第三十五話 目覚めの朝
翌朝。
屋敷は静かな朝の気配に包まれていた。高い窓から差し込む柔らかな光が廊下の大理石を淡く照らし、遠くでは使用人たちの控えめな足音と、食器の触れ合う小さな音だけが響いている。庭では朝露を含んだ草木が風に揺れ、鳥たちのさえずりが穏やかに流れていた。
レースのカーテン越しに朝の陽射しが差し込み、ルルシルの部屋を優しく照らしている。
サラは静かにカーテンを開けると、ベッドへ目を向けた。
「おはようございます、ルルシル様」
いつもなら、その声にゆっくりと瞼を開けるはずだった。
しかし今日も返事はない。
サラは眠るルルシルの額へそっと手を添える。
「……まだ、お目覚めになりませんか」
熱はない。
苦しそうな様子もない。
ただ、穏やかな寝息を立てながら眠り続けているだけだった。
濡らした布で額を優しく拭き、乱れた銀色の髪を丁寧に整える。
「皆様、とても心配していらっしゃいますよ」
小さく呟いても、返事はない。
その時、控えめなノックが部屋に響いた。
「入るぞ」
クレイスだった。
サラは一礼する。
「おはようございます、お坊ちゃま」
「ああ」
クレイスはベッドの傍らまで歩み寄り、眠る妹を見つめる。
「……まだ目覚めないか」
「はい。昨夜と変わらず、ぐっすりと眠っておられます」
クレイスは静かに息をついた。
「せめて、目を開けてくれればな」
その眼差しには、兄としての心配が滲んでいた。
再び扉がノックされる。
サラが扉を開けると、そこには車椅子に腰掛けたエリザと、その後ろで車椅子を押す侍女ミレイの姿があった。
「お母様」
クレイスが静かに頭を下げる。
エリザは眠るルルシルを優しく見つめる。
「……この子を、精霊の森へ連れて行きましょう」
静かな部屋に、その言葉が穏やかに響いた。
誰も異論はなかった。
クレイスはそっとルルシルを抱き上げる。
その時、サラが一枚の白いストールを手に歩み寄った。
「お坊ちゃま、こちらを」
「ああ、頼む」
サラはストールを眠るルルシルの肩へそっと羽織らせる。
そしてしゃがみ込み、ルルシルの足へ丁寧に靴を履かせた。
「これで大丈夫です」
「ありがとう」
クレイスが短く礼を言うと、一行は部屋を後にした。
ミレイがエリザの車椅子を押し、中庭へ向かう。
朝の澄んだ空気が頬を撫で、庭木の葉が心地よい風に揺れていた。
中庭へ出ると、クレイスは静かに名を呼ぶ。
「アルディオン」
その声に応えるように、一陣の風が中庭を吹き抜けた。
風は渦を巻きながら一か所へ集まり、やがて一頭の美しい風馬が姿を現す。
白銀のたてがみをなびかせた高位精霊――アルディオンだった。
アルディオンはエリザの前まで歩み寄り、ゆっくりと身体を低くする。
『久しいな、エリザ』
「ええ。久しぶりね、アルディオン」
エリザは懐かしそうに微笑む。
ミレイに支えられながら、エリザはゆっくりとアルディオンの背へ乗った。
「ミレイ、あとはお願いね」
「かしこまりました」
ミレイは深く一礼し、その場を下がる。
クレイスは右手の人差し指にはめた指輪へ視線を落とした。
青い魔石が朝日に照らされ、淡く輝く。
「アルディオン、力を貸してくれ」
『承知した』
アルディオンの身体を包む風がゆっくりと魔石へ流れ込み、青い光が静かに満ちていく。
クレイスはルルシルを抱えたまま魔力を練り上げる。
足元へ青白い魔法陣が広がり、三人を柔らかな光が包み込んだ。
景色がゆらりと揺らぐ。
次の瞬間、三人の姿は中庭から静かに消えていた。
◇◇◇
三人は精霊の森の入口へと降り立っていた。
澄み切った空気が頬を優しく撫でる。
木々の葉は朝日に照らされて淡く輝き、木漏れ日が森の小道へと降り注いでいた。
小鳥たちのさえずりが心地よく響き、朝露をまとった草花が風に揺れる。
以前、魔物の穢れによって重苦しい空気に包まれていた森とは打って変わり、そこには本来の穏やかで優しい精霊の森が広がっていた。
エリザはゆっくりと森を見渡し、懐かしそうに微笑む。
「変わらないわね……」
『エリザが森に来るのは、久しいな』
アルディオンが静かに応えた。
クレイスは眠るルルシルを抱え直し、一歩、森の中へ足を踏み入れる。
その瞬間、木々の隙間から小さな光がふわりと舞い上がった。
ひとつ、またひとつと光は増え、あっという間に数え切れないほどの精霊たちが姿を現す。
ルルシルの周りへ集まり、嬉しそうに飛び回る精霊。
心配そうに寝顔を覗き込む精霊。
エリザやクレイスの周りをくるくると舞う精霊。
それぞれが思い思いに歓迎しているようだった。
やがて数体の精霊が森の奥へ飛んでいき、少し進んでは振り返る。
また少し進んでは、こちらを見つめる。
その愛らしい仕草に、エリザは思わず口元を綻ばせた。
「ふふ……可愛らしいわ」
精霊たちは嬉しそうにくるくると舞い続ける。
「私たちを案内してくれようとしているのね」
クレイスも穏やかな表情で頷いた。
「そのようですね」
待ちきれないと言わんばかりに、精霊たちは再び森の奥へ飛び、振り返っては三人を見つめる。
