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ドクターのささやき

「キミたち、どこか空気が変じゃなかった? 上手く言えないんだけど、環くんや風花さんのことで落ち込んでいるってのとはまた違った意味で」


 さすがに会沢医師は鋭い。彼女の後についていつもの診療室へ入るなり、まずかけられたのがその言葉だった。


「やー、おかしかったですかね? 自分たちではちょっとそういうのってわからないもんですから」


 いつものようにへらへらごまかそうとするおれを、眼鏡の奥にある切れ長の目が厳しく見据えてくる。


「本当に?」


「どうしたんですか、今日に限って。えらく食い下がってきますねえ」


「別に、何がどうしたってわけではないんだけど」


 そうは言いつつも、彼女の視線はいまだおれを射るような鋭さを失っていない。

 これだけのやりとりでほぼ確証をを得たも同然だった。おそらく彼女はクロだ。


 であれば、おれにだって感情を剥きだしにして糾弾してやりたいという思いはある。どうして三輪さんをあんな目に遭わせた、と。


「それはともかく、切羽詰まってるのにいきなり呼びだしてごめんね。昨日測っていなかった数値があったものだから、ちょっと急ぐ必要があったの」


 そんなおれの内心を知ってか知らずか、事務的な話を穏やかに切りだしてきた。

 けれどもあえて彼女の言葉には返事をしない。


「ねえセンセイ。昨日言ってた、NNBFを根絶させたいってやつ。あれ、どこまで本気なんですか」


 あくまで世間話である風を装ってはいるが、あまり自信はなかった。


「そっか、まだ言ったことなかったっけ。私ね、今まで男の人と一度だけしかお付き合いしたことがないのよ。しかも高校時代のことだから、もうけっこうな昔の出来事よね」


 白衣姿の会沢医師がまだ立ちっぱなしだったおれに椅子へ座るよう手で促してきたため、そこは素直に従う。

 手元にあるタブレットの画面に触れながら彼女が言った。


「若松くんっていって、とても成績の優秀な人だった。キミたちでいうと智也くんみたいな感じかな。穏やかで、他人の悪口を言っていたのを聞いたことがない、そういう柔らかい人。誰からも将来を嘱望されていた彼には夢があった。ドルフィントレーナーになりたいってのが口癖みたいになってたの。幼い頃に家族で見たイルカに心を奪われてたんだって。ふふ、子どもみたいでしょ。結局、彼は大学ではなくそっち方面の学校へ進むことに決めてしまった。私には一言の相談もなく、ね」


 ディスプレイに表示されている数字を眺めながらも、彼女の横顔はどこか心ここにあらずといったように見える。話している内容がそんな気にさせるのだろうか。


「彼と同じ大学に行くんだーって必死に受験勉強を頑張ってたものだから、すべてが決まった後でそのことを聞かされたとき、勝手に裏切られた気持ちになっちゃったのよ。まだ幼かったんだろうね、怒って泣いて交際を解消した私はそれっきり彼と口をきくこともなく卒業してしまったの」


 高校時代の彼女はまるでおれたちと同じだ。悩んで、足掻いて、親しい人だからこそきつく当たってしまう。

 できることなら大人になる前の会沢遥に会ってみたかった。


「大学に進学し、アメリカに渡っても日本に戻ってきても、ずっと後悔し引きずっていたんだと思う。キミたちが住んでいた新納市に新しく水族館ができるってニュースを見たとき、ほんの気まぐれで彼がいるかどうか調べてみたのよ。そしたら名前があるじゃない。ほんと、あのときはドキッとしたな」


 そう言って彼女は髪を耳にかけた。


「もう一度付き合いたいとか、そういうわけじゃないの。ただ、自分の幼い感情ばかり投げつけたことを会って謝りたかった。そのための機会が私みたいな人間にも与えられたんだって、いつか絶対に会いに行こうって、そう思ってた」


 この先はもう、聞かなくてもわかる。


「でも、その『いつか』は消えてどこにもなくなってしまったのよ」


 彼女も身を切られるような痛みを味わった当事者の一人だったのは初めて知らされる事実だが、しかしそれでおれのやるべきことが変わるわけではない。


「だから三輪さんを利用したと?」


 端的に、今のおれにとって最も重要なことのみを問い質した。


「かつての恋人を奪ったNNBFに復讐するために、そうやってバカな子どもであるところのおれたちを上手く騙していたわけですか」


 頭のいい彼女のことだ、すでに予測はできていたのだろう。まるで驚く様子も見せず淡々と答えを返してくる。


「やっぱりそこまで気づいていたのね。でも動機はちょっとだけ違うかな」


 そう言いながら採血するためにおれの腕をとる。彼女の指がやけに冷たかった。


「でもキミたちならわかるでしょ? 持ちかけたのはたしかに私だけど、風花さんのような性格ならむしろ積極的に関わってくるだろうことまで」


「世間じゃそういうのを利用したって言うんだよ……!」


 感情を抑えきれず、吐き捨てるような口調になったおれに対し、それでもなお受け流すかのごとく会沢医師は微笑みを浮かべたのだ。


「なら航くん、キミだったらどうする? もしかしたらみんなを助けられるチャンスなのかもしれない、そこに自分が何かしら大事な役割を果たせるかもしれない。それでもただ黙って目も耳も塞ぐつもり?」


「おれなんかでよければいくらだって使えばいい! それでみんなが助かるなら願ったり叶ったりなんだよ! だけどさあ、何で三輪さんなんだよ……。あんな優しい子が生贄みたいになるなんて、そんなのどう考えてもおかしいだろうが……」


 最後はほとんどすがりつくような哀願だった。


「あまり暴れないで。あと、それは嘘ね」


 あくまで医師としての態度を崩さない彼女が、注射器の準備をしながらたしなめた。おれの心の内を見透かしたみたいに会沢医師は続ける。


「誰であれ、きっとキミは同じセリフを口にするよ。自分以外の人であるかぎりは。そして、それは風花さんも同じだった」


 おれの腕にごく細い注射器の針がゆっくりと侵入してくる。


「キミたちを信用していないわけじゃないけど、おそらく環くんを説得はできないでしょうね。残念ながら、風花さんの意思はまるっきり無駄だったことになる」


 シリンジ内が赤い液体で徐々に満たされていくのを眺めながら、彼女の言葉に有効な反論もとっさには思いつけず、ただなす術なく歯ぎしりするのみだ。


「でも、道はもうひとつあるのよ。他の誰かが被験体を買って出てくれさえすれば、もしかしたら風花さんだって治る見込みがあるかもしれない」


 柔らかで魅惑的なその声はまぎれもなく、悪魔のささやきに等しいものだった。


「ね、航くん。キミならどうする?」


       ◇


 織姫と彦星を分かつ天の川のごとき扉の封鎖がようやく解かれようとしていた。


 緊張を隠せないでいる両隣の神谷と坂本だけでなく、工藤や修介、智也、そしておれにとっても、長くはなくされど短くもない人生において最も重要な時間が幕を開ける。

 そしてもう一度、高く跳ぶのだ。天の川へだって届くほどに。

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