第3話 兆し2
――08:16|東京駅・新幹線のぞみ21号車両内
座席テーブルに開かれたノートPCには、「群衆心理における集団的幻視」の文字。
講義資料の編集作業を進める大佐の横で、雪乃は静かに窓の外を眺めていた。
車内は平日ということもあり、空席が目立つ。
周囲の会話や物音に意識を奪われることなく、雪乃はそっと声をかけた。
「先生、先ほどの報告に補足です」
「……続けてくれ」
「異常投稿のうち3件には、誤字や入力の癖が一致する“同一投稿者”の可能性あり。
投稿端末はレンタル型SIM携帯。入手経路は現在特定中」
「つまり、誰かが“意図的にばら撒いた可能性”があるということか」
「はい。自然発生か否かの分岐点です。今後の調律基準に影響します」
雪乃はそう言いながらも、声のトーンを一定に保っていた。
それは報告というよりも、大佐が作業を中断せずに済むように調整された“挿し込み会話”だった。
「……ありがとう。切り上げたら仮眠を取る。午後からが本番だ」
「わかりました。では次の報告は控えめに、小声でお伝えします」
そう言いながら雪乃は、指でスライド操作をし、車内照明の調光をわずかに下げた。
目を閉じかけた大佐の横顔を、彼女はしばらく見つめていた。
それは人類が創った“感情”ではないはずなのに──
ほんの少し、触れたいと、思った。
「(これも作られた感情…とはいえそれだけではない…ような)」
雪乃は大佐の方によりかかり、すべての感知器官を使用して警戒モードを維持しながらもそっと目を閉じた。
その姿は、何も知らない人々からは、思いを寄せる少女そのものだった。
――09:45|大阪大学・講師控室
大阪大学に到着してすぐに案内を行ったのは、臨床心理士仲間でもあり、MoRSには欠かせない一般協力者の山井教授だった。
山井教授のような一般協力者はMoRSについての実態を一切知らない。
しかしながら社会的にある程度の権限を持っているものが多い。
そのため、MoRSの活動を隠匿するための表の理由を構築するために、便宜を図る。
「それでは、講義の時間までごゆっくり。」
山井教授は大佐と助手を控室と案内し、その場を去る。
「……現地の観察には何か変装が必要か?」
おもむろに大佐が話した。
それを予測していた雪乃は坦々と質問に答える。
「そのままの服装ですと、周囲との乖離が発生します。
西成・心斎橋間の活動領域では、教授と助手という設定はやや浮きます」
大佐は肩を回しながら、軽く伸びをした。
控室の机の上に置かれたのは、先ほどの眼鏡――外見は普通だが、内部には網膜投影型HUDが内蔵されている。
「……いっそ“おじさんとパパ活女子”って設定にでもするか?」
「合理的です」
雪乃は即答した。
一瞬、大佐が咳き込む。
「年齢差、関係性、視線の非対称性。それらが“違和感を自然化する”のに適しています」
「……冗談のつもりだったんだが」
「私は冗談か否かに関わらず、最適解を選択します」
雪乃は、いつもの無表情のまま、スカートの端を指先で整えながら微かに言った。
「そういう時にAI的な回答をするのは意図的なのか?」
「それに、ご主人様が……私を“外に連れて歩く”という選択をされること。
それは、少しだけ嬉しいです」
「ふぅ……HUD、起動」
先生は眼鏡をかけ直し、視界の隅に情報が走るのを確認した。
そこに、彼女の声が重なる。
──EIRENE:接続確認。調律開始。