第二十九節 境界の裏
石造りの門は、ただの出入口ではなかった。
削れて角の丸くなった灰色の石が、何十年、何百年という時間の堆積を黙って語っている。【アリー】の街とその外とを断ち切る、れっきとした『境界』だった。重厚なアーチを、一行はくぐった。
――空気が、変わる。
視界に広がったのは、これまで訪れたどの街よりも巨大で、そして静かに〝完成された〟光景だった。通りは広い。だが人の波に押されるような喧騒はない。行き交うのは、整然と動く住民たちだ。荷車を引く者、帳簿を抱える者、鎧姿の衛兵。それぞれが迷いなく己の役割を果たし、無駄な動きが一切ない。ロギアの読み通り、プレイヤーと思しき姿は疎らだった。
「ほな行ってくる、ルナシアちゃんのことは頼んだで先生」
「ああ、そっちもな。なるべく高く捌いてくれ」
ルナシアとロギアの売却予定の素材は、すべてドルスへと預けてある。大きな街では売却先が複数あり、交渉次第で値も変わる。口下手な二人より彼に任せた方が早いという流れに、自然となっていた。
相変わらず軽い身ごなしで手を振り、街並みの中へと紛れていく背中を見送って、二人も足を踏み出す。
「体調はどうだい?」
「……思ったよりは、平気だよ」
どこかで金属を打つ甲高い音が響く。別の方向からは商人の張り上げる声。香辛料の刺激的な匂いと、焼きたてのパンの甘い香りが入り混じって、空気そのものが濃密だった。
平気では、ない。
遮音カバーが大半の騒音を遮ってくれる。それでも突き抜けてくる音はある。そして香りは、何一つ軽減されることなく押し寄せてくる。極端なまでのリアリティを追求されたこの世界では、NPCすら体温と匂いを纏っていた。人口の多いこの街の刺激は、ルナシアという脆く小さな城を、攻め落として余りあるほどの濃密さを孕んでいる。
胃の奥が、じくりと重くなる気がした。それを悟られないように、彼女はただ前を向いた。
「すまない、聞くまでもなかったな」
ロギアが短く詫びる。
「宿へ急ごう。日が落ちれば少しは喧騒も落ち着く、外出はそれからでも遅くはない」
「ほらオルド、こーゆー時に手を握ってやんだよ。お前そっち側な」
「なるほど、覚えておくよ」
ロギアは小さく笑みを零した。両サイドを自身より小さな二人に挟まれ、前を歩く自分の姿を、彼はどんな目で見ているだろう。自分にはできない部分を、コギトは確かに担っていた。
そのとき、ロギアの背中が、突き飛ばされた。
「ちょっとアンタ! 何やってんの! どきな!」
振り返ると、赤髪の獣人の女性が立っていた。ルナシアと同じ、獣の耳を持つ獣人だ。だがルナシアのふさふさとした尻尾とは違い、細くしなやかな尻尾が、怒りを孕んで逆立っている。女性はすでにカバンから薬品瓶を取り出し、ガーゼに染み込ませ、迷いなくルナシアの鼻へと押し当てていた。
「何をやっている! ルナシアから離れるんだ!」
聞いたことのない声量だった。ロギアの手はすでに腰の細剣まで伸びている。《アリストテレスの庭園》と《風は此処に》が同時展開され、彼の心境を映すように風が荒れた。細剣を握る手に汗が滲む。その緊張に呼応するように、コギトの姿が小狼へと変じる。周囲の住民がざわめき、足を止める。鞘と剣の間に、わずかな隙間が生まれようとしていた。
「失礼、ボクの主人に嗅がせているものの詳細を聞かせてもらえるかな。鎮静作用があるようだけど」
傍らでオルドだけが、静かに問いかけた。一切の緊張感がなく、ただ薬品にのみ興味を注いだ声音で。
「ロギア、剣を収めるんだ。ルナシアを想っての行動に素直に感謝する。だが彼女がルナシアを害する存在であれば、すでにルナシアは死亡しているか、連れ去られているかしているよ。彼女がここに留まるメリットはない」
「返答次第だろう。これから行動に移す可能性もある。もう一度言う、ルナシアから離れるんだ」
オルドの制止を受けてなお、臨戦態勢は解かれない。風は依然として荒れ、細剣は鞘に戻らないまま、ロギアの目には明確な敵意が宿っていた。
