暗狐
我が家の離れに独り寂しく住んでいる妹は、実の父に不吉と言われ、生まれて直ぐに遠ざけられた。父が言う事には、妹は狐憑きであるらしい。離れは嘗て蔵として作られた頑丈なもので、昼でさえ日の光が射さぬ。妹は暗闇の中で、いつも独り遊んでいるのだ。家の者も狐憑きの娘を恐れて、誰も近寄らぬ。
しかし、暗闇の中に住む妹は、そのような周囲の事を知ってか知らずか、どこまでも無垢な魂のままである。
初夏の風を入れようと、縁側の障子を大きく開ける。そこから見える離れに視線をやると、鈴を転がすような声が耳の奥へ密やかに忍び込んできた。
『…お兄さま、お外の様子を見ておいでなの?』
妹の声である。離れにいるはずの妹の声が、私にだけは届くのだ。時を同じくして生まれた、私の耳にだけは。
『ああ、庭に桔梗が咲き始めたよ』
素敵、と、妹は喜んだようだった。
『わたし、これが何と言う名前の色なのか分からないのだけれど、桔梗というお花は、とても奇麗な色をしているのね』
庭で蕾を開き始めた桔梗の美しさを、妹は見る事さえ許されぬ。私と時を同じくして生まれたというだけで、実の父から不吉と呼ばれ、危うく首を折られる所であった妹を思うと、私は今すぐにでも離れへ跳んで行ってその手を握り、日の下へ連れ出してやりたいと思った。しかし臆病な私は、父に逆らえない。
こうして繋がっているのに、離れと母屋は酷く遠い。私はため息をついて肩を落とした。
『何をそんなに落ち込んでいるの? 変なお兄さま』
からかうような口調でいい、妹はくすくすと笑った。人の気も知らぬ気に笑う妹に、しかしなぜか嫌な感じはしなかった。妹が笑えば、私の気苦労も吹っ飛ぶのだ。
『また時々、わたしにお外の様子を教えて下さいな』
耳の奥へ潜り込んでくる妹の声の、何と優しい事か。これが狐憑きの所業だというのか。私には信じられない。
縁側でサンダルに履き替え庭に出る。桔梗の花を指でなぞりながら、私の声と妹の声が、耳の奥で重なった。
「『なんて、綺麗なお花…』」
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「暗狐」 了




