第1話 常世の裏
この作品は全てフィクションです。
実在する人物・団体とは一切関係ありません。
作品のリアリティを重視している為、一部に現代日本において、実在する地名や制度、組織等の名称を使用しています。
6月1日 午前10時。
診察室の時計は、わずかに秒針の音を響かせていた。
窓の外では蝉の声が遠く、扇風機の首が一定のリズムで回る。
「最近、テレビの音をつけてないと落ち着かないんです。
無音だと、何かが忍び寄ってくる気がして……」
患者の青年は、うつむいたまま、声を絞り出すように言った。
白衣の男――臨床心理士として彼を診るその人物は、ノートを静かにめくる。
「“何か”が何かは、まだわからなくていいんです」
「気配を感じることと、それに飲まれることは違いますから」
青年がかすかに頷いた。
診察は、それだけで十分だった。
部屋の片隅で控えていた助手の少女が、スッと前に出て診療記録を引き継ぐ。
白髪に赤い瞳。病院の制服をきっちりと着たその姿には、どこか異質な整いがあった。
無駄のない動作。必要最小限の言葉。
そして表情は、柔らかく微笑んでいるのに、どこか無音のまま。
「雪乃さん、今日もありがとうございます」
青年がそう言うと、彼女はやや首を傾け、小さく「はい」とだけ返した。
患者が部屋を出ていったあと、静寂が戻る。
外では蝉が鳴き続けていた。
「……あの患者、もう三週目か」
「不安定さは増していますが、まだ破綻には至っていません」
雪乃の声は、先ほどよりもわずかに低い。
今のそれは、“助手”ではなく、“副官”のものだった。
「少し気になる動きがあります」
彼女はポケットから小さな端末を取り出し、机の上に置いた。
表示されたのは、匿名掲示板のログと、それに付随するSNSトレンド解析図。
「財務省の内部文書とされる情報が拡散中です。
捏造の可能性が高いですが、このまま流れが定着すれば、市場に実害が出るかと」
「確認済みか?」
「はい。経済波及シミュレーションでは、三日後に投機パニックの予測が出ています」
「ただし今なら、まだ“自然拡散”の域です。軌道修正が可能です」
診察室の空気が、わずかに変わった。
先生――否、大佐は、カルテを静かに伏せ、視線を雪乃へ向けた。
「夜の帳、限定展開。世論操作班を動かせ」
「了解しました。調律プロトコル、フェーズαに移行します」
雪乃はそれだけを言い、静かに診療デスクの隅へ戻った。
その所作は、どこまでも優秀な助手そのもの。
だがその背に纏う空気には、すでに作戦中の冷たさが微かに滲んでいた。
外では何も起きていないように見える。
患者たちは帰路につき、日常がまた繰り返されていく。
だが、誰も知らない。
世界が、ほんの少しだけ傾きかけていたことを。
そして、それを整えている者たちが、すぐ傍にいるということを。
──EIRENE:接続確認。調律開始。