第176話 治療と窓口
先日より、体調が優れないため、更新が滞っていました。
申し訳ございません。
暫くの間は更新が遅れると思います。
治療は、時間だ。
時間は、命の順番だ。
順番を守るのは、優しさじゃない。
順番を崩すと、誰かが落ちる。
落ちた者の名前が、次の署名になる。
―――支援セクター 医療センター 第一処置室(雪乃視点)
消毒液の匂いは、薄い壁だ。
薄い壁は、涙みたいに染みる。
手術灯の白は、世界を平らにする。
平らになった世界では、血だけが浮く。
大佐の血は、赤い。
赤い血は、当たり前だ。
当たり前なのに、雪乃の中ではまだ“異物”だった。
処置台の周りに、人がいる。
医療班と技術班。
動きは速いが、声は小さい。
小さい声は、焦りを隠す。
小野寺が、技術班の肩越しに言った。
「ニューラルリンクの解除が終われば、止血と縫合に移れます」
雪乃は椅子に座っている。
座っているのに、内側が立っている。
立っているのは怒りじゃない。
“守れない可能性”が、まだ胸に残っている。
大佐は、意識があるように見えない。
だが、呼吸の間隔が揃っている。
揃っている間隔は、決裁の呼吸に似ている。
雪乃は思った。
この人はいつも、死にそうな顔をしない。
死にそうな顔をしないまま、死にそうなことをする。
“寿命の前借り”
その言葉が、医療班の説明より先に胸に刺さった。
椅子の背に、深く体重を預けた瞬間。
遅れて、眠気が来た。
眠気は弱さじゃない。
オーバーヒートの副作用。
演算の熱。
戦闘の熱。
怒りの熱。
熱は、最後に眠りへ落ちる。
落ちるのは逃げじゃない。
冷却だ。
雪乃は目を閉じた。
閉じた瞬間、世界の音が遠のく。
遠のく代わりに、内側の音が近づく。
―――都内 昼 某企業 本社フロア
針崎が投げた言葉は、社内の壁を薄くした。
“意見を出した社員に章詞を与える”。
章詞。
賞じゃない。
評価でもない。
“言葉”に対する印。
印は、次の印を呼ぶ。
会議室の入口に、紙が貼られる。
紙は丁寧だ。
丁寧だから疑われない。
「改善提案 章詞付与」
「匿名可」
「ただし、要点は一行で」
一行。
便利な一行は、すぐ標準になる。
標準になった瞬間、次が生まれる。
“その章詞、ほんとに貰った?”
“見せてよ”
“スクショで証明して”
証明。
また戻る。
形を変えて戻る。
ただし、今回は火種が違う。
“抑圧”ではなく、“誉れ”の形をしている。
誉れは甘い。
甘い誉れは、依存を生む。
依存は、提示要求へ繋がる。
敵は刃を握らない。
布を渡す。
布が勝手に刃を磨く。
―――支援セクター 医療センター 通路
小野寺は歩く。
医療班の班長の歩き方は、迷いがない。
迷いがないのに、足音は立てない。
支援セクターは“根幹”だ。
根幹は目立ってはいけない。
だが、根幹は常に内側にいる。
内側だから、弱点にもなる。
入口ゲートの守衛が敬礼する。
敬礼の動きが、一拍だけ遅い。
遅さは疲労の遅さじゃない。
“何かが混ざった”遅さだ。
小野寺は立ち止まらない。
通路の角で、見慣れない作業着が視界に入る。
