領収書のない「経費精算」と、鬼の経理監査(ガサ入れ)
目標管理(KPI)シートと1on1面談の地獄を潜り抜け、ようやく一息ついたクリスティア。
これからは能力に関係なく、みんなで仲良く定時退社する平和な日常が戻るはずだった。
だが、その淡い期待は、いつになく般若の形相をしたヴィンスの襲来によって打ち砕かれた。
バァァァン!! と、CEO執務室の扉が激しく開く。
「社長。緊急の経理監査、いわゆる『ガサ入れ』のお時間です」
ヴィンスの手には、抱えるほどの量がある、ぐちゃぐちゃに丸められた羊皮紙(領収書)の山が握られていた。
その眼鏡の奥の目は、怒りで完全に血走っている。
「な、何事ですのヴィンス。わたくし、今は優雅にハーブティーを飲む『休憩時間(定時内)』ですわよ」
「休憩している場合ではありません! 社長が福利厚生の一環として『業務に必要なものは経費で落として良い』というルールを作った結果……今月、社内のモラルが完全に崩壊しました!」
ヴィンスは、机の上に大量の領収書をぶちまけた。
「ご覧ください。これが現場から上がってきた経費の申請書です。
……まずはルシアン本部長!」
ヴィンスが最初の一枚を突きつけた。
『但し、情報収集費として。 金貨三十枚(裏通りの酒場・黒猫亭)』
「……ルシアン、これただの飲み代じゃないの?」
「その通りです! 本人に問い詰めたところ、『酒場で悪い奴らが残業の計画を立てていないか、酒を飲みながら一晩中監視していた。
だから情報収集費(経費)だ』と、ふざけた供述をしております!」
飲み会を「情報収集」と言い張る、前世のブラック企業でもよく見た最悪の言い訳だった。
「続いて、レオンハルト局長!」
ヴィンスが次の紙をめくる。
『但し、オフィス環境改善のための備品代として。 金貨五十枚(高級漆黒ダンベル、および超高濃度プロテイン・ゴールド)』
「筋肉はオフィスの備品じゃありませんわよぉぉぉっ!!」
クリスティアのツッコミが炸裂した。
「そうでしょう! ですが彼は『筋肉が引き締まれば、労基署の威厳が上がり、隠れて残業する者を怯えさせることができる。
だからオフィス環境の改善だ』と、謎の筋肉論理を展開して一歩も引きません!」
さらに、新卒のモンスター新人たちにいたっては、『研究開発費』という名目で最新の魔法ゲーム機を買い、『衣服手当』という名目でデート用の高級スーツを領収書で回していた。
「経費」という甘い蜜を知った社員たちが、ありとあらゆる私欲を「業務に関係あるっぽい横文字」に変換して、会社に請求していたのである。
「あのバカ共……! 会社のお金を何だと思っているのですの! 全部却下、全額給与から天引きしなさい!」
「当然です、すでに手続きは進めております。……しかし、社長」
ヴィンスが、スッと冷たい視線をクリスティアに向けた。
「人のことをバカ共と呼べるほど、社長の身辺は潔白ですか?」
「え……? な、何のことかしら」
クリスティアの冷や汗が、背中を伝う。
ヴィンスは、麻袋の底から、最も豪華な金縁の領収書を取り出した。
『但し、領地視察用・移動補助具として。 金貨百枚(ローズウッド魔導具店)』
「社長。これ、社長が自分の部屋にこっそり運び込ませた、最高級の『全自動魔法マッサージチェア』の領収書ですよね?」
「ギクッ……!!」
「さらに、こちらの『会議用お茶菓子代』という名の、王都の限定高級マカロン十箱。
これも、会議室ではなく社長のベッドの下から、空箱が大量に発見されましたが?」
「ち、違うのよヴィンス! マッサージチェアは、わたくしが過労で倒れたら会社の損失だから、経営者のリスクマネジメント(福利厚生)として……!
マカロンは、脳の活性化のための『必要経費』でしてよ!!」
クリスティアは必死に弁明したが、鬼の経理担当には一切通用しなかった。
「却下です。全額、社長の今月の役員報酬から自腹で落とさせていただきます」
「そんなぁぁぁぁっ!! わたくしのマカロンがぁぁぁっ!!」
自業自得とはいえ、お小遣いを削られたクリスティアはソファーで項垂れた。
しかし、地獄はここからだった。
「社長、この『経費のモラル崩壊』を正すため、本日より新たなルールを施工します。
今後、我が社のすべての経費精算は、経理のチェックの前に、最高経営責任者である社長の『事前承認』を必須とします」
「……え?」
ヴィンスがパチンと指を鳴らすと、執務室の扉が開き、元・第一騎士団の面々が「一万枚を超える全社員の領収書」が入った巨大な木箱を、ドサドサと運び込んできた。
「ちょ、ちょっと待ち(お待ちな)さい! なぜわたくしが全員の領収書を見なきゃいけないの!?」
「社長が自分の私物を経費で落とそうとするから、見せしめです。
さあ社長、本日中にこの一万枚の領収書を一枚ずつ確認し、本当に業務に関係があるか精査して、承認印を押してください」
「………………」
前世の社畜時代、月末になるたびに誰もが発狂していた、あの忌まわしい「経費精算のチェック業務」。
それが今、大陸最大規模のグループ企業のトップであるクリスティアの元へ文書の山となって押し寄せてきた。
「ヴィ、ヴィンス……これ、本当にルシアンの飲み代かしら? 一応『現場の聞き込み調査』って書いてあるけれど……」
「却下です」
「じゃあ、この新卒の『魔法ペンシル』は……?」
「ただの高級なブランド羽ペンです、却下です」
一枚一枚、嘘を見破り、却下し、ハンコを押す。
文字通りの「数字と羊皮紙のデスマーチ」が、再び幕を開けた。
翌朝。
一万枚の領収書を全て仕分け終えたクリスティアは、右手にハンコのインクを真っ黒に浴びたまま、デスクの上で灰になっていた。
「……終わった。終わったわ……。
でも、わたくしの役員報酬は減り、仕事だけが何倍も増えたのは……一体どういう理屈かしら……」
「お疲れ様です、社長! おかげで今月の無駄な経費が、金貨三千枚分も削減できました!」
リリィが爽やかな笑顔で、ハーブティー(いつもの糖分ゼロ)を運んでくる。
「……もう嫌。来月からは、全員一律で『経費は月にお小遣い(金貨一枚)まで』にするわ……。
領収書なんて、この世から滅びればいいのですわ……」
楽をするために経費をガバガバにしたら社員が暴走し、引き締めようとしたら自分の仕事が爆発する。
誰もが一度は頭を抱える「経費精算」という身近な闇に、完膚なきまでに叩きのめされた元社畜令嬢。
彼女が経費でハワイ旅行(温泉旅行)に行ける日は、どうやら永遠にやってこないようである。