「ま、待ってロギア! 私は大丈夫だよ、むしろ少し楽になったくらいで……」
「コラ、まだ動かない。こんなに青ざめて、可哀想に」
振り払おうとするルナシアの声が、ひとまずロギアの警戒を一段下げた。細剣には手をかけたままでも、荒れていた風が、少しずつ凪いでいく。女性の手がルナシアをそっと制し、ガーゼを鼻へと押し当て直す。
「嗅がせてんのは嗅覚を麻痺させる薬だよ、完全にじゃないけどね。少しは楽になるだろうさ。それよりあんた! こんな小さな子に聴覚の対策以外させてないのかい! これは立派な虐待だよ!」
ルナシアへ向けられる声は、深く慈愛に満ちていた。ロギアへ向けられる言葉は、そこから遠く離れた温度をしていた。虐待、という言葉が街路に落ちる。周囲の目が鋭く光り、ロギアがたじろぐ。展開されていたスキルが中断され、細剣からも、静かに手が離れた。
「……すまない、そのような薬があることを、知らなかったんだ。非礼をなんと詫びればいいのか……」
ロギアは深々と頭を下げた。その後を追うように、人型に戻ったコギトも頭を下げる。緊張が解け、足を止めていた野次馬も、潮が引くように散り始めた。
頭を下げるロギアの背中を見て、ルナシアは何か言おうとした。だが力強い女性の手を振り払うことに失敗し、声だけが宙に残った。本来の獣人の膂力に、非力な彼女では敵わなかった。
「……すぐそこに、あたしの店がある。少し休んでいきな」
しばらくの沈黙の後、女性がそう言った。
「すまない。そうさせてもらおう、ルナシア」
普段のロギアからは遠い、低く沈んだ声だった。
ルナシアは黙って、小さく頷いた。何か言葉を探したが、見つからなかった。自分のために動いたロギアに、何を言っても気を遣わせてしまう。それだけは、わかって
いた。
◇ ◇ ◇ ◇
獣人の女性の店は、ルナシアたちがいた通りのすぐ裏にひっそりと建っていた。造り自体は頑強そうだが、寂れた雰囲気のある小さな店。店内は乱雑としていて、あちらこちらに薬品と思しき瓶が散乱している。
「ちょっと待ってな」
女性は散らかった机の上を適当に片付け、引き出しから取り出した香木に火を着ける。
香木の煙が、ゆるやかに立ちのぼる。冬の寒い日に毛布を被ったときの、あの最初の瞬間――外の冷たさがまだ肌に残っているのに、すぐそこに安心がある、矛盾を孕んだ感覚。甘く、けれど重くない。長い時間煮詰めた果実の、最後の一匙のような、喉の奥がほどけるような香り。
煙は白く、ゆっくり昇る。
「あたしはファルマ、薬師だよ。商売相手は専ら獣人だけどね」
「ロギアだ、その子はルナシア。それからコギトとオルド」
ルナシアは軽く会釈のみだったのに対し、コギトは満面の笑みを浮かべ、オルドは香木を眺めて特に反応もない、それぞれに三者三様の反応だった。
「先ほどは申し訳なかった。しかし驚いたよ、獣人用の品は遮音カバーと耳栓くらいだと思っていた」
「あたしも少し強引だったし、気にせんでいいさ。それに、知らないのも無理ない。これはそこら辺に売るもんじゃないからね」
ファルマは肩をすくめ、火を入れた香木を軽く揺らした。煙がゆるやかに形を変え、部屋の隅々まで染みわたっていく。
「さっきの薬をはじめ、感覚を鈍らせる薬は扱いを間違えりゃ生きる感覚そのものを削る。下手な奴が扱えば、飯の味もわからなくなるし、危険の匂いにも気づけなくなる。だから必要なやつにだけ渡してる」
その視線が、まっすぐルナシアへと向けられる。
「その中でもこの子は別格だ。〝強すぎる〟この子には、普通の対策じゃ追いつかない」
ルナシアは、少しだけ視線を落とした。否定も肯定もなく、ただ静かにその言葉を受け取る。
ロギアの眉が、わずかに寄った。
「……ではどうすればいい。私は、何を見落とした?」
問いは短い。だがそこに含まれたものは、決して軽くない。
ファルマは一瞬だけ黙り、それから鼻で小さく笑う。
「見落とし? あんた、何かをわかった気になってたのかい? なら考えを改めた方がいいね。見な」