支援セクターの備品係に似ている。
似ているが、似方が薄い。
薄い似方は、借り物だ。
男はクリップボードを持っていない。
代わりに端末だけ。
手袋。指先が擦れている。
擦れは仕事の痕だ。
仕事の痕は、裏の匂いだ。
男が、守衛に短く言う。
「医療センターの資材、照合が通ってない」
燃えない言葉。
燃えない言葉ほど、深く刺せる。
守衛が困った顔をする。
困りは善意になる。
善意は、通行許可を出す。
“念のため”
その免罪符が、門を開く。
小野寺は通り過ぎながら、聞こえないくらいの声で言った。
「……手順どおりに」
言葉を強くしない。
強くすれば、核になる。
小野寺は、医療センター側の受付に入る前に、内線を一つ落とした。
短く。
事務の声で。
「支援S、照合担当の臨時を入れた覚えは?」
返りは、数秒遅れる。
遅れは、現場が詰まっている証拠だ。
“入れていない”
その一言で十分だった。
―――支援セクター 医療センター 第一処置室
夢は、海だった。
深海じゃない。
深海の“手前”。
赤くない。
だが、赤くなる予感だけがある。
“順番どおりに”
“なぜ出さないの”
“署名を”
言葉が波のように揺れる。
波が揺れるのに、海は静かだ。
静かな海ほど、沈む。
雪乃の瞼が少し動いた。
動いたのは覚醒じゃない。
外の音が、内側へ刺さったからだ。
「署名をお願いします」
声は丁寧すぎない。
丁寧すぎない丁寧さ。
燃えない刺し方。
雪乃は、目を開けない。
開けた瞬間、相手の勝ち筋になる。
代わりに、音だけ拾う。
紙が擦れる音。
ペンのキャップが外れる音。
手袋が擦れる音。
そして、匂い。
封緘。
接着剤。
消毒液に混ざる“現場の外の匂い”。
小野寺が先に答える。
声は医療班の声だ。
燃えない声。
「署名は責任者が行います」
「医療センターは手順があります」
「フォームへ」
「順番どおりに」
その言い方は、雪乃がいつも使う“逃げ道”に似ている。
だが違う。
この人は嫉妬も怒りも混ぜない。
純粋に、作法として言う。
男が一拍止まる。
止まるのは納得じゃない。
次の刺し方を探す間だ。
「丁寧ですね」
「……でも、なぜそこまで?」
なぜ。
問いが来た。
ここは医療センターだ。
本来、問う場所じゃない。
問う場所に変えようとしている。
雪乃の指先が、シーツの端を掴む。
拳じゃない。
折れないための支点だ。
小野寺が返す。
短く。
事務の声で。
「事故防止です」
「詳細は出しません」
「必要なら、手続きに落とします」
男は笑わない。
笑わないのに、呼吸が一度だけ乱れる。
乱れは癖だ。
癖は束にできる。
男は退く。
退き方が綺麗だ。
綺麗すぎない。
仕事の退き方。
雪乃は目を開けないまま、内側で一つだけ理解する。
――敵ではない。
――触媒だ。
――だが触媒は、もう“医療センターの門”に触れた。
門に触れたという事実だけで、状況は現物になった。
おそらく敵も、必死なのだろう。
完全な奇襲で実際に攻撃まで行ったというのに
だが、大佐は読んでいた。
それに、おそらく...
