第八話 天空界魔道士軍『テール』
「断る!」
静寂な月夜に包まれる寂しさをそっと慰めるような湯の音に、大きな声が響く。
それは数秒経ってようやく発した声だった。
「えー! なんでよう」
ぷくっと頬を膨らませるアリスだが、レイスにとって、アリスの発した言葉など、とても信じられたものでは無かった。
つい先程、自分の心臓を突き刺してきた人間が発する言葉の中で信用するに値するものなど、そもそも無いと。
レイスはあの時、殺されかけたし、実際死を覚悟していた。そんな得体も知れない女が『わたしと一緒に滅びませんか?』だなんて、突飛過ぎて訳が分からなかった。
「お前はバカかな? 天空界も滅ぼすのか? 『わたしと一緒に』って何だ? 結局全部まとめて滅ぼしますにしか聞こえない」
「そのままの意味だよ。 この天空界も、あなたの故郷、地底界も、全部まとめて滅んじゃおうって意味。 もちろん、わたしも、あなたも」
「話の通り、今はお前を恨んでいない。 お前の出した空間から出てきた兵に、銃やら剣やら魔法やらで散々痛めつけられたのに、ハイドを殺されたのに、心臓一突きにされたのに、恨んで無い。 それどころか大地戦争にも関心が無い。 まるで夢だったみたいだ」
「だったら」とアリスが表情を明るくして期待の念を込めるが、レイスが強引に話を遮った。
「――それでも、一緒に滅んで死ぬつもりはない。 むしろ先に僕が殺されるかもしれない」
レイスは口を閉じた後に、言葉が過ぎていたかもしれないと懸念した。アリスの力を甘くみてはならないと。
アリスはアキレア天空界の強者たる上位七名の魔道士、
"七星魔剣"の一角だ。
表面上は丸腰で艶かしい体を露わにしている女にしか見えないが、その内側には国家一つ二つも落としかねない、国家戦争において両軍とも叩き潰して灰燼にしかねないような凄まじい『悪魔』を宿している。
こんな、幼児が「お姉さん!」と手を振ってきそうな、華やかな女が、だ。言葉一つ一つ慎重に選んで咀嚼して物を言わないと、この『ノコギリ治癒温泉街』もろともレイスも塵になりかねないと踏んだ。武力ではまず彼女に勝らない。
『治癒の湯』で傷跡まで綺麗に消えた胸が疼いた。
「んー……まあ、いっか! それより、レイくんこの後どうするの?」
レイスにとって、難儀な質問だった。レイスの亡命及び諜報生活が完全に天空界の魔道士に割れてしまったからだ。自身を「ハイド」と偽り、天空界に存在していたが、このまま住処に帰れば、天空界の魔道士一団がレイスの拿捕に赴くかもしれない。無論『ゲート』は開かず、地底界に帰ることも出来ない。
レイスが宿す『黒血大魔・ハイド』も殺されて実力が出せず、応戦も難しい。
そもそも今、ここで、一秒足らずで、アリスに殺されかねないという緊迫した状況だ。
袋の中のネズミとはこういうことなのだろうか。
「……大丈夫だよ。 約束する。 私は絶対にレイくんの正体を他言しないし、レイくんに手を上げたりなんてしないよ。 その代わりと言ってはなんだけど、協力して欲しいことがあるの」
レイスの強張った顔つきと板のように硬直した身体を見て、アリスは優しく満面の笑みをたたえた。
「……なぜそんなことを言う? 協力って何だ?」
レイスは恐る恐るアリスに尋ねた。
袋の中のネズミ状態のレイスは、ただアリスの差し出す条件を飲むしか無い。
「あなた、戦いの最後に私に『助ける』って言った」
「それは……」
その言葉は、アリスに憑いている悪魔の悍ましさに慄き、華奢で美人な彼女を守りたいと少なからず思ったゆえに出た言葉。
「ひとまず、やっぱり、このアキレア天空界、滅ぼさない?」
アリスは周囲の目を気にしつつ、そっとレイスに微笑んだ。そしてレイスにペコリと頭を下げてこう告げる。
「あいさつが遅れてごめんね。 改めて私はアリス。 天空界魔道士軍『テール』団長及び"七星魔剣。 会いたかったよレイくん!」
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天空界魔道士軍『テール』本部『ベアーズシャトー・サマード璃宮』は、巨城であり、正門から玄関までの距離が広がり、砂利を敷いた道を挟むように芝生を刈り込まれた前庭がある。正門から見て左には噴水、右には城の横手に回り込む道が続く。
標高の高い所に位置にするこの城はまさしく天空の城という言うに相応しい。
「でかいな……」
