第1話:黒羽は風に溶ける
ノイズのない都市というのは、何かが隠れているのではなく、何かがすでに終わった都市だ。
静寂。それ以外に疑いの余地はない。
世界には音が溢れすぎている。
時に音はノイズとなり、ノイズは時に音となる。
ノイズとは何なのか。
信じられるのは静寂。
それだけで十分だ。
深夜のプラハ第三区域。再構成された旧市街の石畳は、人工照明の粒子に濡れたように鈍く光っている。
空気は透明すぎる。情報層を透かして見ることに慣れたごく一部の者には、それが“沈黙の兆候”であると分かる。
広い警備室のスクリーンには犯罪指数のグラフ。
オーディン型演算AIの予測では、今夜の不安定要素は0.002%。限りなく無風。完全な秩序が維持された状態。
全セキュリティシステムは正常稼働。
ただ正常稼働しているのを見守るだけの仕事だ。
正直、この仕事に人間は要らないのではないか——男はそう考えていた。
セキュリティオペレーターの男は無意識に喉を鳴らした。理由はなかった。あるいは、理由が存在しなかった。
‐こちらデルタ2、警備室、誰かB7を通過したか?
男は音声通信を受け取った。巡回している現場の警備からだ。
先ほどからスクリーンを眺めているが、監視カメラ映像に異常はない。
「いいや」
彼の返事はそっけない。
こんな夜に侵入者なぞいるわけがない、バカバカしいと彼は思った。
各所に展開している全天候型監視ドローン、数多のAI搭載の超高感度カメラ、各セクションでは生体認証が求められる。
この鉄壁の警備システムに疑いをかける余地はない。
しかし、実際は通過したのだ。音も記録も残さず、ただ“静寂”だけを残して。
世界企業連盟にも加盟している巨大企業ヘリックス・ネットはグローバルな通信網と多種多様な情報デバイスを市場に提供している。三年前には国連でも採用された分散型AIオーディンのAIクラスタを導入、更なる成長を続けている。
チェコではヘリックス・ネットによる高度な犯罪予防ネットワークを試験的に採用。あらゆる事象を演算し、それら危険因子へ最適に対応できるオーディン型AIは、まさに警察や行政にとって救世主であった。
だれしもがオーディン型AIの判断を疑わない。
別の地点。
ヘリックス・ネットのプラハ支社、通路B7。
巡回している警備員のトマーシュ・ドヴォジャークは見慣れているはずの通路に“違和感”を覚えた。それはここに入った瞬間である。
視覚補正デバイスで薄暗い夜間でも、視野は広く確保されている。見ている光景に異常はない。
事実、監視カメラでも異常はなかった。
そのはずなのだが、言葉にはできない変化が確かにある。
直感? 錯覚?
説明がつかない変化に彼は惹きつけられた。
彼を掴んで離さない引力。
引き返すという選択肢はなかった。
通路の十字路を右に曲がり、通信タワーへ。
そこにいたのは黒髪の女性。彼女は何もしていない。
ただ、立っていた。立っていることが、既に何かだった。
心の中で「彼女に近づきたい」という衝動が沸き上がる。好奇心なのか、恐怖心からくる防衛反応なのか、彼にも分からない。
一歩進むごとに、女性の背中が大きくなっていく。
心臓の高鳴り。呼吸の乱れ。トマーシュの脈が速くなる。
彼の足は止まらない。
ただ、残念なことに、彼の目に映っていたのは、彼女の背中ではなかった。
空間のズレだった。
彼が見ていたのは“静寂”だった。
次の瞬間、トマーシュは倒れた。
誰にも気づかれず、音も立てず。監視カメラには何の異常も記録されていない。
静寂に包まれた女性は、背中に大きな長方形のケースを背負っている。階段を音も立てずに上り、電子ロックされているはずの最上階ドアを開いた。
高度は約520メートル。
警備室へ異常の通知もないまま、彼女はメンテナンス用通路の端でケースを下ろし、空を見た。
午前1時22分47秒。
通信タワーから水平距離で10.3キロ。
上空250メートル。
とあるPMCの多用途ヘリ「ハウンド9」が中央官庁街を監視巡回していた。
これは周期的に行われる深夜パトロールだった。
搭乗しているのはPMCのデータ統合戦略室長。
彼の右隣には補佐官もいたが、彼に声をかけることもなく、視覚デバイスのAIが指定した通りに視線を移し、街を眺めていた。
飛行ルートは全て最適化され、地上の警備班も効果的に配置されている。
彼は自らの業務をただこなす。
失敗なく、確実に。
それは仕事であり、同時に彼の誇りでもある。
機内は静かだった。
それは異様なまでに“秩序化された沈黙”だった。
その瞬間、窓の外がほんのわずかに歪んだ。
誰もそれを見ていなかった。
ただ、それを見ていたはずの補佐官の視線が、ほんの一瞬だけ遅れた。
次の刹那、男の頭部が——中心から崩れた。
銃声も閃光も観測されていない。
ヘリのパイロットはこの異常事態にも関わらず、当初の飛行ルートを維持していた。
事件直後、PMCの調査班がただちに狙撃された時の座標を参照し、地上の調査を進めた。住民のGPS位置情報だけでなく、周囲の防犯カメラ映像も、車両のドライブレコーダーも徹底的に分析したが、犯人の姿はなく、何なら不審者すら映っていなかった。
翌日、調査分析官が総合警備部長へ報告を上げた。
「半径5キロメートル圏内で異常は確認されませんでした」
「何もか?」
あまりにも想定外の報告に部長は思わず、問い直す。
「——正確に言えば、カラスの羽と思われる黒い羽根が、狙撃された座標のほぼ真下に落ちていました。それだけです」
「カラスの羽根だと?」
「はい。それと本件とは関係ないと思われますが、今朝、ヘリックス・ネット社で夜間警備業務を担当していたトマーシュ・ドヴォジャークが、急に退職届けを出したという話を人事部から……」
「もういい、十分だ。下がりたまえ」
これは自分の管轄で収まらない、部長は状況を理解した。
この報告は一部の者だけにアクセスを制限。
追加調査は上の指示がない限り、行わない決定を下した。
新聞やメディアはどこも昨夜の事件に言及せず、市民も特にいつもと変わらない。
新たな一日がまた始まった。それだけだ。
一人の命が消えたこと、このことは記録に残されなかった。
ただ、この街を抜けていく風だけが、黒い羽根の持ち主を知っていた。