ファルマは側頭部の髪を搔き上げてみせる。そこには退化していない、人間とまったく同じ形の耳があった。
「この耳の意味がわかんだろ? あたしはその子と同じ獣人だけど、そこまで高い感覚を有していない。同じ獣人でも、どの感覚がどれほど優れているかには個人差がある。獣人同士ですら、苦悩を分かち合えない。なのに種族すら違うあんたが、この子の何かをわかった気になんのは、そりゃあ烏滸がましいってもんさ」
言い切る声には、責める色はなかった。ただ、現実を冷酷に告げる。
ロギアは何かを言いかけ、それでも言葉は出てこない。ファルマの言う通り、〝わかった気〟でいた。過去に感覚過敏の生徒を受け持ち、知識を携え、導けると〝思い込んで〟いた。
「聴覚を塞ぐのは正しい。けれどね、それは〝外からくるものを減らす〟だけだ。この子にはそれだけじゃ不十分だ。〝入ってきたものをどう処理するか〟が問題なんだよ」
香木の煙が、ふっとルナシアの横顔をなぞる。
「感じるな、は無理だ。だから〝流せるかたち〟にするしかない」
ここまで香木を眺めているだけだったオルドが、初めてファルマ自身に興味を示した。
「興味深いね、具体的には?」
「段階を作るんだよ」
ファルマは指を三本立てた。
「一つ、遮断。あんたらがやってるやつだね。でもこれじゃ足りない」
指をひとつ、折る。
「二つ、鈍化。さっきの薬がそれだね。でもまだ足りない」
ふたつ、折る。
「三つ──選別」
最後の指を、ゆっくりと畳む。
「全部受け取らなくていい、それは嬢ちゃんのもんじゃない。拾うか、捨てるか。選んでもいいんだ」
その言葉は、ルナシアだけに届くように、少しだけ柔らかく落とされた。
「匂いも音も、人の気配も。ぜんぶ同じ重さで受け取るからつぶれる。……〝大事なものだけ拾え〟」
ルナシアの指が、小さく震える。怖がっているような、戸惑っているような、どちらなのか、全く違うものなのか、自分でもわからない。
「……そんなこと、出来るの?」
か細い声だった。
ファルマは、少しだけ困ったように笑う。
「難しいよ、とてもじゃないが簡単だなんて言えない。あたしも絶賛勉強中だからね。でも──」
机を隔てて座っていたファルマとの距離が一段、近くなる。
「〝やろうとしないと、一生できない〟」
静かな断言だった。
部屋の中で、煙がひときわ濃くなる。
ロギアはそのやり取りを黙って見ていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「私は守ることしか、減らすことしか考えていなかった」
その声は、先ほどよりもさらに低い。
「減らすことばかりで、扱うことを教えていなかったんだな」
ルナシアが、顔を上げる。
ロギアは一瞬だけ視線を逸らし、それから正面に戻した。
「すまない」
短い言葉。けれど今度は、逃げ場のない言葉だった。
ルナシアは少しだけ目を瞬かせて、それから小さく首を振る。
「ううん……私も、ずっと耐えるだけだったから」
その言葉に、ファルマがふっと息を吐いた。
「いいね。あたしたちには言葉がある。人とは違う感覚や経験を、相手に伝えることができる。やっと同じ土俵に立てたじゃないか」
ぱん、と手を打つ。
「じゃあ、あたしが伝えられることは伝えてやるよ。必要そうなものも面倒みてやる、扱い方も含めてね。まずは、そうだね……嬢ちゃんたちとお話でもしようか」
コギトがぱっと顔を輝かせる。
「それってガールズトークってやつか!?」
「ふっ、そうだね。女同士の話は〝パパ〟には刺激が強いかもな」
ファルマはロギアに視線を移す。
「勘弁してくれ……」
その言葉にファルマは満足げに笑う。
煙が、ゆっくりと天井へ消えていく。
外の喧騒は、まだ遠くにある。けれどこの小さな店の中だけ、別の時間が流れ始めていた。
ルナシアは、ほんの少しだけ深く息を吸う。
さっきまで刺さるようだった世界が、今は――ほんのわずかに、輪郭を持っている気がした。
感覚過敏の描写を書いてる時が一番気持ちいい