かつてのレイスの住居かつ孤児院、『ルナ・ラペスシャトー』の二倍三倍は大きく、レイスは唖然とした。
――が、レイスにとって警戒は怠ることは出来ない。この城は、かつて天空界の商都、ノブレッサに住んでいた頃にも度々新聞を賑わせていた。
とあるカルト教団の教徒を掃討、地底界との境界『ゲート』の護衛団の不祥事の検挙、地底界への奇襲等、朗報や功績が絶えない。
そんな精鋭集団、そしてレイスにとっても宿敵であるのが、この『テール』である。
敵の根城に潜入してるわけだからレイスも気が抜けない。
「こんばんは。 お初にお目にかかります、ハイド様」
豪華な玄関に、初老で白髪混じりの男性が立っていた。深みのある渋い声で、漆黒の燕尾服を着用している。
「私は、当城に仕える執事、マラードで御座います。 どうかお見知りおきを。 お噂はかねがね伺っております。 前ゲート護衛隊長様。 貴方のご活躍は我ら天空界の誇りです。 御用の際はなんなりと私や侍女にお申し付け下さいませ」
「どうも……」
レイスがマラードと対面する前、アリスが便宜を図ってくれたのだろう。通常通り、ハイドという偽名で通っていた。こうも簡単に家臣を欺いて良いのだろうかとレイスは不服だったが、今回に限り都合が良かった。
アリスとマラードは大変親しげに話すが、レイスは丁寧な出迎えに慣れず、ペコリと頭を下げてその場を後にした。
城内には柱一つ一つに芸術的な彫刻が並び、見ていて飽きなかった。
「ふふっ、レイくん芸術好きなんだね。 どれも素敵でしょ」
「昔世話になった魔女が、よく風魔法で器用に削ってたんだ。こういうのいっぱい作ってた。……この魚を咥えてる動物の彫刻は何?」
レイスが指を差した先を見て、アリスは目を輝かせた。
「お目が高い! それはね、私が作ったの。 『クマノキボリ』って名前を付けた。 どう?」
「この洋城の景観が悪くなるよ」
アリスはまた頬を膨らませたが、今度は無視し、警戒を続けた。
レイスはある点に気づいた。静か過ぎる。さっきの執事と別れてから一度も人と遭遇していない。
静まり返った廊下に、レイスとアリスの足音だけがこだまするだけだ。
「今『テール』は遠征中? それともまた卑怯な奇襲中?」
「ううん、誰も外に出てないよ」
レイスは皮肉たっぷりに質問したが、アリスは首を横に振った。
――まさか、とアリスの返答が頭の中でこだました。『誰も出ていない』つまり、全員城内にいる。でも静か過ぎる。ということは――
「この軍団て何人で構成されているんだ?」
そのまま尋ねる勇気がなく、遠回しに訊いた。
しかし、アリスの返答は大方予想できていた。
「んー……一人から……七、八千万人くらい? 特に限った数は無くて、私の体力次第ってところかな」
レイスは気が滅入ってしまった。
この天空界魔道士軍団『テール』の構成員の数は全て、アリスの御心次第、体力次第、加減次第ということだった。
アリスの反発する悪魔、レイスは彼女の悪魔の名を知らないが、無数の武装軍隊を至るところに召喚させるような、未だかつて対峙したことない凄まじい力を宿している。
レイスは数の暴力の恐ろしさを身をもって知っている。
――天空界"七星魔剣"。すなわち天空界の魔道士の中の最高位たる魔道士。その一人がアリス。七星魔剣の候補と謳われたレイスですらこの格差。
レイスにとってこんなに早い段階で遭遇するとは夢にも思っていなかった。
「あ! でも可愛い侍女ちゃんがいるんだよ。 あとでちゃんと紹介するね」
「……遊びに来たわけじゃないんだ。 お前が僕にとって都合良い条件を突き出してきたから、協力するだけ」
「はいはい。でも今日はもう遅いから、寝よ? 寝室用意してもらったから」
レイスはアリスから部屋の鍵を受け取る。ハイドも居ないのに、その日入った敵地で寝るなど、無防備で出来るわけないと吐き出しそうになったが心の中で留めた。
「その日入った敵地だけど、無防備で大丈夫だよ。 あ、ハイドくんいなくて寂しいなら十数人くらい兵を召喚しておこうか?」
「それは親切のつもりで言っているのか? 余計に眠れなくなるから辞めてくれ。……もしハイドが復活したら、お前の寝首をかくかもしれないぞ」
憎しみがないこそすれ、レイスにとって天空界は敵であり、ルナの仇でもある。
それを改めて心に留めた。そして願った。
ハイドの復活と、敵意の維持を。
「ふふっ、レイくんのえっち。 夜這いはほどほどに、ね」
「そういう意味じゃねぇよ!」
アリスはクスッと微笑み、自室で就寝した。