EP 2
公爵様の強制『オフ』スイッチと、お忍びの慰安旅行
「……はっ!?」
ふかふかのベッドの上で、私は勢いよく跳ね起きた。
窓の外を見ると、すでに太陽は高く昇り、小鳥がチュンチュンと優雅な歌声を響かせている。爽やかな朝だ。
「し、しまったぁぁぁっ! 私、昨日のリーザちゃんの騒動のあと、屋上で気を失って……! 第七倉庫の決裁印がまだ終わってないのに!」
前世で刻み込まれた社畜の悲しき本能が、私の身体を弾かれたように動かした。
急いで私室のクローゼットから予備の作業用オーバーオールを引っ張り出し、髪を適当にシュシュでまとめると、私は文字通り廊下を猛ダッシュして特別執務室へと向かった。
バンッ!
「申し訳ありません! 寝坊しました! すぐに未処理のタスクを――」
執務室に飛び込んだ私の声は、途中でピタリと止まった。
重厚なマホガニーのデスク。
そこに座っていたのは、私ではなく……漆黒の軍服を着崩し、涼しげな顔で書類に目を通しているジルヴェスター様だった。
それだけではない。
私の大切な商売道具である魔導タブレット、決裁用のスタンプ、そして未決裁の書類の山が、すべて一つの大きな木箱の中に綺麗に梱包され、南京錠までかけられていたのだ。
「公、公爵様!? な……何をされているのですか!?」
私が目を白黒させながら問い詰めると、ジルヴェスター様は書類から顔を上げ、深い蒼の瞳で私を真っ直ぐに見つめた。
「君の仕事道具を、物理的に没収しているところだ」
「ぼ、没収!? 困ります! 私が決裁を下さなければ、王都の新しい物流網がストップしてしまいますわ!」
私が慌てて南京錠のかかった木箱に手を伸ばそうとすると、ジルヴェスター様はスッと立ち上がり、私の手首を優しく、けれど絶対に逆らえない力で掴んだ。
「ストップなどしない。君が倒れている間に、私が内務省の優秀な文官たちを叩き起こし、君の作ったマニュアル通りに業務を割り振っておいた。……彼らもプロだ。君が三日ほどいなくても、現場は完璧に回るように手配してある」
「え……?」
私はポカンと口を開けた。
王都の経済を立て直すための複雑なロジスティクスを、たった一晩で文官たちに理解させ、引き継ぎを完了させたというのだろうか。
圧倒的な有能さ。ルナミス帝国全軍の総司令官であり、筆頭公爵であるこのお方の『実務能力』もまた、規格外なのだと思い知らされる。
「ですが、私は最高実務顧問です! 現場を離れるわけには……」
「ナツコ」
ジルヴェスター様は、私の手首を引いて自分の方へと引き寄せた。
驚くほど近い距離。微かに香る、彼特有の清廉な珈琲の香りに、心臓がドキンと跳ねる。
「倒れるまで仕事をするのは、有能な実務家のすることではない。人間は機械ではないのだ。……オンとオフの切り替えができない者は、いずれ取り返しのつかないミスを犯す。違うか?」
「うっ……」
理路整然とした正論。前世のブラック企業で散々すり減ってきた私だからこそ、その言葉の重みと正しさが痛いほど分かる。
「それに……」
ジルヴェスター様は少しだけ眉を下げ、私の目元を指先でそっと撫でた。
「愛する女性が、目の下に酷いクマを作って倒れる姿など、二度と見たくない。……これは、私の我儘だ」
「ジルヴェスター様……」
合理主義の極みのような正論の後に、反則的なまでに甘く、情に厚い言葉。
こんな風に言われてしまえば、社畜の意地など一瞬で溶けてなくなってしまう。
「さあ、着替えを済ませなさい。君の『オフ』のスイッチは、私が強制的に入れさせてもらう」
ジルヴェスター様は満足げに微笑み、私の背中をポンと押した。
「今から、ポポロ山へ行く。お忍びの慰安旅行だ」
「い、慰安旅行ですか!?」
「ああ。聞くところによると、今の時期のポポロ山には、秋の味覚の王様『マサカ茸』が自生しているらしいからな。美味しいものを食べて、温泉に浸かって、存分に英気を養うといい」
私が呆然としている間に、ジルヴェスター様はトントン拍子で段取りを進めていく。
マイペースで、自分の決めたことは絶対に曲げない強引さがあるのに、その裏には『私を休ませるための完璧な手回し』が張り巡らされている。
……本当に、この人には一生敵わないかもしれない。
◇
一時間後。
王都から国境のポポロ村へと向かう、公爵家のお忍び用大型魔導馬車の車内は、とんでもない喧騒に包まれていた。
「ヒャッハァーッ! 公爵の旦那のおごりでバカンスだぜ! ポポロ山でマサカ茸を大量に採って、王都で売り捌けば大儲け間違いなしだ!」
私服姿のフェイトが、窓から身を乗り出してポポロ・シガレットを吹かしながら大はしゃぎしている。
「フェイト! 馬車の中で暴れるな! 公爵閣下とナツコ様の御前であるぞ!」
マンミアさんがフェイトの首根っこを掴んで引き戻す。彼女も今日は鎧ではなく、動きやすい登山用の軽装だ。
「ふふん! マサカ茸狩り! アイドルにとって、季節のグルメレポートは必須スキルですの! 私の可愛いジャージ姿で、山のキノコたちもメロメロにしてやりますわ!」
昨日の騒動でこってり絞られたはずのリーザちゃんも、お馴染みの芋ジャージ姿で全く懲りた様子もなくピースサインを決めている。
「もう……みんな、遠足気分の小学生みたいなんだから」
私は苦笑しながら、持参した水筒の陽薬草茶をコップに注いだ。
ふと隣を見ると、ジルヴェスター様が目を閉じて、静かに腕を組んでいた。
軍服ではなく、上質な生地で仕立てられた狩猟用のコートとシャツという、ラフでありながら洗練された装い。その完璧な横顔は、絵画のように美しい。
「……うるさくて申し訳ありません、ジルヴェスター様。せっかくのお忍び旅行なのに、騒々しい部下たちまで巻き込んでしまって」
私が小声で謝罪すると、彼はゆっくりと目を開け、柔らかな笑みを浮かべた。
「構わない。私一人では、君にどう『息抜き』をさせてやればいいか、正直分からなかったからな。君が気心の知れた者たちと笑い合っている姿を見るのが、私にとっても一番の癒しだ」
ジルヴェスター様はそう言うと、私の手からお茶のコップをそっと受け取り、私の肩に軽く自分の肩を寄せてきた。
馬車が揺れるたびに、彼の逞しい体温が伝わってくる。
(あぁ……なんだか、すごく安心する……)
常に「私がやらなきゃ」「効率的に回さなきゃ」と気を張っていた心が、彼の圧倒的な包容力とマイペースな空気に巻き込まれ、じんわりと解れていくのを感じる。
『マサカ茸』。
ポポロ山に自生するというそのキノコは、あの松茸と同等の極上の香りと旨味を持つらしいが……食べると「まさか……」と思い込み、謎の推理力が当社比0.5倍増しになったような錯覚に陥る(つまり、少しボケる)という、不思議な副作用があるという。
過労死令嬢と、完璧超人な公爵様。
そしてポンコツな仲間たちによる、秋の味覚狩りバカンス。
このポポロ山での慰安旅行が、あんなとんでもない『大事件(と天然ボケ)』に発展するとは、この時の私はまだ知る由もなかったのである。
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