4-8 託されたもの
外に出ると白砂の大路は、晡時といえども宮女の往来で溢れていた。誰も彼もが自分の仕事に手一杯で、深玉たちには目もくれない。
「今日は、本当にありがとうございました。久々にこんなに笑った気がします」
雪燕が前を向いたまま、はにかむ。その手には凛凛に持たされた土産が握られている。
「こちらこそ、わたしも楽しかった」
「本当ですか? 嬉しいです」雪燕が深玉の髪に触れる。「なら次お会いするときまで、その簪は深玉さまが持っていてください」
「いいの? でも次って」
雪燕が笑む。
「ふふ、次お会いするお約束をしてもいいですか?」
深玉もつられて頬が緩む。「いいよ」
「なら次は深玉さまがやりたいことをしましょうよ。なにがいいですか?」
他愛もない会話だ。けれど廉明殿までどんなにゆっくり歩いたとて、半刻程度。
本題に入るなら、今しかない。
「そう、ね。なら、わたしは手紙のやりとりがしてみたい、かも」
純粋に会話を楽しんでいる雪燕を裏切るようで。とても嫌な気分だった。
「まあ、お手紙。素敵ですね」
深玉は視線を落とす。「わたしが文字が好きというのもあるけど……雪燕の書く文字が、綺麗だなと思ってたから、文通もいいかなって」
「私の文字をいつご覧に……ああ」雪燕が眉を下げる。そんな顔をさせたくはないのに。「蓉昭儀さまの件のときですね」
「うん、そう。ねえ雪燕」知らず握り込めていた手を開く。「今から変なことを聞くかもしれないけど、分からなかったら聞き流して」
「深玉さま?」
「蓉昭儀さまについてなにか知っていることはない?」早口で吐き出す。心臓が早鐘を打っていた。「なんでもいいの。気になることとか、生前ちょっと引っかかったこととか。なにかあれば、教えてほしい」
なぜ、と問われたらどうしたらいい。怪しまれないよう言葉を取り繕うなど、深玉にはできそうもない。
しばし沈黙が落ちる。気づけば、どちらともなく立ち止まっていた。
やはり人相手に立ち回るなら、夏丞が動いた方が早いのだ――深玉が言い訳をしようと、口を開きかけたとき。
「蓉昭儀さまの遺書は鑑定の結果、本物だったと聞きましたが」はっと顔を上げると、雪燕がじっとこちらを見ていた。「それは、偽りだったということですか」
探るような目だった。
この場で嘘はつけない――深玉がゆっくり頷くと、雪燕はどこか安堵したような顔をする。
「やはり、そうでしたか。あの方が自死を選ばれるはずがないんです。お役目がありましたもの」
「どういうこと?」役目とはなんだ。
「深玉さま」有無を言わせず、雪燕に手を取られる。「廉明殿へいらしてもらえませんか。お聞きしたいことがございます」
手を引かれ、雪燕のあとに続く。握ってくるその手は、かすかに震え、氷のように冷えていた。彼女の緊張と覚悟が現れているようだった。
深玉は廉明殿の裏手、侍女の住まいが立ち並ぶ後罩房へと連れてこられた。雪燕の自室とおぼしき場所にふたりして入る。
「まず、確かめたいことがあるのですが」扉に施錠をすると、前触れなく雪燕が話し始める。「深玉さまと夏丞さまは、蓉昭儀さまの死の真相を探っていらっしゃる。この認識で間違いありませんか?」
「ええ、夏丞はそのために後宮に派遣されてきたから」
「じゃあ、後宮の皆さまが自死だと思ってらっしゃるのは、おふたりがわざと情報を……?」
深玉が首肯すると、雪燕は思い詰めたように黙り込む。その目はためらいを含んでいて――深玉は彼女の腕に触れる。
「蓉昭儀さまは、雪燕を頼りにしていたんだと思うの」今が雪燕から蓉昭儀の話を聞く、最初で最後の機会である気がした。だから可能な限り彼女に対しては誠実でありたかった。「かの方が生前密かに遺した文には、あなたを名指しで信頼する旨が書かれていたから」
「うそ、そんなものが遺って……」
「だからわたしはあなたがなにか知ってるんじゃないかと思ったの」不安で揺れる雪燕の目を見つめ、大丈夫だと伝えるように頷く。「もしかしたら、あなたの力になれるかも」
雪燕は一度深く息を吐いた。
そして「深玉さまにだけお話します」と切り出す。
「生前あの方は、ご自分にある役目があるのだとおっしゃって、熱心になにか残しておられました。そして、『自分にもしもがあれば、その死について探りに来る者が必ず来る。その人間が信頼できると思うなら、これを話しなさい』とも」
ずいぶんと周到なことだ。「遺言ってこと?」
「どちらかといえば、言伝の方が近いかもしれません」雪燕は逡巡するように一度言葉を切る。「『夏が巡り来るとき、私は死ぬだろう。あなたのはじまりの場所に、それを託す』」
「あなたの、はじまりの場所……」
『あなた』とは、いったい誰のことだ?
「私も意味はよく分からないのです。ただ蓉昭儀さまは、こう言えば相手は理解できるはずだとおっしゃっていました」
雪燕はじっと深玉を見つめる。申し訳ないが、今の深玉には読み解くための情報が少なすぎる。
「持ち帰ってじっくり考えてみないことには、なんとも」
「そうですよね……はじててお会いしたときから、もしかしたら、深玉さまと夏丞さまが蓉昭儀さまのおっしゃっていた方なのかもと思っていました。ただしくこの言葉を理解できる方なのかもと」
深玉は聞いた内容を反芻する。夏が巡りくるときに死ぬ――この初夏の季節に、蓉昭儀は自身が亡くなることを予期していたようにも読める。彼女が死を覚悟する理由。それは『真実を記す』の一文から始まる、墨塗りにされた文書しかない。
真実、蓉昭儀が自身の生死を賭けてあれを世に出そうとしていたなら、たった一通しかないとは考えにくい。万が一に備えて、何通か用意していたとも考えられる。
はじまりの場所とやらに、このうちの一通があったとしたら――夏丞が蓉昭儀がなにか遺していないかと探し求めていた理由も納得できる。
「この遺言は雪燕だけが知っていたの? 沙李は?」
「どうなのでしょう。私も口外できなかったのであの子に確認したことがなくて……」雪燕は首をひねる。「でも、おそらく知らなかったのではないかと思います。隠し事が下手な子だったので」
蓉昭儀の中で、雪燕は信用に足るが沙李は引っかかるところがあったのかもしれない。
「でも、なんで夏丞じゃなくてわたしに?」
雪燕がわずかに笑みを浮かべる。「私にとって、深玉さまが一番信頼に足る方だと思ったからです。あなたなら、きっとあの方の意志を大切に扱ってくださるから。ただ……」
「ただ?」
雪燕は痛みをこらえるように顔を歪ませる。「これをお伝えしたことで、深玉さまが誰かに傷つけられることがないかと、それだけが心配で」
すでに脅迫文を受け取っている身だ。ここまでくれば今更である。
「大丈夫。雪燕だって、立場は同じはずよ」
「私は平気です。ずっと蓉昭儀さまのお側で見守ることしかできませんでしたもの。今お役に立つことができて、嬉しいのです」
雪燕が深玉の手を取る。切実な顔だった。
「あなたに託すことしかできない私を、どうか許してください」