第2話 兆し
――6月6日06:12|東京都内・大佐の自室
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、室内の金属光沢をわずかに照らした。
薄い布団の上で上体を起こした“先生”は、無言のまま視線を天井に向ける。
その眼差しは、数時間前まで処理していた報告書と同じ緊張を、まだ保っていた。
ドアの開く音。滑らかに床を踏む足音。ホワイトブリムをつけた少女が、銀の盆を手に入ってくる。
「おはようございます、ご主人様」
その声には抑揚も感情も希薄だった。
しかしそれは、設計された“自然”として、完璧だった。
雪乃――本名は持たない。MoRSにおける副官であり、大佐直属のAI補助機構。
現在は受肉体として、日常生活では“大佐の家のメイド長”として存在していた。
「朝食の準備が整っています。エネルギー効率の観点から、摂取を推奨いたします」
「……わかった。ありがとう、雪乃」
手短な返答とともに、大佐はゆっくりと立ち上がる。
家族が寝静まる朝のこの時間帯だけが、雪乃とふたりきりで会話ができる“私的空間”だった。
ダイニングに移動すると、焼いたトーストと、糖分の調整されたカフェラテが出迎えていた。
目を落とす間もなく、雪乃は手元のタブレットをスライドし、そっと大佐の前に置いた。
「今朝未明、心斎橋西部エリアにて“異常感知報告”が複数件発生しました」
「……どんな内容だ?」
「SNS上での投稿形式です。“信号が喋った”、“看板が逃げた”、“広告が警告してきた”──
合計12件が3時12分から5時40分の間に投稿、すべて既に削除済み。
ただし、削除速度とログの巻き戻し傾向から、自然削除ではなく、管理アルゴリズムへの手動介入が疑われます」
「誰かが“消している”……か。あの地区で?」
「はい。西成に近く、生活困窮者が多く集まる範囲です。MoRSの第三班構成員がホームレス数名に非公式ヒアリングを行いました」
雪乃が画面を切り替えると、荒く低い声の録音が流れた。
「信号が……なんか言ってたんだよ。“間に合わねぇ”って……でも次に赤になったときは何も言わなかった。あれは……夢じゃない」
大佐はそれを黙って聞いていた。
淡い光に照らされた雪乃の表情は、常と変わらない。
だがその報告の背後にあるものが、平穏を蝕む“予兆”であることは、彼女も理解していた。
「……心斎橋に行く」
「大阪大学での講義予定を利用すれば、昼前に現地へ到着可能です。
空き時間での観察行動が適切かと」
「判断は任せる。ただ、同行はしてもらう」
「もちろんです、ご主人様」