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『まほろば巡礼録 ―妖と人の喫茶旅―』  作者: 花曇り


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『青森・黄泉比良坂の吹雪と命を繋ぐけの汁』

 南国・宮崎の暖かな太陽の下で天岩戸をこじ開けた事件から、わずか数日後。 東京・杉並の『喫茶まほろば』の店内は、本格的な冬の到来を告げる冷たい木枯らしの音を窓の外に聞きながらも、ストーブの柔らかな熱と珈琲の芳醇な香りに包まれていた。

「……湊。宮崎のチキン南蛮と地鶏の余韻がまだ私の細胞に刻まれているというのに、東京のこの寒さは何ですか。私の狐毛皮が『南国モード』から『極寒モード』への切り替えに失敗し、深刻なエラーを吐いています」

 ストーブの真ん前に陣取り、分厚いどてらを着込んだ白妙が、両手でホットココアのマグカップを握りしめながら恨めしそうに呟いた。

「お前が勝手に体温調節をサボってるだけだろ。ほら、今日は特別にマシュマロを三つ浮かべてやったぞ」

 湊がカウンター越しに言うと、白妙の頭頂部の狐の耳がピクンと反応した。

「三つ!? さすが湊、話が分かります! とろけたマシュマロの暴力的な甘さが、冷え切った妖力を急速チャージしてくれます!」

 白妙がココアに口をつけ、幸せそうに目を細めたその時。 カランコロン、とドアベルが鳴り、真っ白な息を吐きながら千歳が入ってきた。 彼女の表情は、いつにも増して険しい。

「おはよう、二人とも。……暖まっているところ悪いけれど、緊急事態よ。宮崎での一件が終わったばかりで申し訳ないけれど、至急、北へ飛んでちょうだい」

「いらっしゃい、千歳さん。北って……前の依頼の後に言っていた、津軽海峡の方か?」

 湊が尋ねると、千歳はカウンターにタブレットを置き、恐山を中心とした下北半島の地図を表示した。

「ええ。青森県よ。朝倉さん、古事記に記された『黄泉比良坂』の神話は知っているわね?」

「イザナギが、死んだ妻のイザナミに会いに黄泉の国へ行き、その恐ろしい姿を見て逃げ出した話だ。その時、生者の世界と死者の世界を隔てるために、巨大な千引きの岩で坂を塞いだ……」

「その通り。その岩は『道反之大神』という神格を与えられ、生と死の境界を守り続けている。……神話の舞台は出雲地方とされているけれど、日本全国には、恐山のように古くから『あの世とこの世が交わる霊場』として、黄泉比良坂と同じ概念を持つ境界がいくつも存在するわ」

 千歳は、タブレットの画面をスワイプし、真っ黒な吹雪に覆われた山道の映像を映し出した。

「現在、青森の霊場に通じる山道で、その『生と死の境界を塞ぐ岩』の妖格が、ひび割れ始めているの。岩の隙間から、黄泉の国の凍てつくような冷気と、行き場を失った亡者たちの思念が、猛烈な吹雪となって現世に漏れ出しているわ」

「境界の岩が割れる……? 岩の妖が、限界を迎えているってことか」

「ええ。かつて人間たちは、イタコに死者の口寄せを頼んだり、お盆や彼岸に手厚く供養をしたりして、死者との『心の繋がり』を大切にしてきた。けれど現代では、死はただの『忌むべき終末』として遠ざけられ、先祖を想う時間が極端に減ってしまった」

 千歳は悲痛な息を吐いた。

「境界を守る道反之大神の妖は、人間が死者を『完全に忘却した』と絶望している。現世からの祈りの温もりが届かなくなったことで、岩そのものが黄泉の冷気に耐えきれず、崩壊しようとしているの。このまま岩が砕ければ、青森一帯は生と死の境界が消失し、永遠の吹雪と亡者の徘徊する『常世』に飲み込まれるわ。……朝倉さん、岩の心を温め、境界を修復してちょうだい」

「了解した。……死者への想い、か」

 湊がエプロンを外すと、ココアを飲み干した白妙が勢いよく立ち上がった。

「はい! 青森と言えば、大間のマグロ! 陸奥湾のホタテ! そして弘前のアップルパイ! 黄泉の国の吹雪など、私の狐火と食欲で全て蒸発させてみせます!」

 数時間後。新幹線で新青森駅に降り立ち、レンタカーで下北半島へと向かった二人は、あまりの極寒に言葉を失っていた。 横殴りの地吹雪が視界を白く染め上げ、フロントガラスに叩きつけられる雪は、物理的な冷たさ以上に、ゾッとするような『死の気配』を帯びている。

