3-5 孤立と策略
「……深玉、さま?」
雪燕は深玉の視線に気づいたのか、遠慮がちにこちらへやってきた。「お久しぶりでございます」
「なぜあなたがここにいるの?」
彼女は蓉昭儀の侍女であったはずだ。
「実はその、配置換えになりまして……廉明殿へ配置がえとなりました」
見れば、彼女の帯は蓉昭儀のもとにいたときとは違うものに変わっていた。
彼女はもとよりほっそりした面立ちだが、今はさらに痩せたようにみえる。
「もうひとりの侍女の子はどうしたの? ええと、名前は……」
「沙李ですね」雪燕が悄然とうつむく。「あの子は後宮から出ていきました」
深玉は眉をひそめる。「後宮から?」
「はい。あの子、蓉昭儀さまのことがとても辛かったようで、夜も寝れず泣いてばかりで……これでは身が持たないからと、私のことを含め、掖庭令が離宮への異動をお決めに」
「そう……」
それにしても――深玉は歯噛みする。
また、この名だ。
霍が雪燕を動かしたのなら、確実に夏丞も承知しているはずだ。ここに至るまでに深玉との会話で、雪燕について何度も話題にのぼったはずなのに、このことについてひと言も話してくれなかった。
「あの、深玉さまはなぜこちらに?」
深玉は苛立ちを押し込め、雪燕へと視線を戻す。
「蓉昭儀さまの件で、引き続き調べ物があって」
「廉明殿で調べ物、ですか?」
雪燕が理解しかねるといった顔をする。
しまった。夏丞が表向きどのような理由でここを訪問しているのか、知らなかった。下手なことを言って怪しまれたくない――深玉は話題を変えようと、頭を回す。
「そ、それにしても……」ふと香の香りを思い出す。「この香り……その、いい匂い、よね?」
自分でもなにを言ってるのだろうと思いながらも、無理くり言葉をひねり出す。雪燕ははじめきょとんとしていたが、気を遣ってくれたのだろう。苦笑いをこぼして乗ってきてくれた。
「破邪香ですよね。魏美人さまが亡くなられてからずっと焚き続けているんですよ」
「破邪香……?」
初耳である。深玉が首をかしげると、雪燕は目を瞬かせた。
「あら、呪いを遠ざけられる香ですよ。最近流行っているので、ご存じなんだとばかり」
「この香が? そんな馬鹿な……」
つまり、水祥殿の呪いを避けるために使用されているということか。どうりでみなが同じ匂いをさせているわけだ。
呪いだけではなく、香の力までも信じるとは。ここまで来ると信心深さにいっそ感心する。
と、雪燕から返答がないことに気づく。顔色悪く俯いており――ふと先ほどの自身の発言を思い出す。
そんな馬鹿な、と。
「あ、あれは」失言だったと気づく。「ごめんなさい。他意は、なくて」
彼女は主人を亡くし、その交友だった魏美人までも失っているのだ。香に縋りたくなる気持ちを否定すべきではなかった。
「あなたを馬鹿にする意味は、まったくないから。だから、その、うん。気にしないで」
口下手すぎて泣きそうだ。
はじめ雪燕はぽかんとしていたが、こんな言い方でも意図はしっかり伝わったらしい。やんわりとはにかまれる。「ふふ、お気遣いありがとうございます。でも、私も香の力は信じていませんから、平気ですよ」
「そう、なの?」
では、この顔色の悪さはなにからくるのだろう。どう尋ねても、うまく聞き出せる気がしなかった。
気持ちが顔にでも書いてあればいいのに、と思った。そうすれば、文字を読むように相手のことをするすると理解できるはずで。
困り果てる深玉の顔に、ふっと人影が落ちた。
「そう怖い顔をしては、お相手を怖がらせますよ」
見知った声に、今だけは安堵を覚える。
「夏丞……」雪燕とふたりきりでなくなることに、正直ほっとした。「戻ったの?」
「ええ、片づきました。私もお話に混ぜていただいても?」
腕に薄い紙束を抱えた夏丞が、深玉と雪燕の間に立つ。すると、雪燕の表情がわずかに明るくなる。
「あ、あなたさまは」
「お久しぶりですね、雪燕さん。体調はお変わりないですか? すこし痩せられたのでは?」
