おにぎりを渡さなきゃ
結局、おれたちは全員でアトリウムへ向かうことを決めた。
当初は会沢医師も「環くんをまた刺激してしまうのでは」と危惧していたが、
「さっきはおれが間違っていました。本当に考えなしのバカだった。市ノ瀬と三輪に謝ります。ですから、どうか」
そう言って修介が頭を下げたことでどうにか認めてもらえたのだ。不貞腐れているのだとばかり思っていたやつの行動におれも周りのみんなも驚いたが、同時にほっとした。全員揃って市ノ瀬と三輪さんに会いに行かなくては意味がない。
警備員が脇に退いている扉の前で、おれは長く、静かな深呼吸を繰り返した。心臓はこれまで経験したことがないほど強く脈打っている。
隣に立つ長身の神谷は籐のバスケットを胸の前で大事そうに抱えていた。バスケットの中身は先ほどみんなで握ったおにぎりだ。
〈ユキザサ〉側は「交渉のついでとして自分たちで作ったものを市ノ瀬たちに差し入れたい」というこちらの申し出にも難色を示したが、ここは神谷が一歩も引かなかった。
「フーカ、きっとお腹が空いてるだろうから」
認めてあげましょう、という会沢医師の後押しもあって、簡単なものならとの条件付きで許可が下りた。そこで神谷が選んだのがおにぎりだったのだ。
だだっ広い食堂の隅っこを借り、おれたち六人は時間も限られているため黙々と取り組んでいた。おにぎりなど握ったことのない男子どもは飲みこみの早い智也以外の全員が悪戦苦闘していたが、さすがに工藤は慣れた手つきだった。
そして誰より形の整ったおにぎりを握るのが神谷だったことに驚く。
声にこそ出さなかったがみんなのそんな視線を彼女自身も感じたのだろう、独り言のようにして小さな声で話しだした。
「あたし、自信もって作れるのがおにぎりだけなんだ」
手はどうにか動かしつつ、耳だけを神谷に傾ける。
「両親ともに朝が早い仕事だったし、遠足なんかがあるとあたしが自分で弁当を作らなきゃいけなくて。おにぎりだけしか作れないからほんと恥ずかしくてさ」
眠い目をこすりながらも早起きし、エプロンを着けて手際よくおにぎりを握っていく神谷まひろ。その想像はなぜだか意外なくらいしっくりときた。
「中学に上がって最初の遠足だよ。その頃すでにいっぱしの問題児気取りだったあたしと一緒に弁当食べようなんてやつがいるはずないからね、ハナからみんなと離れた場所でおにぎりだけの弁当箱を開けたんだ。そんな弁当を見られたくないってプライドも邪魔したんだろうってのが今ならわかるけど。そしたら『おいしそうだね』って声がするもんだからびっくりしてさ」
目を細めて坂本が「風花らしいよな」と静かに笑っている。
「そう。何なんだろうね、本当は誰かに一緒にいてほしいとき、すっと隣にいてくれるあの子の優しさは。もちろんそのときのあたしはフーカに対して邪険な態度をとった。勝手に人の弁当をのぞいてんじゃねえって怒鳴ってしまった。なのにあの子ときたら全然怯える様子もなく『今度わたしにも握り方を教えてくれる?』ってにこにこしながら言うんだよ。参るよな、まったく。一生勝てないよ。勝てっこないよ。だからずっと隣にいてほしかったのに」
絞りだすように言い終えてから彼女は目元を白衣で拭う。そしてそれっきり黙りこんでしまう。
しばらくまた沈黙が続いたのち、今度は智也が口を開いた。
「ごめん、ちょっと話題を変える。やっぱりどう考えてもおかしいんだよね」
いつもは優しげな顔つきの智也の眉間に深いしわができている。
険しい表情のまま、彼は「昨日からずっと気になってたんだ」と話しだした。
「第四病棟の子が発症した話、覚えてる? 会沢医師は間違いなく『発症してから二時間後に死亡』と言った。辛い記憶を思い出させるようで申し訳ないけど、これまでそんな死に方をした人はただの一人としていなかったよね。どれだけ長い痙攣でもさすがに十分もは続いていないはずだよ」
