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夫が家出しました  作者: 籠子
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美樹の病室で一緒に夕飯を食べてから病院を後にした。


ぽつぽつと歩き出したが、行き先は無い。

鞄の中の離婚届を提出しに区役所へ行こうにも、印鑑を持って家を出なかったので自分のサインも出来ない。


もうあの部屋には帰らない勢いで出て来たのに、着替えも無く、離婚届を出す事も叶わず、今夜の泊まる処も無く、つくづく自分が情けなく思えてくる。


無意識に歩くと自宅のある最寄り駅に着いてしまい、改札を出たところで足が止まってしまった。


馴染みの商店街に街の音と夕飯の総菜の匂い。今朝までは自分の住む街。自分の帰る家に続く景色だったのに、今は違和感しかなかった。

休日の夕方、二人で手を繋いで買い物した商店街。仕事帰りに改札で待ち合わせて、二人で並んで帰った道。

見える景色も音も空気も、何もかもが慶司との思い出に繋がる。



今夜泊めて…と、頼める友は入院中。大きな溜息をついてから足元から視線を上げると、以前に盗聴器が見つかった夜に泊まったビジネスホテルが目に止まった。如何やら今夜はここに泊まるほかないようだった。

当座の身の回りに必要な物を買い揃えてからチェックインする。

シングルの部屋は簡素な造りで必要最低限の物しかない、それが今の一美には丁度良かった。何も無い処でゆっくりと静かに過ごしたい、ないも無い処でこの先を考えたい一美には落ち着ける空間だった。


シャワーを浴びると、三十時間以上寝ずに起きていた身体から緊張が解け心が緩みだすと、座って居るだけでも瞼がおりてくる。


明日からは普通に仕事に行かなくてはならないし。個人的な問題を仕事に持ち込むわけにもいかない。今後、明日以降の生活をどうするのか考えなくちゃいけない。


考えなくちゃ…


明日、仕事が終わったら帰る場所と...着替えや...

それとマンションに残してきた自分の物や...

それと..

この離婚届を...


明日からの…私を...考えなくちゃ...


明日から、一美は何処へ帰ればいいのだろう。そして、夫と暮らしたマンションから出るには、如何したらいいのか。考える事は他にもあるのだが、背中がベッドに沈んでく感覚に一気に眠りに引きずり込まれた行った。


眠ってしまうと何も考えなくて済んだ。

全てが何も無かったかのように深い眠りに落ちて行くと、全ての事から解放されていくのだった。





BBB BBB・・・


何かが低く唸る音と微かな振動で、泥沼の様な眠りから浮上する。

深い眠りに溶けていた一美だが携帯の音には反応が速かった。目に飛び込んだ景色にここが何処かなんて考える余地もなく、起き上がるないなや携帯を手に取る。


「山崎さん?具合でも悪い?日勤始まってるんだけど...」


一気に目が覚める。聞き覚えのある声。朋子だ。

携帯を耳から離して時間を確かめると、午前九時を回っていた。

おそらく、アラームが鳴った事に気付かずに寝ていたようだ。こんな事は今まで一度も無かった。


「具合……悪いの?鼻声だけど..無理して出て来なくても大丈夫よ。今日は人手があるから何とかなりそうだし」


ほんの一瞬だけ迷ったが、これから化粧をして電車に乗る時間を考えた。


「..ごめん。ちょっと頭が重くて。今日は、じゃあ休ませてもらってもいいかな..」


「分かった。師長に、そう電話が合ったって伝えとくね。おだいじに」


通話を終了させ、大きく息をはきながら再び枕に沈み目を閉じた。普段はあんなに猫の手も借りたいほどの忙しさなのに、簡単に休ませてくれ、思えば朋子の声に、"早く出勤してよ~"の雰囲気がなく、最初から休ませてくれる口調から気遣いが伝わった。

携帯を枕の横に置いたが、遮光カーテンの隙間から入り込む強い日差しに再び眠る気になれず起き上がり、冷蔵庫からミネラルウォータのボトルを取り出す。数口飲んで時計を見る。先程の電話で起こされなかったら、チェックアウトに間に合わない処だった。



チェックアウトを済ませ、これからどうしようかと一瞬考えたが、快晴の空が一美の背中を押した。


「はっ!そうだ、今日は予定外の休日になったんだ。」


迷い、途方に暮れていた顔は生気を取り戻し一美は駆け出した。


「今日中に全て終わらせよう。慶司が私のシフトを把握していたとしたら、あのマンションに入れるのは今日しかない」


足早に歩きながら、頭の中で持ち出す物と残していく物を整理していく。今日1日であの部屋から自分の荷物を全て持ち出そう、今日を逃したら次はないのだ。


一美は、即日入居出来るウィークリーマンションを借り、マンションの鍵を手に確りと握りしめ慶司と暮らしていたマンションへ向かった。手の中の鍵の角が痛く感じるほど強く握っていたが、新しい希望とスタートの感触として心地よかった。


マンションが近づくにつれ鼓動が速まり、辺りに気を配り始める。先ずは敷地の周囲の道路を散歩を装いながら一周し、脇道の方にも慶司の車がないか確認する。最後に駐車場も……。


一美は部屋に入るなり行動を開始した。

頭の中で計画をたてた通りにスーツケースに詰め込んでいく。入りきらない本や衣類の山が部屋のすみにに出来上がったタイミングで宅配業者が来たので、大きな段ボール箱数個が出来上がる。新しい住まいへ箱を送り出すと、スーツケースと一美だけになった。


宅配業者が引き上げた部屋は妙に静かだ。

慶司と使った家具や食器、壁に飾ったふたりの写真も全てを見て回る。ゆっくりと時間をかけてる暇はないが、これが最後である。


玄関をでる。

平日の午後の静かな廊下にスーツケースの音だけ響かせ、エレベーターに乗る。

慶司の部屋番号の郵便受けに鍵を落とす。


なんの後悔もない、むしろ清々しさを感じながらマンションをあとにし、その足で区役所へ離婚届をだした。

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