第三十節 白い光のグルーヴ
煙は、すぐには消えなかった。
天井へ登りきる前に、何度もたゆたい、ほどけ、また寄り集まる。形を持たないまま、確かにそこに在り続けるもの──それはどこか、今のルナシアの内側に似ていた。
吸い込んだ息が、胸の奥でゆっくりと沈む。
「ま、ガールズトークってのは冗談だよ。パパを締め出したりしないから安心しな」
ルナシアは、そっと胸を撫でおろす。
ファルマが善人であることは頭で理解していても、彼女への経験値はまだ蓄積されていない。ロギアという最大の防波堤なしでこの空間に留まるのは、できれば避けたかった。ガールズトークという言葉に一瞬身構えたが、緊張がわずかに緩む。
「女同士の話は妙に生々しいからね。寝た男の感想とか、ムダ毛の話とか、男の幻想を壊すものばかりさ。女子率が高いと、どうしてもそっちに──」
ファルマの視線が順番に巡り、オルドで止まる。
感情の窺えない、星空と海を宿した姿。肌は陶器のように滑らかで生気はなく、性別は不明。
「まあ、パパがいいならいいさ。嬢ちゃんだってその方が落ち着くだろうし。茶でも出すよ」
「私は父親ではない」
「でも守るべき対象ではある、だろ?」
軽く紡がれた言葉の含む意味は、重い。
ロギアはわずかに視線を落とす。否定の続きも、肯定への転換もないまま、ただ一瞬だけ沈黙が差し込まれる。揺れる煙のように、その間は曖昧で、形を持たない。
「……定義の問題だ」
やがてそう返す声は、淡々としていた。完全な拒絶でも、肯定でもない。
ファルマは肩をすくめる。
「便利な言い方だね。まあいいさ、どう呼ぶかなんてのは外野の勝手だ」
くるりと踵を返し、奥へと消える。足音は軽く、しかし確かにこの空間へ重みを残していった。
用意されたのは、不思議な香りのする薬膳茶。癖になるような、鼻腔に残る香りだった。コギトの前にだけ、濃い色の果実水が置かれた。コギトは瞳を輝かせ、喉を鳴らしながら豪快に飲み干す。
「んまーい! なんだこれ!」
沈みかけていた空気が、コギトの一声で持ち上がった。香木から昇る煙も、心なしか軽やかになったように思える。
「おかわりならあるから落ち着いて飲みな。果樹園のじいさんとこで簡単な仕事すりゃ譲ってもらえるから、あとで場所教えてやるよ」
ぱん、とファルマが手を叩く。乾いた音が、煙の層をわずかに震わせた。
「さて、と。世間話はここまでだ」
先ほどまでの軽さを残しながらも、声の芯にわずかな硬さが混じる。空気が、ほんの僅かに締まった。
ファルマは卓に手をつき、視線をルナシアへ落とす。
「嬢ちゃん、どこまで聞こえてる? 聞こえてるもの全部、言葉にしてみな」
ルナシアの視線が一段下がる。集中しているというより、刺激の言語化に苦戦しているような色が顔を覆う。
「みんなの呼吸音と、木が少しずつ燃える音……内容はわからないけど、外でいろんな人が話してる。お昼ご飯どうするとか、そんな話。あっ、今子供が転んで、女の子が……泣きながらお母さんを探してるけど、近くにいなくて──」
「そこまでだ」
ぽん、とルナシアの肩に手が置かれた。細く、しなやかな手。
トン、と指で机を叩く。
「この音に集中して。他は捨てな」
トン、トン、トン。
「それはあんたが抱えなきゃいけないもんじゃない。届いたもの全部に応える義理なんてないんだ」
トン、……トトン、タン。
音と音のあいだに余白が生まれ、隙間へ空気が流れ込む。壁が、音を受け止めて返す。香木の煙が拍に合わせてほどけ、揺れに規則が宿る。
とん、……ととん、たん。
光が温度を帯び、影の輪郭が溶ける。低く唸るベースのような錯覚。誰かが息を潜めて耳を傾けているような、静かな熱。
ここは、夜の奥にある場所になっていた。
とん、とん、とん。
「いいかい、嬢ちゃん。拾う音は選べる。あんたの中に入れるものも、同じだ」
刻まれる拍が、ルナシアの意識を外から引き剥がす。外の喧騒は遠のき、断片だった声はほどけて消えていく。
残るのは、机を叩く音と──自分の呼吸だけ。
「全部聞こうとするな。全部抱えようとするな」
ととん、たん。
「ここにあるもんだけで十分だろ?」
煙が、ゆっくりとひとつの流れになる。ほどけず、散らばらず、形を持ったまま揺れる。
ルナシアの視線が、わずかに上がった。
パパパパン!
満面の笑みでコギトが演奏に加わる。感じるまま、思うまま、手で机を叩く。
ファルマとコギトの音に合わせて煙も踊り、揺れる光が場を照らす。
「ふふ、いいね。学生時代にドラムをかじったんだ。音楽にはうるさいぞ?」
とん、パパン、ととん。たたん。パチン。
膝を叩き、机を叩き、指を鳴らす。本能のまま音を鳴らすコギトを支えるように、ファルマの指が拍を刻む。
拍は、崩れない。
コギトの奔放な打音を、ファルマの指がすくい上げ、ロギアが繋ぎ、整える。ばらばらだったはずの音が、いつの間にかひとつの流れになっていく。
跳ねるリズムの奥に、芯が通る。
煙はもはや漂うだけではない。拍に合わせて揺れ、音を追随し、見えるリズムのように形を変える。光が柔らかくなる。影が踊る。
ルナシアの呼吸が、わずかに変わった。
吸う、吐く。
その間に、ほんの僅かな″間〟が生まれる。
とん、とん、とん。
机を叩く音が、呼吸に寄り添う。
「そう、それでいい」
ファルマの声は、もう指導ではなく伴奏に近かった。
「外の音は流していい。あんたが選んだもんだけ、ここに置きな」
トトン、タン。
コギトが笑う。
「嬢ちゃんもやれよ! ほら!」
ぱん、と両手を叩いて、無邪気に促す。
その音が、妙に遠くない。すぐそこにある。届く距離にある。
ルナシアは、ほんの一瞬だけためらった。
だが──
ゆっくりと、手を上げた。
机に触れる。ひやりとした感触。その輪郭は、さっきまでよりもはっきりしている。
小さく、叩く。
とん。
音は、確かにそこにあった。外へ逃げず、内側で響く。消えない。
とん。
もう一度。今度は、ほんの少しだけ強く。
とん、……とん。
不揃いな拍。だが、確かに″自分の音〟。
その瞬間、ファルマの指がそれを拾う。コギトの打音が、隙間を埋め、ロギアが整えていく。
ととん、パパン、たん。
ルナシアの小さな音は、消えないまま流れの中に組み込まれていく。拒まれない。弾かれない。ただ、そこに在るものとして扱われる。
胸の奥で、何かが静かに収まる。
「……あ」
漏れた声は、驚きに近かった。
さっきまでの、あの″外から押し寄せる感覚〟がない。代わりにあるのは──自分の呼吸と、自分の音。
「それが″選ぶ〟ってことさ」
ファルマが、軽く笑う。
とん、とん。
「全部じゃなくていい。ひとつでいい」
パチン、と指が鳴る。
「それを手放さなきゃ、あんたは崩れない」
煙が、一本の流れを保ったまま揺れる。ほどけない。乱れない。
ルナシアは、その揺れを見つめた。
そして──もう一度、机を叩いた。
とん。
今度は、迷いがなかった。
煙は、ほどけない。
MUCCを聞きながら書きました。