おにぎりを握りながら、おれは津野恭吾の死に際を思い出していた。確かに智也の言う通りだ。
しっかりとした口調で彼が話を進めていく。
「もちろん三輪さんの発症だって明らかにおかしい。NNBFにはそういう例外もあるんだろうかって最初は考えたけど、今まで存在しなかった症例が連続で起こるのを偶然と呼ぶにはあまりにも不自然すぎる」
「〈ユキザサ〉の連中を疑っている市ノ瀬が正しい、と?」
おれの言葉に黙って智也が頷く。
「うーん。智也先輩にそう言われると、あーそうかもって気になりますけど、でもわたしたちを発症させるメリットがあの人たちにありますかね」
もっともな疑問を差し挟んできたのは工藤だ。
彼女の質問を受け、智也はよりいっそう苦しそうに顔を歪めて応じる。
「あくまでぼくの推測でしかないんだけど、たぶん、発症させようとしたわけじゃない。悪意によるものじゃないんだ。NNBFを完全に治す方法を探す、その過程で起こったアクシデントなんだと思う。推論を重ねて申し訳ないけれども、新薬投与の副作用って線が強いんじゃないかな」
おれの脳裏に、三輪さんが会沢医師の診療室から出てきた場面が甦ってきた。あのときの彼女はその場にいた理由を話すのになぜか歯切れが悪かった。
まさか、まさかだろ。
内心の動揺をおくびにも出さないよう、努めて平静を装いながらおれは言った。
「じゃああれか、〈ユキザサ〉全体で臨床実験をやっているって、そういうことなのか」
全員の視線が集まるなか、少し考えこむ素振りをみせた智也から返ってきたのは「あくまで推測に過ぎないんだけど」という再度の前置きと、それに続く返答だった。
「全体でのものなのか、個人の独断によるものなのかはわからない。でも、おそらく会沢医師は噛んでるよ」
推論とはいえ慎重な智也のことだ、口に出したってことはほとんど確信に近い結論なのだろう。
「会沢医師と三輪さんはよく面談というか、談笑していたよね。もしぼくの仮説が間違ってなければ、三輪さんは進んでその役を引き受けたんじゃないかな」
ああ、と眩暈にも似た納得がおれの全身を覆っていく。
おれの、そしてみんなの知っている彼女ならきっとそうする。間違いなく。
友人たちのために。苦しむ見ず知らずの人たちのために。市ノ瀬環のために。
「──なんで。なんで、なんでよフーカ!」
叫んだ神谷にもそれがよくわかっているはずだ。いつの間にか最後の一個のところまでやってきていたおにぎりは彼女の手で握り潰されてしまっていた。
もし智也の推測通りであるならば、誰を責めればいいとかそういう問題でないのはみんなわかっている。
だからこそ感情のやり場さえなく立ち尽くすよりほかになかった。
だが、タイミングがいいのか悪いのか、おれたちのいる食堂へとやってきた話題の張本人が、遠く離れた入口から澄んだ声で呼びかけてきたのだ。
「ああ、よかった。まだここにいたのね。航くん、アトリウムへ行く前に少しだけ時間をもらってもいいかな」
その声を聞いた瞬間、おれはとっさに右手を軽く上げた。
声の主である会沢医師に対してではなく、大切な五人の友人たちに向けて。
「──わかった。航に任せる」
意を汲みとってくれた智也が小声で返事をする。
長い付き合いである修介は智也とおれの判断を尊重してくれるだろうが、二人の少女はそうもいかない。彼女たちを見ずとも、おれか会沢医師のどちらかへ強烈な怒りの視線を送っているのだけは空気でわかった。
それでも黙ったままでいてくれたことに感謝しつつ、「ちょっと話してくるわ」とだけ言い残しみんなに背を向けて歩きだした。
指にくっついている米にようやく気づき、どこかで手を洗わなきゃなとぼんやり思いながら。