―――MoRS本部 幽世 中央指令室(大佐視点)
ストレッチャーの上の自分は、重い。
重い自分は、作戦に使えない。
使えない自分が、いちばん腹立たしい。
だが腹立たしさは判断を鈍らせる。
小野寺の報告が短く入る。
(医療回線ではない、支援の事務回線)
「搬入口から臨時の照合担当が入りました」
「署名と“なぜ”を繋げています」
「追い出しました。追っていません」
大佐の指が、シーツを一度だけ掴む。
掴むのは痛みの反射じゃない。
嫌悪の反射だ。
ここまで来た。
支援セクターの門まで。
確かに、支援セクターは一番セキュリティが緩い。
緩いと言っても、世界中どこよりも数段厳しいのだが
針崎の声が、遠い回線から落ちる。
上品なまま、冷たい作戦の声。
『大佐。窓口が近いですわ』
『近いからこそ、こちらが選べます』
『“回収導線”を詰まらせましょう』
大佐は低く返す。
嫌がる。露骨に。
『ダメだ。』
『支援セクターを舞台にするな』
針崎は否定しない。
だが、あえて述べた。
『支援セクターは舞台にしませんわ。』
『ですが、対処の必要性はありますわよね。』
大佐は強く否定する。
『ない。ないんだ。今回は』
『どういうことですか?』
『命令だ。対処はしなくていい。むしろここまで引きずりこめ』
針崎はすべてを察した。
大佐は何か、とんでもないことを考えているのだと。
『承知ですわ。普段通りですわね。』
『...ああ』
―――支援セクター 搬入口外(触媒視点)
彼は外に出た。
負けた気がしない。
勝った気もしない。
ただ、面倒が増えた。
面倒は嫌いだ。
携帯を出す。
短い送信。
「門:硬い」
「署名:不可」
「なぜ:刺さらず」
「相手:丁寧すぎない」
返りは薄い。
「ACK」
「OK」
「NEXT」
そして、余計な一息。
「CASE-9」
ケース番号が増えた。
増えたということは、窓口が記録し始めたということだ。
記録は顔を作る。
顔を作る仕事は面倒だ。
面倒は嫌いだ。
彼は、封緘テープの端を指で摘まむ。
剥がす。
剥がす癖。
癖を消したい。
だが消せない。
消そうとした瞬間、利き手が出る。
テープの端が僅かに裂ける。
裂けた端が落ちる。
彼は拾わない。
拾うのは手間だ。
手間は面倒だ。
その一片が、痕跡になることを、彼は知っている。
知っているが、気にしない。
プロは“少しの痕跡”を許容して段取りを回す。
段取りが回れば、今日が終わる。
終われば、匂いも消える。
―――支援セクター 医療センター 通路(小野寺視点)
床に、透明な一片。
消毒液の反射で光る。
小野寺は素手で触らない。
医療班は“事務の袋”を知っている。
袋の端で掬う。
掬うのは追跡じゃない。
清掃だ。
それでも、内側で思う。
――門まで来た。
――門まで来る相手は、ただの現場じゃない。
小野寺は袋を封じ、ラベルを貼る。
ラベルは顔じゃない。
番号だ。
番号は責任を作らない。
責任を作らない番号だけが、幽世に渡せる。
―――医療センター 第一処置室(雪乃視点)
雪乃の目が開く。
開いた瞬間、天井の白が刺さる。
小野寺が椅子を引いて座る。
座り方が落ち着いている。
落ち着きは余裕じゃない。
順番を守っているだけだ。
「……眠っていましたね」
雪乃は小さく頷く。
頷きは謝罪じゃない。
受領だ。
「大佐は?」
「生きています」
小野寺は淡々と言う。
「ただし、あなたも同じです」
「……私も?」
「しっかりと治療を受けてください。」
「それに...」
雪乃は胸の奥が少し冷える。
冷えは恐れじゃない。
理解の冷えだ。
「外に……臨時の照合担当が」
小野寺は頷く。
「追い出しました」
「追っていません」
追わない。
追わないで拾う。
それがMoRSの作法。
雪乃は一度だけ、秘匿回線を押す。
短く。
「ご主人様」
返りはすぐ来ない。
すぐ来ないのは遅延じゃない。
治療が順番を奪っているからだ。
それでも返りは来る。
短い。硬い。
『……無事か』
雪乃は短く答える。
「はい」
『門まで来た』
大佐の言葉は、確認だ。
怒りではない。
嫌悪の温度が混ざった確認。
雪乃は頷く。
「はい」
「でも、敵ではありません」
「触媒の布です」
大佐の返事が、少しだけ遅れる。
遅れは、嫌がる温度だ。
『……布で十分だ』
『敵には辿り着くな』
「承知しました」
触媒は、門まで来た。
それには何か思惑があった。
支援セクターは舞台にしない。
医療センターは炎にしない。
その上で、大佐は何かを探っている。
”おそらく”の先に続く真意が、この先の展開を進める。
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