っておらず、あくまで彼女の固有能力を発動させるための触媒としての、単なる伊達メガネであるらしい。
全人類が例外なく何らかの異能を宿している、全人類選ばれし者と呼ばれるこの特異な異能社会。そんな途方もない世界とは裏腹に、キャンパスの片隅では、実に平和的で牧歌的な異能を用いた学生たちの日常風景が広がっていた。
筮麽。
それを少し離れた遊歩道から遠巻きに眺めていた。
一切の感情を交えることなく。
息をするように自然に自身の能力を使用した。
視認した能力を行使する能力。
そのヴァイオレットの瞳が彼女たちの振る舞いを捉えた瞬間、能力の複写プロセスは完了し、見事に成功した。
筮麽は即座に、彼女らがたった今披露した四つの能力を、自身の広大な精神の海へと完全にコピーし終えていた。このような構造が単純で制約の少ない能力は、彼女の模倣条件、能力の本質を知るという制約は容易くクリアできる。それにより、それこそ瞬きをするよりも容易く、一瞬でコピーすることが出来る。
歩みを止めることなく、筮麽はぼんやりと虚空を見つめながら、脳内に取り込んだばかりの真新しい能力を整理していく。
まず、加速、および指力強化。これらに関しては、既に自身が保持している上位互換の念動力系や身体強化系の類似能力と掛け合わせ、ひとつの洗練された能力として統合させる。
一方、分裂の能力は、使用後に分身が消滅してしまうという制約があるため、物質の恒久的な増量には使えず、実用性は極めて薄そうだと判断した。
レンズの録画能力に至っては、彼女自身がすでに有している完全記憶を行う能力や視界を録画する能力といった上位互換の能力が無数に存在する。そもそも、手持ちのホロフォンで動画撮影すれば事足りる話。
(これも、あれも、実用性は無さそうだな……)
筮麽は心の中でそう結論づけると、それらの不要な能力を、脳内フォルダの最深部にある暗く埃を被った隅の領域へと無造作に追いやった。
全人類が能力者であるとはいえ、その全てが都市を破壊するような強能力であったり、生活を劇的に向上させるような利便性があるものとは限らない。むしろ、大半の人間は先程の女子大生たちのように、日常生活の些細な暇つぶしにしか使えないような、微力で限定的な能力しか持ち合わせていないのが現実。
そして事実、世界を単身で滅ぼすことすら可能な彼女。その莫大な保有能力のストックもまた、その大半は世界中から無差別に収集してしまったが故の、実にくだらない、使い道の見出せない能力ばかりで構成されている。
彼女は現在、食事のペースを上げざるを得ないほどに悪化してしまった、あまりにも酷い自身の肉体の燃費を抑えるべく、密かな努力を続けていた。属性や性質などの共通点を持つ何百もの被り能力を混ぜ合わせることにより、システム上の保有数を減らしてひとつの能力に統一すべく、柄長と別れてからずっと、脳内のバックグラウンドにてフルオートでこの能力整理の作業を延々と行っているのだ。
能力同士を混ぜ合わせる過程で、先程の能力に付随していた「十グラムまで」や「分裂体が消える」といった鬱陶しいデメリットの部分は徹底的に削ぎ落として都合よく変質させ、逆に有用で有意義な部分は互いに共鳴させて極限まで強化していく。
ぼんやりと散歩しつつ、頭の中で高度な能力概念をパズルのように混ぜ合わせ、再構築していく筮麽。本人にその大層な自覚は全くないのだが、世界最強の能力者である彼女は、この燃費向上のための地味な整理整頓の行為により、その途方もない実力をさらに何十倍にも増幅し、神の領域へと進化させ続けていた。
だが、そんな恐るべき進化の過程にある彼女の脳内は、ただひたすらに、ひとつの世俗的な思考によって完全に埋め尽くされていた。
(あーあ、早く講義を終えて、美味しいもの食べて家に帰りたいなぁ……)
世界最強の能力者の、実に小市民的な溜息が、初夏のキャンパスの空へと虚しく溶けていった。




