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第一章 港の雨

この物語は、最も速いドライバーの物語ではない。


誰よりも優れた才能を持つ者が、たった一人で勝利をつかむ物語でもない。


サーキットを走る一台のマシンは、無数の選択によって生まれている。

タイヤの空気圧、サスペンションの硬さ、ギア比、燃料の量、そして、わずか数ミリの調整。


その一つ一つの背後には、誰かの観察があり、誰かの疑問があり、誰かの言葉がある。


ドライバーは、マシンの感触を伝える。

エンジニアは、数字の中から異変を探す。

メカニックは、手に残る感覚を言葉にする。

そしてチームは、互いの意見を重ねながら、次の一歩を選んでいく。


正しい答えが、最初から用意されているわけではない。


迷い、疑い、失敗し、それでも話し続けた先で、ようやく一つの選択が形になる。


対話が選択を生み、選択が未来を変える。


『Epilogue』は、そんな人々の物語である。


華やかな表彰台の裏側で、誰にも見えない時間を積み重ねる者たち。

勝利よりも先に、まず互いを信じることを選んだ者たち。


これは、終わりから始まる物語ではない。


終わったと思っていた場所から、もう一度走り始めるための物語だ。

雨は、港を離れることを忘れたように降り続いていた。


防波堤の向こうでは、灰色の海と空が境目を失い、停泊した貨物船の輪郭だけが霧の中に浮かんでいる。路面には倉庫の照明が細長く映り込み、風に押された雨粒が、その光を何度も揺らしていた。


僕は濡れた鞄を片手に、港湾地区の外れにある建物を見上げた。


古い倉庫を改装したような外観だった。黒い外壁の中央には大きなシャッターが並び、その上に白い文字で名前が記されている。


Rotaryauto Racing


派手な看板はなかった。


過去の優勝を誇示する垂れ幕も、所属ドライバーの写真も見当たらない。ただ、半開きになったシャッターの奥から、工具の音と低いエンジン音が聞こえていた。


本当にここでいいのだろうか。


そう思いながら入口へ近づくと、作業服を着た若い男が台車を押して出てきた。僕の姿を見るなり、濡れた封筒と鞄を交互に眺める。


「見学なら、今日はやっていませんよ」


「見学ではなくて、今日からこちらで働くことになっています」


封筒を差し出すと、男は一瞬だけ目を丸くした。


「新しいエンジニア?」


「いえ、インターンのチームマネージャーです」


その言葉を口にするたび、まだ自分のものではない肩書きを借りているような気がした。


男は封筒を開かずに僕へ返すと、シャッターの奥を振り返った。


「ギルバートさん、来ましたよ」


工具の音が止まり、車体の陰から一人の男が姿を現した。


五十代ほどだろうか。灰色の髪を短く整え、濃紺のシャツの袖を肘までまくっている。責任者らしい威圧感はなかったが、周囲の人間が彼の声を聞く前から、自然に動きを緩めた。


男は僕の前まで来ると、濡れた肩を見て、近くにあったタオルを差し出した。


「雨の中、ご苦労だったね。エンキ・ギルバートだ」


「本日からお世話になります」


僕が頭を下げると、彼は封筒にも履歴書にも目を向けず、ガレージの奥を指した。


「話は中で聞こう。ここに立っていたら、君の初仕事が風邪をひくことになる」


ガレージへ入った瞬間、外の雨音が遠ざかった。


代わりに聞こえてきたのは、インパクトレンチの乾いた音、金属部品が触れ合う響き、短い指示を交わす人々の声だった。


中央には一台のレーシングカーが置かれていた。


黒を基調とした低い車体に、白い Rotaryauto の文字が伸びている。フロントカウルは外され、内部の配管やサスペンションがむき出しになっていた。


Asoluto。


写真では何度も見たことがある。しかし、目の前の車体は画面の中にあったものよりも小さく、

同時に大きく感じられた。


それは完成された工業製品ではなく、無数の判断と妥協を積み重ねた結果として、

今ここに存在していた。


「レーシングカーは好きか?」


エンキが尋ねた。


「好きです。ただ、速さよりも、どうして速く走れるのかを考えるほうが好きでした」


「なるほど」


彼は少し笑い、作業を続けるエンジニアたちへ目を向けた。


「それなら、ここは退屈しないだろう。ただし、答えがすぐ見つかる場所だとは思わないほうがいい」


僕たちはガレージの奥にある小さな事務室へ入った。


机の上にはレーススケジュール、部品表、タイヤ使用記録、走行データが雑然と置かれている。一見すると整理されていないようだが、エンキは迷わず一冊のファイルを取り出した。


「君にお願いしたいのは、会議の記録と部門間の調整、それから走行データの整理だ。チームマネージャーといっても、最初から何かを決めてもらうつもりはない」


「では、僕は何をすればいいのでしょうか」


「見ることだ」


エンキは椅子へ座らず、窓越しにガレージを見ながら続けた。


「誰が何を考え、何を伝えられずにいるのかを見る。数字だけでなく、人の言葉を聞く。そして、必要なときに質問する」


「質問ですか」


「正しい答えより、正しい質問のほうが役に立つこともある」


そのとき、ガレージの中央でエンジンが始動した。


低い振動がガラスを伝い、机の上の紙をかすかに揺らす。


エンキは音の変化に耳を澄ませ、それから僕へ顔を向けた。


「初めてだったね」


「はい」


彼は扉を開け、光と音に満ちたガレージを示した。


「ようこそ、Rotaryauto Racingへ」


外ではまだ雨が降っていた。


けれど、その言葉を聞いた瞬間、僕には長く続いていた雨が、ようやく止み始めたように思えた。

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