1話 忍び立つ嵐の夜と、二つの月
深夜のベランダは、暴風雨の咆哮に包まれていた。
「ククク……刮目せよ! 天が泣き、地が濡れるこの狂宴こそ、我が解き放ちし真・水遁の極意に相応しい舞台……っ!」
激しい雨でずぶ濡れになりながら、俺は佐藤勝(42歳・社畜サラリーマン)。手に持ったビニール傘をズタズタに引き裂かれつつも、必死に指を交差させて印を結んでいた。
仕事に追われ、会社と家を往復するだけの荒んだ日常。だが俺の心には、十代の頃からくすぶり続ける「忍者」への苛烈な憧れがあった。台風の夜にベランダへ躍り出たのは、長年密かに磨き上げてきた(と信じ込んでいる)忍術の真似事を試すためだ。
四十路を過ぎてすっかりたるみきった腹に力を込め、膝をガクガクと震わせながら渾身の決めポーズをとる。雨水でぬめりつく前髪をかき上げ、自分自身に深く酔いしれていた。
しかしその時。
ミシッ……バリバリバリッ!
頭上から、風切り音を破って凄まじい木裂音が響き渡る。
「あ、え……ちょっと待っ!」
見上げれば、強風に耐えかねた街路樹の巨木が、スローモーションのように真上から倒れてくるところだった。
結んだ印を解除する暇も、長年連れ添ったメタボな身体を翻す余裕もない。
ガァァンッ!!
鈍い衝撃と、自分の骨が押し潰される嫌な感触。
四十路の社畜サラリーマンが背負ってきた惨めな生活も、こじらせ続けた邪気眼的な妄想も、すべては圧倒的な物理重量の前になすすべなく押し潰され、俺の意識は泥のような闇へと沈んでいった。
◇
「……ん……?」
ふと目が覚めると、全身を包むあまりの軽さに違和感を覚えた。
長年苦しめられていた五十肩の重みも、慢性的な腰痛も跡形もなく消えている。
起き上がって周囲を見渡すと、そこは見たこともない鬱蒼とした森林だった。頭上からは眩しい光が差し込んでいる。だが、その光の源を見上げた俺は息をのんだ。
天に浮かんでいたのは、一つではなかった。
紫色の巨大な月と、青く輝く小さな月。二つの月が昼間の青空にうっすらと並び、見たこともない巨大な鳥のような生物が、巨大な翼を広げて雲の合間を優然と羽ばたいている。樹木も地球のそれとは明らかに異なり、幹が蛍光色の苔で怪しく発光していた。
(な……なんだここ……!? 日本の森じゃない……というか、地球ですらないぞ……!?)
呆然と立ち尽くしながら近くの小川へ駆け寄り、水面に映る己の姿を覗き込んだ。
「は……? 誰だこれ!?」
そこに映っていたのは、たるんだお腹も薄くなりかけた頭髪もない、引き締まった14歳ほどの少年の姿だった。
さらに驚いたのは匂いだ。長年染みついていた加齢臭やタバコ臭、湿布の混ざった酷い体臭が見事に綺麗さっぱり消え去り、若々しく爽やかな風が鼻腔をくすぐる。
現実離れした光景に混乱する俺の視界の端で、不意に淡い青色の光が弾けた。透明なウィンドウが半空に浮かび上がる。
【名前】マサル(14)
【職業】忍者
【LV】1
【HP】30/30
【MP】20/20
【スキル】息潜め(微弱)
「に……忍!? ていうか、まさか俺……異世界に転移したのかーーー!?」
二つの月、異形の原生林、そしてステータス画面。間違いなかった。
夢にまで見た忍者。四十路のおじさんが異世界へ転移し、憧れ続けた存在として第二の人生を得たのだ。
しかし、冷静になって表示されたステータスを見つめ直す。
「レベル1……スキルは『息潜め(微弱)』だけか」
試しに「息潜め」を発動してみると、かすかに自分の存在感が薄れるような感覚があったが、気休め程度だ。この未知なる異世界の森では、野生の魔物一頭に襲われても命はないだろう。
「だが……ここからだ」
少年となった俺は、落ちていた頑丈な木の枝を拾い上げ、握りしめた。
かつて社畜として虚しく時間を磨り減らしていた自分はもういない。倒れてきた木の下敷きになったあの日、俺の不遇な過去は死んだのだ。
「目指すは、闇に潜み暗躍する最強の忍者……! 俺の異世界忍道、ここから始まる!」
胸に燃え上がる疾風迅雷の志を抱き、俺は未知なる異世界の森へと最初の一歩を踏み出した。




