56.「持たざる者」は、支持される
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メシアの手番。
さっきの札――紅葉に鹿が、余程こたえたのだろう。
けれど、次の瞬間にはもう、表情が戻っていた。
当たり前のように“体勢を立て直した”。
「……自業自得な打ち方でしたからね」
ぽつりと落とす声は、自罰的で、自嘲に満ちていた。けれど、その目だけは、刺すようにこちらを捉えている。
「名取くんを前にして……ほんの一瞬だけ、本物になってみたくなったんです。
――この、偽物風情が、ね」
その言葉には、妙な“熱”があった。
まるで、自分の存在ごと切り落とすような声色。
俺は、思わず身構える。
メシアは何事もなかったように、札を寄せていく。
菊のかす。
そして――菊に盃。
さっき、あいつが「奇跡だ」と煽った札だ。
その札を、何の感情もない顔で、自分で回収していった。
俺は思わず息を詰める。
……意味は、分からない。
だが、その言葉に滲んだ“執念”だけは、はっきりと伝わってきた。
メシアが札をめくる。
「……桜の、赤短冊」
かすれた声。けれど、札を拾い上げる手には迷いがなかった。
丁寧に、指先で場に置く。
そして静かに、桜のかすと赤短をさらう。
「……これで、赤短は王手」
囁くような声が落ちた。
「短冊は四枚。どちらかが揃えば、名取くんを“殺せる”」
優雅な口調はそのままに、言葉だけが刺すように鋭い。
そこにあるのは――誇張ではない、本物の殺意だった。
(……あの札。俺が最初に“赤短、狙えるかも”って思ってたやつだろ……)
悔しい。
胸の奥が、ざらつく。
こんな打ち方をされて、冷静でいられるわけがない。
……そして、それを読み切っていたかのように、メシアがふっと微笑んだ。
その笑みに、いつもの教祖らしい芝居じみた優しさはない。
「名取くん。あなたは、救いかもしれない。
でも私は――あなたの存在ごと否定しないと、生きていけないんです」
信者に聞こえないような、低い声で呟く。
「悪役っていうのはね。全員の役を下してしまえば――主役になれるんですよ」
その声は、祈りのようで、呪いのようでもあった。
本気で“倒す”つもりなんだ。俺を――絶対に。
メシアの目が、少しだけ細くなる。
憐れみも、怒りも、そして希望さえも宿していないその瞳が、俺だけを見つめていた。
(……こいつ、本気で俺を……)
その執念が、まるで刃のように、こちらの喉元に触れている気がした。
「……君って、本当に、“中途半端”ですよね」
「……は?」
また揺さぶりか――そう思った。
けれどその声音は、いつもの“教祖の声”じゃなかった。
重く、深く、感情がにじみ出ていた。
「何も知らずに来て、死んで、生き返って。
全部手に入れておいて、立ち位置も、意味も、分かってない。
……そんな人間が、ここに立ってる」
目は、笑っていなかった。
信者のほうを向いているようで、でも確かに、俺だけを見ていた。
その奥に渦巻いていたのは――怒りでも、悲しみでも、羨望でもない。
その全部だった。
「……蝶谷先輩の薬、あれ一本しかなかったんですよ。
君が、それを使った」
一言ずつ、突き刺すように。
「鬼雷くんだって、本当は……“命令に従う”子だった。
あの子、変わっちゃったんですよ。君に懐いて。
私じゃなく、君に」
場が、静まり返っていた。
メシアの声は落ち着いていたのに、空気が熱を帯びるのが分かった。
「君は偶然に選ばれた。
奇跡に愛されて、何一つ犠牲にせずに――“主人公みたいな顔”して立ってる」
「……それの、何が悪いってんだよ」
「――全部です」
一言。
けれど、その声は、震えていた。
「この場にいる誰もが、“この世界を自分のものにする”覚悟で花札を打ってる。
願いのために、信念のために。
誰かを騙してでも、踏みにじってでも。
それを、許容してここに立ってるんです」
メシアの声は、いつの間にか“演説”のようだった。
それでも、目だけはずっと俺から逸らさなかった。
「でも――君だけが」
その言葉に、わずかな苛立ちが混ざる。
「君だけが、“何も決めてない顔”で、真ん中に立ってる。
あまつさえ、誰かのために、なんて顔をして。
でも結局、それが誰かを犠牲にしてることに――気づいてない」
信者たちも、黙っていた。
まるで誰もが、“これは本音だ”と悟ったかのように。
「君のせいで、崩れたものがあるんです。
君のせいで、誰かが変わって、戻れなくなって。
それなのに、君は“優しいまま”で主役の座に立っている」
視線が、ぎらついた。
「……君みたいな人間が、いちばん嫌いなんですよ」
空気が――完全に切り替わった。
誰もが、メシアの言葉に聞き入っていた。
その怒り、嫉妬、悲しみ、痛み。
どれも演技には見えなかった。
信者たちの目には、彼が“傷つけられた正義”に見えていたのだろう。
「メシア様の気持ち、……分かる気がする」
「……なんか、泣きそうになっちゃった」
「名取って人、悪くないんだけど……見てると、なんかモヤモヤしてきた」
「メシア様は……ずっと背負ってきたもんね、ひとりで」
会場の熱は、明らかにメシアに向いていた。
さっきまで俺の勝ちに沸いていた一部の観客も、今は沈黙している。
だけど、俺の中にひとつだけ――拭えない違和感があった。
だから、言った。
「……紫藤を、段ボールに詰めて部屋の前に置いたのは、
本当に性格悪いと思った」
一瞬で、場の空気が微かに揺れた。
さっきまでの熱狂が、静かに冷え始める。
そのなかで、俺は見た。
メシアの顔が――一瞬だけ止まった。
演技の綻び、なんて簡単なものじゃない。
あれは、たぶん……素だった。
「……それ、誰がやったんですか?」
落ち着いた声だった。
けれど、視線だけが異様に鋭くて――
それが、観客席に向けられたとき、何人かが顔を伏せた。
「え、あれ……え?」
「いや、でも……」
「……まさか、私たち……?」
声が漏れ始める。
それを遮るように、メシアが、困ったように笑った。
「そうですか。分かりました」
ひとつ、呼吸を置いて。
「では、私がやりました」
ざわっ――と、波紋のように広がる空気。
「……うそ」
「なんで、今……?」
「でも、最初に言ってなかったじゃん」
「……ええ、思い出しました。たった今です」
言葉だけが滑らかで、何もかも、最初から決まっていたような――そんな声音だった。
それでもメシアは、何ひとつ変えず、
罵声のような視線の中で、小さく肩をすくめて言った。
「……では、そろそろ始めましょうか」
その声音は、どこまでも穏やかで。
まるで、すべてを受け入れるようだった。
俺は、黙ったままメシアを見ていた。
……あれは、何なんだ。
メシアの合わせ札
梅に鶯、菊に盃、芒に雁
梅の赤短冊、桜の赤短冊、藤の短冊、牡丹の青短冊
桜のかす、藤のかす、芒のかす、菊のかす
――松の赤短冊で、"赤短冊"完成。
――短冊1枚あれば、短冊5枚で"たん"完成。
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