第四十四話 戻りゆく日常
野外合宿から、数日が経った。
フィオレイン王立魔法学園では、すでに通常通りの授業が再開されている。
けれど――。
野外合宿で起きた出来事は、生徒たちの間でも大きな噂になっていた。
「聞きました? 野外合宿でカイン殿下が行方不明になったって」
「森の中で見つかったらしいわよ」
「それだけじゃないみたい。ナイルさんがルルシル様に毎日手紙を送っていたって……」
「それって本当なの?」
廊下を歩けば、そんな声が聞こえてくる。
誰もが小声で話しているつもりなのだろう。
けれど、静かな廊下では、その声は思いのほかよく響いていた。
ルルシルは聞こえてくる噂に反応することなく、教室へ向かって歩いていた。
自分のことを話されている。
それでも、気にすることはなかった。
ナイルについては、学園から「療養のため、しばらく休む」とだけ生徒たちへ伝えられている。
けれど、実際には違った。
穢れ石を使って人を害そうとしたこと。
そして、その結果として王太子であるカインを危険に晒したこと。
その責任を問われ、学園と王族の判断によって停学処分を受けている。
ただ、その事実を知っている生徒はほとんどいない。
ルルシルも、その詳しい処分については口外しないよう言われていた。
ルルシルはそんなことを考えながら、教室へ入った。
いつものように席へ着く。
周囲では、まだ野外合宿の話をしている生徒もいた。
けれど、授業が始まれば、少しずついつもの空気へ戻っていく。
教師が教室へ入り、授業が始まる。
黒板へ書かれていく文字を眺めながら、ルルシルは静かにノートを取った。
事件が起きたからといって、学園の日常まで止まるわけではない。
それは少し不思議な感覚だった。
あれほど大きな出来事があったのに、こうしていつも通り授業を受けている。
けれど、それが少しずつ日常へ戻っていくということなのかもしれない。
◇◇◇
昼休み。
ルルシルはイザベルと一緒に、中庭のベンチで昼食を取っていた。
春の柔らかな風が吹き抜け、木々の葉がさらさらと揺れている。
「今回のこと……本当に大変でしたわね」
イザベルが小さく息を吐いた。
「えぇ」
ルルシルも頷く。
「まさか、あんなことになるなんて思わなかったわ」
「殿下がご無事だったのは、本当に良かったですわね」
「そうね」
ルルシルは頷いた。
あの夜の森を思い出す。
苦しんでいた精霊。
穢れ石。
そして、姿を消した謎の男。
まだ分からないことは多い。
けれど、学園は少しずついつもの日常へ戻り始めていた。
「そういえば……ナイルさん、しばらくお休みされるそうですわね」
イザベルが声を落とす。
「えぇ。そう聞いているわ」
「療養のため、という話でしたわね」
「そうね」
ルルシルは静かに答えた。
実際には、療養だけが理由ではない。
穢れ石を使い、人を害そうとしたこと。
そして、その結果としてカインを危険に晒したこと。
それは決して軽いことではなかった。
けれど、その事情を学園が公にするつもりはない。
王族が関わる事件でもある。
余計な混乱を避けるためにも、表向きには療養ということになっている。
「廊下を歩いていると、ナイルさんのことを話している生徒も多いですわね」
イザベルが言う。
ルルシルも小さく頷いた。
「えぇ」
中には、事実とは違う話まで混ざっていた。
「それにしても……」
イザベルが少し困ったように眉を寄せる。
「皆さん、ずいぶん好き勝手に話していますわね」
「……そうね」
ルルシルは苦笑した。
「私のことなら、別に気にしないけれど」
「ルルシル……」
「でも、ナイルさんのことまで面白半分に話すのは、少し違うと思うわ」
ルルシルは手元のカップへ視線を落とした。
「もちろん、したことが許されるわけではないけれど……」
ナイルがルルシルへ手紙を送り続けたこと。
穢れ石を探し、カインを傷つけようとしたこと。
それが間違った行動だったことは、ルルシル自身も分かっている。
「本人がもう十分に苦しんでいるのに、周りが面白がって傷つける必要はないと思うの」
「……ルルシルらしいですわね」
イザベルが小さく笑う。
「そうかしら?」
「えぇ」