「……湊。これはただの雪ではありません。文字通り、あの世の冷気です。私の狐毛皮の防寒性能を軽々と突破して、魂まで凍りつきそうです……」

 白妙が助手席でガタガタと震え、九つの尾を自分に巻き付けて丸くなっていた。

「ああ、ヒーターを最大にしても効かないな。……だが、吹雪の元に向かう前に、まずはこの土地の人間が、どうやってこの厳しい冬を乗り越えてきたのかを知る必要がある」

 湊は、雪に埋もれかけるようにしてひっそりと営業していた、街道沿いの古い定食屋に車を滑り込ませた。

カラン、と引き戸を開けると、店内にはだるまストーブが赤々と燃え、焼き干し(煮干し)と味噌の、郷愁を誘うような香りが漂っていた。

「いらっしゃい。こんな吹雪の日に、よく来たねえ」

 腰の曲がった小柄なおばあちゃんが、温かいお茶を出してくれた。

「おばあちゃん、名物の『貝焼き味噌』をお願いします。それと、ご飯も」

「はいよ。すぐ作るから、ストーブに当たってなさい」

 ほどなくして運ばれてきたのは、大人の手のひらほどもある巨大なホタテの貝殻を鍋代わりにして、ネギ、ホタテの身、そして味噌と卵をグツグツと煮込んだ、青森のソウルフード『貝焼き味噌』だった。

「いただきます!」

 白妙がスプーンで熱々の貝焼き味噌をすくい、ご飯に乗せてかき込む。

「んんんーっ! 焼き干しのお出汁と味噌の深いコクを、卵がふんわりと優しく包み込んでいます! そしてホタテの身から出る強烈な海の旨味……! 貝殻から染み出す風味が、普通の鍋で作るのとは全く違う、野性味と温かさを生み出しています!」

 白妙の顔に、みるみるうちに赤みが戻っていく。

 湊も一口食べる。 素朴だが、信じられないほど心が休まる味だ。厳しい雪国の冬、貴重な卵やホタテを使ったこの料理は、かつて風邪を引いた時や、栄養をつけたい時に、母親が作ってくれる『一番のご馳走』だったという。

「……美味しいですね。心が温まります」

 湊が言うと、おばあちゃんはストーブにあたりながら優しく微笑んだ。

「そうかい。この貝殻はね、昔から何十年も大事に使い込んでいるんだよ。うちのばあちゃんが、私が熱を出した時によく作ってくれてね。……そのばあちゃんも、もうとうの昔にあの世へ逝っちまったけど、この貝殻で味噌を焼く匂いを嗅ぐと、今でもばあちゃんがそばで看病してくれているような気がするんだ」

 おばあちゃんは、壁に掛けられた古い仏壇を見上げた。

「人間はね、死んだら終わりじゃない。こうして残された者が、同じ味を食べて、思い出話をしてやる。それが一番の供養なんだよ。あの世は寒いからねえ。こっちから温かい気持ちを送ってやらないと、向こうで凍えちまうからね」

 おばあちゃんのその言葉に、湊はハッとした。黄泉比良坂の岩の妖が絶望している理由。それは、現世からの「温かい気持ち」が届かなくなり、あの世が本当にただの『冷たい死の世界』になってしまったと思い込んでいるからだ。

「……おばあちゃん。青森の冬の供養で、家族みんなで食べる『汁物』の作り方を、教えてくれませんか」

 吹雪が荒れ狂う、恐山へと続く山道の入り口。 そこには、現実の風景を侵食するように、神話に語られる『黄泉比良坂』の異界が顕現していた。

 灰色の空から降り注ぐのは、雪ではなく、亡者たちの悲鳴の結晶である『死の灰』だ。 山道を完全に塞ぐように、高さ数十メートルに及ぶ巨大な一枚岩―『道反之大神』の妖がそびえ立っていた。しかし、その堅牢なはずの岩肌には無数の亀裂が走り、そこからドロドロとした黒い冷気が、凄まじい勢いで現世へと噴き出している。

『……コナイ……。モウ、誰モ来ナイ……』

 岩の奥底から、地鳴りのような、悲壮な声が響き渡った。

『生者ハ、死者ヲ忘レタ。供物ノ温モリモ、祈リノ声モ、コノ境界ニハモウ届カナイ。……黄泉ノ国ハ、永遠ニ凍テツクダケノ場所トナッタ。ナラバ、コノ岩壁ヲ維持スル意味モナイ……全テ、吹雪ニ飲マレ、生モ死モ無ニ帰ルガイイ……!』