心配そうに夏丞が腰を折って顔を覗き込むと、雪燕が恥じた様子で髪を撫でつけた。
「だ、大丈夫です。最近すこし眠れなくて、そのせいかもしれないです」
「そうですか……魏美人さまのことも、どうかお気を落とされないでくださいね」
「ええ、お気遣い感謝いたしますわ」
おだやかに笑む夏丞を前に、雪燕はほんのりと頬を染めている。すっかり心を許した様子の雪燕に、複雑な心境を抱く。自分と会話しているときには、もうすこし堅さがあったのに。
やはり、人との会話は苦手だ。
ふてくされる深玉の様子に気づいたのか、夏丞がこちらへやってきた。かと思えば、耳元に口を寄せて囁いてきて。
「人付き合いでは、多少の強引さも必要ですよ」
じとりと見やれば、からかいの混じりの笑みを返される。口ぶりからしても、彼女との一部始終を遠巻きに楽しく見ていたに違いない。
しかしまあ、正論すぎて反論する気は起きない。
「……友人でも仕事相手でもない、顔見知り程度の人とどう話せばいいのか、誰も教えてくれないのよ」
結果、いじけた子どものような言い訳になる。
「顔見知り程度、とは……ふふっ、会話術の手引書のような言い方をするんですね」
こちらは真剣に話したつもりだったのだが。
ツボに入ったのか肩を震わせる夏丞に、抗議の意を込め、靴先で脛を小突いてやった。
「あ、あの」置いてきぼりの雪燕が遠慮がちに声を上げる。「おふたりは、後宮でまだ蓉昭儀さまのことお調べしているのですか?」
夏丞が離れて雪燕に向き直る。「ええ、交友関係を確認しておりました」
「そうなのですか? やはりなにか不審な点が?」
「ご心配になるようなことはなにも。ただの手続きのひとつです。それに、ひと通り終わりましたので、私もそろそろ後宮からは引き上げようかと」
さらりと付け足された発言に、雪燕がえっと声を上げる。どういうつもりかと深玉が横目で男を見るも、意図は読めない。
「そう、ですよね。尚宮から蓉昭儀さまの遺書も本物だったと聞きましたし、手続きが終わったら帰られますよね……」
しょげた様子の雪燕に、夏丞も顔を曇らせる。
「せっかく色々とお話できる方ができましたのに、私としても非常に残念です。よろしければ、近いうちに筆録房へ遊びにいらしては? 戻る前にゆっくりお話しましょう」
今度は深玉も雪燕と同じく驚きの声が出た。
夏丞を小突く。「どういうつもり?」
「いいではないですか。深玉さんにご友人ができるかもしれませんよ」
当初の目的どおり、彼女から蓉昭儀の話を聞くつもりなのだろうが、だからといって急に誘って来るものか。彼女には廉明殿での仕事があるのだ。
口を開きかけた深玉を制し、夏丞がさらに畳み掛ける。
「ここでは、なにかと肩身も狭いでしょう。不眠の原因もそれでは?」
肩身が、狭い? どういう意味だ。深玉は雪燕の反応をうかがう。
「それは……」途端、雪燕が落ち着かない様子で裙を握りしめる。「仕方がないことですわ。私は、水祥殿から来た人間ですから」
その言葉で、やっと思い至る。
元凶と謗られる水祥殿の呪妃に仕えていた侍女が、魏美人の葬儀で沈む廉明殿でどんな眼差しを向けられるか――すこし考えれば、容易に想像がつくではないか。先ほどの自分たちに向けられていた軽蔑の視線を思い出す。
「雪燕、あなた……」気づけなかった己の愚鈍さが嫌になる。
虐められてるのか、という言葉はさすがに飲み込んだ。突きつけてしまえば、今の彼女は泣き崩れてしまいそうに見えた。
「大丈夫ですよ、ちゃんとわかっていますから」夏丞が安心させようと、雪燕の顔を覗き込む。「なにかお辛いことがあるのでしょう。お話ぐらいは聞けますから、どうぞ遠慮なく、筆録房へいらしてください」
「あ、ありがとうございます……」
涙をこぼすまいと頭を下げる雪燕が、なんとも憐れだった。
「生前の蓉昭儀さまの楽しいお話も、ぜひ聞かせてください」
虫も殺さぬような顔をして雪燕に微笑む夏丞が、薄ら恐ろしく思えて仕方がなかった。