イザベルは紅茶を一口飲む。
「ですが、わたくしも同じ気持ちですわ。事情も知らずに、人を決めつけるのは好きではありませんもの」
「うん」
ルルシルも頷いた。
「ただ、今はナイルさん自身が落ち着いて過ごせることが一番だと思うわ」
「そうですわね」
二人はそれ以上、ナイルの話を続けなかった。
春の風が二人の間を通り抜ける。
しばらくすると、イザベルが別の話題を口にした。
「そういえば、次の課題はもう確認されまして?」
「まだよ。午後に図書室へ行って調べようと思っているの」
「相変わらず真面目ですわね」
「イザベルだって一緒でしょう?」
「それはそうですけれど」
二人は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
野外合宿で起きた出来事は大きかった。
けれど、こうして友人と他愛のない話をしていると、少しずつ日常が戻ってきているのを感じる。
ルルシルは、穏やかな午後の時間を静かに過ごしていた。
◇◇◇
午後の授業が終わったあと。
ルルシルは一人で図書室へ向かっていた。
次の課題に必要な資料を探すためだった。
廊下を歩き、図書室の前まで来る。
重い扉を開けると、静かな空気が広がっていた。
高い本棚がいくつも並び、窓から差し込む午後の日差しが床へ細長く落ちている。
昼間だというのに、図書室の中はひっそりとしていた。
――けれど、その静けさの中には、微かな気配が混じっていた。
『ルルシルだー』
『ルルシル来たよー』
『本探すのー?』
小さな声が、空気の隙間からこぼれるように響く。
下級精霊たちが、本棚の影や机の上にふわふわと集まっていた。
ルルシルは少しだけ目を細める。
「えぇ。課題の本を探しているの」
『どれー?』
『これー?』
精霊たちは嬉しそうに周囲を飛び回り、背表紙を指さしたり、本の間に潜り込んだりしている。
『それは違うよー』
『こっちこっちー』
『ルルシル、こっちの棚ー』
まるで案内係のように騒がしい。
ルルシルは小さく微笑みながら、本棚へ手を伸ばした。
「……これかしら」
目的の本へ手を伸ばした、その背後から人の気配がした。
ルルシルが振り返る。
そこには、アルクスレイブンが立っていた。
「……ゼイン様」
「ヴェリテ嬢」
二人の視線が合う。
以前なら、ただそれだけで終わっていた。
けれど、野外合宿で一緒に行動したことで、今は少しだけ違う。
二人は自然に、互いへ軽く会釈をした。
「ごきげんよう」
「ああ」
短い挨拶。
『変わりないな』
レグロナグラが静かに尻尾を揺らす。
その瞬間――。
『わっ、尻尾だー!』
『ふわふわしてるー!』
『つかまるー!』
どこからともなく下級精霊たちが一斉に集まり、レグロナグラの尻尾へとじゃれついた。
尻尾にぶら下がるように掴まる者、ふわふわと揺れに合わせて跳ねる者。
まるで遊具のようになっている。
「……重くないのか?」
アルクスレイブンがわずかに目を細める。
『問題ない』
レグロナグラは淡々と答えながらも、尻尾をわずかに揺らして精霊たちの遊びに付き合っていた。
ルルシルはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細める。
「相変わらず、人気ですね」
小さくそう言うと、レグロナグラは一度だけ尻尾を揺らした。
『騒がしいだけだ』
だが、その声はどこか穏やかだった。
アルクスレイブンはそのまま本棚へ向かい、ルルシルも手元の本へ視線を戻した。
しばらくして、アルクスレイブンが一冊の本を手に取る。
「では、失礼する」
アルクスレイブンは軽く会釈をして、図書室を出ようと扉へ向かった。
「はい」
ルルシルも小さく頷いた。
再び、図書室に静けさが戻った。
先ほどまでとは違い、どこか柔らかな気配が残っている。
ルルシルは手にした本へ視線を戻す。
けれど――。
なぜか、先ほどアルクスレイブンが立っていた場所が気になった。
「……不思議ですね」
小さく呟く。
野外合宿を境に、何かが少しだけ変わった気がする。
今のルルシルには、まだその変化が何か分からなかった。
ルルシルは小さく首を傾げると、再び本へ視線を落とした。