 メキメキッ! と音を立てて、岩の亀裂がさらに大きく広がる。割れ目から、亡者たちの黒い影が這い出し、現世へと溢れ出そうとしていた。

「させませんっ!! 狐火・九尾大障壁!!」

 白妙が猛吹雪の中へ飛び出し、全妖力を解放した。九つの尾が天を衝くほどの巨大な青白い炎の壁となり、岩の割れ目から噴き出す黄泉の冷気と亡者たちを、真っ向から押し留める。

「くぅぅっ……! さすがは神話の境界……! 宮崎の天岩戸よりも、絶望の重さが段違いです! 私の狐火でも、凍りつきそうです……!」

 白妙の足元に霜が張り、狐火の青い光が、吹雪に押されて徐々に小さくなっていく。

「白妙、持ち堪えろ! 今、温めてやる!」

 湊は、風を避けるように車の陰でポータブルコンロを展開し、大きな土鍋に火をかけた。

 鍋の中で煮込まれているのは、定食屋のおばあちゃんから教わった、津軽地方の冬の郷土料理―『けの汁』だ。 大根、人参、ごぼう、わらび、ふき、そして凍み豆腐や油揚げ。これら全ての具材を、気が遠くなるほど細かく、均等な小さな賽の目に刻み、昆布と焼き干しの出汁で煮込み、味噌で味を整える。

 小正月の時期に、女性たちが家事を休めるようにと大量に作り置きされる精進料理。 同時にそれは、手間暇をかけて具材を細かく刻む『時間』そのものが、家族への愛情であり、仏様への供養となる、祈りの料理だった。

 グツグツと煮える土鍋から、根菜と山菜の土の香り、そして味噌の甘く芳醇な匂いが立ち昇り、地吹雪の中に温かな空間を作り出す。

『……ッ!? コノ……匂イハ……』

 岩の妖が、ピクリと反応した。

「あんたは、現世の人間が死者を忘れたと絶望しているかもしれない。だが、忘れてなんかいない!」

 湊は、熱々の『けの汁』を木の椀にたっぷりとよそい、吹き荒れる黄泉の冷気の中を一歩、また一歩と岩へ向かって歩み寄った。

「生きている人間は、死んだ人間のために、わざわざ時間と手間をかけて、野菜を一つ一つ細かく刻んで鍋を煮込むんだ! あんたの向こう側で凍えている死者たちに、この熱を届けてやってくれ!」

 湊は、自ら椀に口をつけ、熱いけの汁をすすった。 サイコロ状に刻まれた根菜のシャキシャキとした食感と、山菜のほろ苦さ、そして出汁をたっぷり吸い込んだ凍み豆腐の旨味が、口の中でホロホロと崩れ、味噌の深いコクとともに胃の腑へと落ちていく。

 『記憶の味』。

 湊の意識を媒介として、この『けの汁』を作るために費やされた無数の人々の時間、家族を想う温もりが、境界の岩の精神へとダイレクトに流れ込んでいく。

 視界に広がるのは、雪に閉ざされた津軽の古い古民家。 囲炉裏の火がパチパチと燃え、外の吹雪を忘れさせるほどに室内は暖かい。

 台所では、母親と娘が、気の遠くなるような時間をかけて、大根や人参をトントン、トントンと細かく刻んでいる。

『なんでこんなに細かく切るの?』

『こうすれば、味がよく染みて美味しくなるし、歯の悪いおじいちゃんでも食べられるべ。それにね、一つ一つ刻む時間が、ご先祖様への感謝の気持ちになるんだよ』

 出来上がった大鍋いっぱいの『けの汁』。 家族が食卓を囲む前に、母親は一番初めに、小さなお椀にけの汁をよそい、仏壇へと運ぶ。 チーン、と澄んだ鈴の音が響く。

『じいちゃん、ばあちゃん。今年も寒いけど、みんな元気だはんで。温かいけの汁、食べてけろ』

 手を合わせる家族の背中。 仏壇に供えられたけの汁から立ち昇る一筋の湯気が、天井を抜け、雪空を越え、生と死の境界―黄泉比良坂の岩へと届く。 冷たく暗い黄泉の国に、その湯気は『ぽっ』と灯る小さな暖炉のように、確かな熱と光をもたらしていた。

 人間は、死者を忘れてなどいない。 日々の忙しさに追われ、形は少しずつ変わったとしても。 美味しいものを食べた時、家族で食卓を囲んだ時、「おじいちゃんもこれ、好きだったな」と思い出す。 そのささやかな瞬間に生じる『心の熱』こそが、あの世とこの世を繋ぐ、最強の供物だったのだ。

