第9話「平凡」
次の日、健人は自転車に乗って訪問に出かけた。
噴水のある公園の中のベンチを横切り、健人は自転車を停めた。
「あ……おはようございます!」
軽い足音がし、団地の近くからつぐみが走って来た。いつも通りの優しい笑顔だが、何だか少し落ち着きがないように見える。
「おはようございます。すみません、度々同行してもらって……」
健人は自転車のカギを閉めるのに少し手こずりながら苦し気に笑った。
「あの……昨日はすみませんでした。大きな事態になってしまって……」
つぐみは健人の顔をしっかりと見て言った。
「なんか……情けないです。奢りというか……自分なら相手を落ち着かせることができるだろうって……過信です。危険な時はすぐにその場から離れる。福祉の基本ルールなのに……成瀬さんは冷静にルールを守れてて、すごいです。」
つぐみは1つ、1つ噛み締めるように話した。
「違います……」
健人は呟くように言った。
「違うんです、僕はそんなに立派じゃないです。昨日はただ夢中で……ただただ立岡さんを守りたいと……ごめんなさい……すみません。」
2人は下を向き、しばらくの間沈黙が続いた。
健人とつぐみは団地の1階にある石田の家の前に着いた。
つぐみはいつものように持っていたペンを咥えながら髪の毛を結っている。
健人はインターホンを押した。
ピンポーン……
応答が無い。
ピンポーン……
健人とつぐみは顔を見合わせた。
ガチャ……
扉に手をかけると鍵はかかっていなかったようで簡単に扉が開いた。
「石田さーん?」
健人が呼びかける。
「……成瀬さん?成瀬さん!助けてください!!」
幸志の声を察知し、健人はすぐに部屋の中へと走り出した。
現場は悲惨な状態だった。床には台所用品が散らばっており、幸志が倒れていた。
未季江が必死に幸志を揺さぶっているが、幸志は起き上がれない様子である。
つぐみは倒れている幸志に駆け寄り、ゆっくりと体を起こした。
「台所で皿を洗っていたんだけど、急に足に力が入らなくなって、気づいたらこんな状態に……すみません……」
健人は携帯を取り出し、急いで救急要請を行った。
未季江は倒れている幸志をただ呆然と見つめていた。
救急車が到着し、担架を持った男性2名が幸志を車内に運び込んだ。
「救急車には僕が乗ります!立岡さん、未季江さんの調整を!また、連絡取り合いましょう!」
健人が搬送されていく幸志に付添いながら言う。
「分かりました。ちょっと待ってください、私の携帯番号です!」
つぐみは持っていたメモに電話番号を書き、健人に渡した。
健人は受けとったメモをポケットに即座に入れ込んだ。
救急車は幸志と健人を乗せてすぐに走り出した。
未季江は走り出す救急車を姿が消えるまでじっと見つめていた。。
「未季江は……未季江は1人で大丈夫ですか……?未季江は1人では何もできないから……」
幸志は苦しそうに呟いている。
「大丈夫ですよ。立岡さんが調整してくれてます。」
健人が言うと、幸志は小刻みに2回頷いた。
1時間後、病院の待合室内で健人は電話を掛けた。
「立岡さん、成瀬です。すみません、遅くなって。今検査結果が出たところです。診断は大腿骨骨折です。転倒したときに負担がかかったみたいです……手術をして、大体4.5ヶ月程入院してリハビリになるようです……」
健人は周りの迷惑にならないよう小声で話す。
「そうですか……未季江さんはとりあえずケアマネさんに連絡して、介護施設でショートステイすることになりました。幸志さんには安心してリハビリに専念してもらうよう言ってください。」
つぐみの落ち着いた声に健人は緊張が少し溶ける感覚を覚えた。
電話を切った後、車椅子に乗った状態で待合室にいる幸志に声をかけた。
「入院ですか……情けないですね……」
幸志は下を向いて一点を見つめている。
「私は未季江とのあの暮らしが幸せそのものだったんですよ。朝起きて、未季江の髪を解かして、2人でいつもの噴水の公園に行って……たわいもない話をして……未季江からの返事は無くても……本当にこれ以上ない平凡な幸せだったんです……」
幸志は声を震わせて話す。
「大腿骨骨折はリハビリさえすればお家に戻れる病気です。焦らず、頑張りましょう……またいつも通りの暮らしに戻れますよ。」
健人の言葉に幸志はゆっくり頷いた。
「あっ、成瀬さん。申し訳ないんですけど、成瀬さんとこの電話番号を教えてもらっていいですか?電話番号、うちの壁に貼ってあるので今は分からなくて……たまに連絡させてもらうかもしれません。」
幸志は去り際の健人に声を掛けた。
健人は名刺を取り出し、幸志に渡した。
「03-6566-7111……ありがとうございます。」
幸志は精一杯の笑顔で健人を見送った。




