15.花を手折って、安心する
◇
……俺の番、だった。
深呼吸。
場札を見る。
【芒】のかす、桜のかす、桜のかす、藤に不如帰、柳に小野道風、萩のかす。
相手の合わせ札は
桐に鳳凰、桐のかす、紅葉に鹿、紅葉のに青短冊。
――萩を出した時に微笑んでいたから……猪鹿蝶、狙っているかもしれないな
俺の手札を見る。
梅に鶯、【芒】に月、牡丹のかす、菖蒲のかす、芒のかす、菊のかす、紅葉のかす、桐のかす。
合わせられるのは……芒のかすだけ。
芒に月を、そっと重ねた。
――たん、と音が鳴る。
思っていたよりも、柔らかい音だった。
それなのに、心臓が一度だけ跳ねた。音のせいじゃない。自分の手が、その音を鳴らしたことに、体のどこかが驚いていた。
札をめくる。
……牡丹の青短冊。
ほんのわずか、肩の力が抜けた。
やっと、一息つけた気がした。指先の緊張が、かすかにほどけていくのを感じる。
これで、場の牡丹は消えた。
――それが、何よりも大きい。
もし山田の狙いが猪鹿蝶だったとしたら、この一手で“蝶”の札を一枚、場から退場させたことになる。
しかも、手札にはもう一枚、牡丹のかすが残っている。
このまま握ってさえいれば、後攻の俺が、最後の蝶を押さえたことになる。
……潰せた。
ほんの少しだけ、安堵が胸の内を満たした。
◇
ゆっくりと顔を上げて、山田のほうを見る。
何か言ってくるかと思った。札の流れに、何か仕掛けてくるのかと。
けど、彼はただじっとこっちを見ていた。
黙ったまま、真剣な目で。
……俺、そんなに変な顔してたか?
って思ったけど、たぶんそれはお互い様だった。
「どうした?」
肩の力を抜いて、わざと軽い声を出す。
ちょっとだけ笑ってみせる。ほんの少し、空気を和らげたかった。
「あっ、いいえっ、何でも! 何でもないです!」
山田は焦ったように言い返し、ちょっと拗ねたように口を尖らせた。
「……なんか、ピリピリした空気で花札やるのって、仇討ちみたいで……やだなって思っただけです」
強めな言い方。でも、声の奥が少しだけ震えていた。
言葉の途中で、何度か迷っていた。
本音を隠すような目の泳ぎ方。
それでも、最後は笑おうとしてくれたことが、逆にこたえた。
……俺は、いったん、手を止めた。
このまま続けるべきじゃない、と思った。
“守る”って何なんだろう。
さっきから札を出すたびに、そんなことばかり考えてる気がする。
花札は、遊びだ。
なのに、今の俺は――
息をするのも、どこかぎこちない。
これでは、いけない。
さっき、自分で「潰す」ことを選んだはずなのに。
なのに、目の前のこの少年ひとり、まともに笑わせられないで、何が“潰す”なんだ。
そう言って、ようやく気づいた。指先が、すごく強ばっていたことに。
「……ちょっとだけ、考える時間もらっていいか?」
自分でも驚くくらい、素直に言えた。
ちょっと情けない声だったかもしれないけど、今の俺には正直な気持ちだった。
「えっ?」
山田が目を丸くする。
「俺さ、なんか……"どうやって遊べばいいのか”分かんなくなってきてんだよ。
悪いなちょっとだけ、考えさせて」
無理やり笑ってみた。たぶん、うまく笑えてなかったけど。
そのとき。
山田が、じっと俺を見た。
目が合って、ちょっとだけ眉尻が下がった。
なんていうか――優しい目だった。
「ああ――なら、」
山田がぽつりと口を開いた。
笑ってたけど、それは明るい笑いじゃなくて、
ちょっと切ない、でもどこかあったかい感じの笑いだった。
「じゃあ、手札オープンでやりましょうか。ボクも見せるから」
その言い方が、やさしくて。
それは“勝負”じゃなくて、"一緒に遊ぼう”って言ってくれてるみたいだった。
「初心者なんですから。ちゃんと、初心者らしく――楽しんでほしいんです」
「……いや、俺は……」
言いかけたら、山田がピシッと遮ってきた。
「貴方のことは聞いてません!」
「……え?」
「ボクの話をするので、聞いてください!」
強気で言ってきたくせに、すぐ目をそらす。
でも、その口元はギュッと結ばれていた。
「ここに来てから、ずっと情けないことばかりで……自分でも嫌になるんです」
ぽつぽつと、こぼれる言葉。
「何でも“仕方ない”って顔で受け入れて、バカにされても笑って……でも、ほんとは疲れてて」
声はちょっと固い。でも、それが逆に本音っぽくて。
「もう、誰にも言えないって思ってたけど……」
視線を戻してきて、わざとらしく口を尖らせた。
「なのに、なんか……もっとひどい顔した人が急に現れて!
ボクの悲劇ポジション、持ってかれたんですけど!?」
……それ、俺のことか。
「……それは、悪かったな」
そう返すと、山田は小さく笑った。
「……いえ。なんか、吹っ切れちゃいました」
その笑いは、ちょっとだけ強がってたけど、本音だったと思う。
「どうせ……戦わないといけないんですよね。ここにいる限りは」
急に落ち着いた声だった。
子どもっぽさと、どこか背伸びした言葉が混じってた。
そのあと、少し間を置いてから、山田が顔を上げた。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
そのときだけ、声のトーンがちょっと変わった。
「なんだ?」
「君の、"目的”って、何ですか?」
――その言葉だけが、すごくまっすぐに響いた。
胸の奥が、静かに揺れた。




