発達障害者の日誌70
退屈なのは出来る範囲のことを出来ないですませてしまうこと。むしろ選択の幅を狭めるからこそできることも増えるという形もあるはずなのに、当事者であるから挑む事を諦めてしまうような部分というのもあってそれがそのままになる形は退屈だ。発奮させるのではなく共同で何か一つの事ができるならそれだけで世界も変わるし、変化ももたらす。
正直な話、責任というベクトルで見方を見るのであれば最終的に障害という肩書をもつひとに集中しちゃうのよね。弱音を吐いてもいいけど吐けない現実を勝手につくられる、はっきりいうから黙る事をしらないとみられる。そういう現状をどうにかしないとっていったひとらが結局囲い込んで一定の価値観で話すというのが現実にある。僕も別に意味合いとしては労働する普通のひとというイメージで放った言葉が別の言葉に響き通じないんだなあと感じた事もある。ネットなんてのは最たるもので、自身の正義を投影しやすいので、異物と認識したら攻撃するというイメージがないままこの言葉こそ真実だという風に言いやすくもある。僕からしてみたらどちらも価値観が同一であることのほうが気持ち悪いので、それが正しいか間違いかなんて興味はなくアナタ方が満足すればいんじゃないのってかんじ。きちんと言おうとして連投したらあせってるとおもわれて面白くなかったから話すのはやめた。これも固定観念なんだろうけど、風俗の事や労働や自身の障害の事を言われてフラットにしてよとか自分の正当性を言うのならば最初からそんな風な事を投げかけなくてもよくないかと思うんだが、それもある種の差別に値すると僕個人も思うので深くは言わないが、認知してほしいがための行動であるならばそれでいいけれど、自分の意図しない事を言われてその価値観は悪だと皆を味方につける行為はスマートではないなと感じてはしまう。僕は発達障害者が人間になりきれないとか頭おかしいとかいわれても別に調べるだけの労力も知恵も働くほどの価値がないんだなとそのひとは考えているだけであって、正直な話同一に受容するのは無理な話で、その価値観にどうよりそうかが大事なんじゃないのってはなし。やり方や行動が制限されたり言葉が制限されるなら、そのなかで制限されたなかでの自由になる方法、伝達する方法を考えればいいだけの話だし、自分の正当性が絶対的に正しいと思えるひとであれば顔出しも平然とできるだろうとか、極論として感じてしまうけれども。
そう感じるなら感じるままに自分の味方や合う人と合わせればいいような気もします。僕個人も思想や形や職業についてのことやら差別については不勉強ですからね。個人的には言われてもそんなもんだと公表してるんでなんともないですが、他のひとはそうは思いませんのでそういう時はあんまし言わない方がいいかもですね。