 ビジョンが、熱と共に弾ける。

『……アァ……』

 現世の吹雪が、ピタリと止んだ。 巨大な道反之大神の岩から、黒い冷気が嘘のように消え去っていく。

『……思イ……出シタ……』

 岩の奥から響く声は、先ほどまでの絶望のうめきではなく、深い安堵に満ちた、大地の響きそのものだった。

『……我ハ、タダ死者ヲ閉ジ込メルタメノ壁デハナカッタ。……現世ノ人間タチカラ送ラレテクル、コノ温カイ祈リノ熱ヲ……黄泉ノ国ヘト浸透サセルタメノ、大イナル「扉」デアッタナ……』

 メキメキ……と音を立てて、岩に走っていた無数の亀裂が、自ら塞がっていく。 亡者たちの影も、けの汁の甘い匂いに包まれるようにして、静かに、安らかに岩の向こう側へと帰っていった。

「そうさ。あの世が寒いなら、こっちから温かいものを送り続ければいい。あんたは、その橋渡しをするための、大事な境界なんだからな」

 湊が椀を下ろし、静かに語りかけると、巨大な岩肌全体が、一瞬だけ優しくオレンジ色に光り輝いた。

『……人間ノ子ヨ、妖狐ヨ。我ノ冷エ切ッタ体ヲ、モウ一度温メテクレテ、感謝スル……。我ハコレカラモ、コノ吹雪ノ中デ、生者ノ祈リヲ待チ続ケヨウ。コノ細カク刻マレタ、愛情ノ味ト共ニ……』

 岩の表面から光が消え、再び不動の境界として沈黙した。空を覆っていた灰色の死の灰は消え去り、雲の隙間から、美しい冬の星空が顔を出した。

「……終わりましたね、湊」

 白妙が狐火をしまい、その場にへたり込んだ。

「ああ。神話の境界も、結局は家族の食卓の温もりには敵わないってことだ」

 湊は土鍋の火を止め、ほっと息をついた。

「湊……私、黄泉の冷気と戦って、胃袋の中が完全にエンプティです! 境界が閉じたお祝いに、残りのけの汁を全部要求します!」 「お前は本当に……。ほら、冷める前に食え。体の芯から温まるぞ」

「やったー!」

 星空の下の極寒の山道で、人間と狐の妖が、一つの鍋を囲んでふうふうと汁をすすっている。 境界の岩は、その様子をどこか優しく、穏やかな眼差しで見守っているかのようだった。

 翌日。 雪晴れの弘前市。赤いレンガ造りの洋館が立ち並ぶ美しい街並みの一角にあるカフェで、湊と白妙は向かい合って座っていた。

「んんん〜〜〜っ! サクサクのパイ生地の中に、青森産リンゴの酸味と甘味がギュッと凝縮されています!バターの香りとシナモンの風味が、神話クラスの戦いで疲弊した妖力を限界突破させてくれますー!」

 白妙は、皿の上の巨大な『アップルパイ』をフォークで切り分けながら、目をキラキラと輝かせていた。

 湊が珈琲を飲んでいると、スマホが鳴った。

『お疲れ様、朝倉さん、白妙ちゃん。恐山の境界の異常、完全に修復されたわ。……まさか、黄泉比良坂の神話を「けの汁」の温もりで封じ込めるなんてね』

「千歳さん。神様だって妖だって、人間から忘れられて、ただ冷たい場所に放置されるのが一番辛いんだ。手作りの温かい料理があれば、あの世だって春になるさ」

『ええ。人間が死者を想い、共に食事を楽しむ心がある限り、境界は決して壊れない。あなたたちがそれを証明してくれたわ』

 千歳の声は、どこまでも優しく、信頼に満ちていた。

『さあ、東京の「まほろば」へ帰ってきて。……でも、油断はしないでね。日本にはまだまだ、忘れられかけている神話や伝承が山のようにあるんだから』

「了解した。……次はどこに行くにしても、まずはまほろばで、ばあちゃんのナポリタンを作るよ」

 通話を切ると、白妙が最後の一口を飲み込み、満面の笑みで湊を見つめた。

「湊! アップルパイも最高でしたが、次は大間のマグロが食べたいです! それとも北海道に戻ってカニですか!? 私の胃袋の旅は、まだ始まったばかりですよ!」

「お前の胃袋は底なしかもな。……まあ、付き合ってやるよ」

 青く澄み渡る青森の冬空の下。

 人と妖、そして生と死の記憶を繋ぐ『喫茶まほろば』のマスターと食いしん坊の狐の旅は、美味しい料理と温かい思い出がある限り、これからも終わることなく続いていくのだった。

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