4-6 わたしを見てくれる人
「雪燕さん、よくいらっしゃいましたね」
雪燕が来ていることは凛凛から聞いているのだろう、男に驚いた様子は見られない。
「その後、お変わりありませんか?」
「ええ、おかげさまで」
深玉は中途半端に結われているせいで、身動きが取れない。鏡越しにふたりのやりとりを見ていることしかできない。
「ずいぶんと素敵なことをされていますね。すこし見学させていただいても?」
「私は、もちろん。深玉さまがよろしければですけど」
夏丞と視線が絡まる。「構いませんか?」
「……好きにして」
どうせこちらは動けないのだから。ふたりの会話を聞いていて、必要があれば制止するなりすればいい。
「それと……深玉さん」普段通りの顔をした夏丞がこちらへ近寄ってくる。「昨日はあの後、どちらに? 着替えると言ってから戻られないので、どこへ行ったかと思いました」
声音はおだやかだが、わずかに探るような圧を感じるのは、こちらの心持ちのせいだろうか。
「雪燕とわたしの房室で話してただけよ」腹を立てていたことを悟られたくなかった。こちらも、なにもなかったような顔をしてみせる。「思ったより話が盛り上がったから。それに、昨日先に帰ったのはあなたの方でしょう」
「ええ。ですから今日は普段より早めに来てみたのですが……正解でしたね」夏丞がさらりと笑む。「雪燕さんにもお会いできましたし、珍しい深玉さんの姿も見ることができるようですし」
「わたしは見世物じゃないんだけど」
「あたしも隅の方で見学してます」凛凛が茶菓子を置きながら、いたずらっ子のように囁いてくる。「深玉さまがこんなにちゃんと髪を結われている姿なんて、次はいつ見られるやらです」
「うるさい」
すっかり玩具扱いをされてしまっている。
楽しげに笑いながら逃げていく凛凛の背中を、深玉は軽く小突いた。
それからは――夏丞と雪燕の間で他愛ない会話が続いた。時折凛凛が口を挟み、おかしそうに雪燕が笑い声をあげて。
窓から流れ込む薫風が、幾度も深玉のおくれ毛を揺らす。三人の会話が耳に心地よく、絶妙に眠気を誘う。
おだやかな時間だ。自分から会話へ加わることがなくとも、不思議と居心地は悪くない。今までは凛凛とふたりきりの空間だった筆録房に、人の声がある。そのことが、とても不思議だった。
「――深玉さま」
雪燕が肩口から覗き込んでくる。
「……ん?」意識を雪燕に戻す。
「今、簪を選んでいるのですが、深玉さまはどちらがお好みですか?」
差し出されたのは、黒瑪瑙を象嵌した細い簪と、真珠で小花を模した可愛らしい簪だった。どちらも丁寧な造りだ。
じっと見守る雪燕の後ろから、凛凛がひょこりと顔を覗かせる。「あたし、深玉さまがどっちを選ぶのか、わかりますよ!」
そんなに注目されても困るのだが。
深玉は訝しみつつ、「こっち」と迷わず真珠の簪に手を伸ばした。
すると、どうしたのか雪燕と凛凛がぱっと顔を明るくして夏丞を振り返る。
「ほら、やっぱり当たっていましたでしょう?」
「絶対真珠だと思いましたよう!」
「……なぜでしょう。こちらの方が深玉さんの好みかと思ったのですが」
夏丞が不服そうに黒瑪瑙の簪を手に取る。
一体なんなのだ。知らない間に、選ぶ簪で勝負でもしていたのか。置いてきぼりの深玉に、雪燕が「びっくりされましたよね」と笑む。
「実はですね」雪燕が控えめに顔を寄せてくる。「さっきまで、どの簪が一番深玉さまの好みかって話をしてたんです。夏丞さまはずっと黒瑪瑙の方を勧めてらしたんですけど……私はなんとなく、深玉さまは真珠かなと」
「それは、なぜ?」
「だって、深玉さまは淡いお色がお好きでしょう?」雪燕は深玉がもともと使っていた髪紐を持ち上げる。「髪紐の中に、濃いお色はひとつもありませんでしたもの」
深玉はおもわずぽかんとする。
たしかに、淡い色の方が好きだ。「よく、見てるね」
「ふふふ、友人ですもの。好みくらい分かりませんと」
凛凛もちゃっかり「保護者ですからね」と得意げにしている。
「……そう。ありがとう」
案外、深玉という人間を見てくれている人がいるものなのだと知ってしまい。面映ゆい気持ちになる。
「え、あの」というより、さらっと聞き流してしまったが。「友人、なの? 私たち」
雪燕が不思議そうに首を傾ける。「違うのですか? なんでもない方の髪は結わないですよ」
「そう、なのかな」
「もちろんですよ。深玉さまの方から私に手を伸ばしてくださったじゃないですか」
雪燕の言葉がじんわりと胸に広がっていく。
深玉に、友人と呼べる関係の人間はこれまでいなかった。ずっと幼い頃にはいたのかもしれないが、物心ついてからは、外を駆ける同年代を窓越しに眺めているばかり。混ざろうにも、混ざれなかった。
『ほら見て。嘘つき官人の娘よ』『近寄ったら、わたしたちも主上に罰せられるわ』
母と自分の背中に投げつけられる、心ない言葉――別にいい。父は間違ったことをしていない。母と自分だけが真実を知っていればいい。いつか皆も分かってくれるだろう。そう思っていた。
けれど、母が自死してからは。真実が人を殺すのだと知ってしまってからは、孤独でいた方が楽だと諦めてしまっていた。
深玉は顔を押さえる。
「……ありがとう、嬉しい」頬が熱を持っていた。ゆるんだ口元が見られないよう、うつむく。
「よかったですねえ、深玉さま」凛凛がいたわるように肩口に張り付いてくる。「夏丞さまの他にもご友人ができましたねえ」
「か、夏丞は別に友人じゃ――」と、ふとあの男が会話にいないことに気づく。
振り向くと、むっすりと黙りこくり、ひとり手の中の簪を見つめていた。
「ねえ」機嫌でも損ねたかと、一応声をかけてはみる。「別に、あなたの選んだものが嫌いってわけじゃないから」
「……わかっていますよ」夏丞は苦笑いで。「ただ、会ったばかりの雪燕さんの方がよく知っているみたいで。すこし、悔しいですね」
深玉に情報を伏せてばかりの男が、ほざく台詞か。深玉はじとりと見やる。
「知らないって、意外と悔しいでしょう?」
すこしはこちらの気持ちがわかるかと思ったのだが。さらに苦笑を返される。
「そうですね。ですが今回は意味合いがすこし違う気がします」
じゃあなにが言いたいんだ? 深玉が眉を寄せると、「もう、よろしいでしょうか」やんわりと雪燕の声が挟まる。
「ああ、うん。ごめん」
「ふふ、仕上げに簪をお挿ししますね」
鏡の中の自分と目が合う。これからは、時々でも髪を結ってみようか――そう思えるだけで、今日が特別な思い出になる気がした。