3-4 悪意の目
✣✣✣
廉明殿は弔問に訪れる人影が後を絶たず、大門周辺は主の戻りを待つ侍女であふれていた。
閑散としていた水祥殿とはあまりに対照的な雑踏に、深玉は目を瞠る。話には聞いていたが、あの場所がどれほど畏れを集めているのか、ようやく実感できた気がする。
この雑踏の中に立ち入るのは憚られるが、今回ばかりは致し方ない。
夏丞と連れ立って門をくぐると、やはり周囲から好奇の視線が突き刺さる。「あれが例の」と囁き声が飛び交うあたり、夏丞の存在はすでに後宮中に知れ渡っているのだろう。
殿舎の入口にさしかかったところで、押し殺す気のない会話が耳に届く。
「水祥殿にも来て、今度は廉明殿? あの女官、呪いを私たちに移しに来たのではなくって?」
「あらやだ怖い。男を連れた厄介者には、お帰りいただいた方がいいわよね」
横目で見やると、軽蔑の色もあらわなふたりの侍女が、扉の手前で深玉を睨めつけており――周囲にどう見られているのか、察するには十分だった。
なにも知らないくせに、と喉まで出かかった言葉をなんとか押しこめる。ここで揉めても、いいことなどなにもない。特権を笠に着て越権行為をしているのは、他ならぬ自分たちなのだから。それに、もともと嫌われることには慣れている。
深玉がむっすりと前を向いていると、やおら夏丞が横にやってきた。
「毎度陶女史にはご足労いただきまして、光栄です。さ、手早く済ませましょうか」
とってつけたような台詞。同時に、彼の長駆で隠れて侍女らの姿が見えなくなったことに気づく。
ただそれだけなのだが、庇われたのだと察してしまう。
「……わたしは別に気にしてないから」
深玉が小声で伝えるも、夏丞はどこか気遣わしげな顔をしていて。
「知っています。けれど、私が気になるのですよ」
なんだそれは。
横を歩く夏丞を盗み見るも、何事もないような顔をしていた。なんともむずがゆい気分であった。
「深玉さんは、このまま外でお待ちいただけますか? 私が中に取りに行きますから」
すぐ戻ると言い残し、夏丞が殿舎の奥へと姿を消す。ぽつねんと取り残された深玉は、廻廊の隅で男の戻りを待つしかなかった。
幾人もの妃が通り過ぎていく。当然顔見知りなどいるわけもなく、手持ち無沙汰にその様子を眺めるしかない。
と、そのとき鼻先をふっと甘い香りがかすめた。
出処は――廉明殿からか。むせ返るほど甘ったるく濃密な香りに、深玉は眉を寄せる。
そして、ようやく気づく。
弔問に訪れる妃らの衣からも、示し合わせたかのように同じ匂いがしていることに。
――すごく、嫌な感じ。
こんな品のない香が今の後宮の流行りとは、なんともお粗末である。深玉は袖で鼻を覆いたい気持ちを堪え、口で呼吸をする。夏丞と水祥殿へ向かう道中でも、この香りを嗅いだ覚えがある。水祥殿はどうだっただろうか。
「あ……」ふと思い出す。皇子のところで、この香りは――。
そう思った刹那、「あなたが、筆録房の陶女官?」と背後から声をかけられた。また嫌味のひとつでもとばされるのだろうと、うんざり振り返りかけて――息を呑んだ。
そこには、水祥殿で見かけたままの煕貴皇后がいたのだ。
「暑い中、ご苦労さまですね」
彼女は、皇后らしからぬ装飾品を取り払った質素な出で立ちをしていた。弔問への配慮がうかがえ、同時に彼女の瑞々しい美しさを際立たせていた。水祥殿で垣間見た、あのときのままの姿に、深玉は急ぎ膝をつく。
「ち、中宮さま……お目にかかれて光栄でございます」
「そんな、やめてちょうだい。仕事中のあなたの負担にはなりたくないわ」
歳は三十も半ばを過ぎたと聞くが、物腰は可憐な少女のようである。
皇后はねぎらうように深玉の肩に触れる。「おつらい役目でしょうが、しっかりね」
まさか蓉昭儀の件で動いていることを知っている――深玉は深々と頭を下げる。それ以上皇后はなにも言うことなく、薄衣を滑らかに翻して台階を降りていった。そのあとを幾人もの侍従が付き従う。
嫉妬混じりのじっとりとした視線が周囲から寄越されるのを感じ、深玉はその後ろ姿が見えなくなるまで頭を下げ続けた。
廉明殿からも見送りと思しき女官が数名出てきたが、そのなかに見知った顔を見つけてしまった。
「雪燕……?」
驚くことに雪燕がいた。