その姿に導かれるように、クレイスたちはゆっくりと歩き始めた。
木漏れ日の中を進むたび、精霊たちは次々と仲間を呼び、森は喜びに満ちた空気に包まれていく。
やがて視界が大きく開けた。
そこには、空へ届くほどの巨大な一本の樹が静かに佇んでいた。
幹は幾重もの年月を重ねた威厳を湛え、青々と茂る枝葉は大きく広がり、森全体を優しく見守るように揺れている。
精霊たちは一斉にその大樹の周りへ集まり、嬉しそうに舞い始めた。
エリザは思わず呟く。
「ルシェルネオルネス様……」
十六年ぶりの再会を迎えようとしていた。
◇◇◇
守護樹の枝葉が、さらさらと優しい音を奏でる。
森を吹き抜けた風は、どこか懐かしさを運んでくるようだった。
やがて、太く根を張る幹がゆっくりと脈打つように揺らぐ。
その幹から伸びた一部が、人の上半身を思わせる姿へと形を変えていく。
草木のように長く流れる髪。
樹皮を思わせる肌。
大樹と一体となったその姿は、人ではなく、この森そのものだった。
ルシェルネオルネスは慈愛に満ちた眼差しをエリザへ向け、穏やかに微笑む。
『お久しぶりです、エリザ』
その声は、風が木々を揺らす音と重なり合うように森へ響いた。
エリザは静かに頭を下げる。
「お久しぶりです、ルシェルネオルネス様」
『こうして再び、あなたにお会いできたことを嬉しく思います』
「私もです」
エリザは穏やかに微笑み返した。
「本当はもっと早くご挨拶に伺いたかったのですが……」
そう言って、自身の足へ視線を落とす。
「身体が思うように動かず、叶いませんでした」
ルシェルネオルネスは静かに首を横へ振る。
『あなたが再びこの森へ足を運んでくださった。それだけで十分です』
その言葉に、エリザはほっとしたように表情を和らげた。
「ありがとうございます」
そして、眠るルルシルへ優しく視線を向ける。
「今日は、この子をお願いしたく参りました」
ルシェルネオルネスの瞳もまた、静かにルルシルへと向けられた。
『……可愛い子』
慈しみに満ちた声が、森へ静かに響く。
『また一人で、抱え込んでしまったのですね』
枝葉が優しく揺れ、まるで赤子をあやすように木漏れ日がルルシルを包み込む。
『誰かを想うその優しさは、何よりも尊いものです』
『ですが……その優しさで、自らを傷つけてはなりません』
ルシェルネオルネスはゆっくりとクレイスへ視線を向けた。
『その子を、こちらへ』
クレイスは静かに頷き、守護樹の根元へ歩み寄る。
眠るルルシルを傷つけないよう、柔らかな草の上へそっと横たえた。
ルシェルネオルネスはルルシルを見つめ、穏やかに微笑む。
『さあ、可愛い子』
『もう十分、お眠りになったでしょう』
大樹の枝葉がさらさらと揺れ、森中の精霊たちが静かに息を潜める。
ルシェルネオルネスはゆっくりと手を伸ばし、ルルシルの頬へ優しく触れた。
温かなぬくもりが、ルルシルの頬へと伝わる。
その瞬間、大樹の枝葉がさらさらと優しく揺れた。
吹き抜ける風はどこまでも穏やかで、木漏れ日が眠るルルシルを包み込む。
森中の精霊たちは舞うのをやめ、固唾をのんで見守っていた。
ルシェルネオルネスは慈しむように微笑む。
『可愛い子』
『もう、目を覚ましてもよい頃ですよ』
その穏やかな声は、母が我が子へ語りかけるように優しかった。
頬へ添えられた手から、温かな力がゆっくりと伝わっていく。
すると、ルルシルの指先がぴくりと小さく動いた。
精霊たちの表情がぱっと明るくなる。
それでも誰一人として声を上げることはない。
ルルシルが目を覚ます、その瞬間を静かに待っていた。
やがて、長い銀色のまつ毛がかすかに震える。
閉じられていた瞼がゆっくりと開き、淡い紫色の瞳がぼんやりと空を映した。
「…………」
意識が少しずつ戻ってくる。
耳に届くのは、葉擦れの音と小鳥たちのさえずり。
頬を撫でる懐かしい風。
目の前には、大きく枝を広げた守護樹の姿があった。
ゆっくりと視線を上げると、優しく見つめるルシェルネオルネスと目が合う。
ルルシルは何度か瞬きを繰り返し、小さく息を呑んだ。
「……ルシェルネオルネス様?」
その声を聞いた瞬間、精霊たちは一斉に嬉しそうに舞い始める。
森中に祝福するような光があふれ、枝葉がさらさらと喜びを奏でた。
ルシェルネオルネスは穏やかに目を細める。
『おはようございます、可愛い子』
ルルシルはゆっくりと上半身を起こした。
まだ霞がかかったような意識のまま、何度か瞬きを繰り返す。
目の前に広がるのは見慣れた精霊の森。
優しく揺れる木々。
穏やかな風。
そして、自分を囲むように集まった精霊たち。
その姿を認めた瞬間、周囲の精霊たちが一斉にざわめいた。
小さな光の粒がふわりと弾けるように舞い上がり、嬉しそうに跳ねる者、ルルシルの周りをくるくると回る者、安堵したように胸元へ寄り添う者もいる。
『……よかった』
『目を覚ました』
『ルルシルだ』
声なき声が重なり合い、森全体がほっと息をついたように柔らかく揺れた。
まるで長い眠りから大切な存在が帰ってきたことを、心から喜んでいるかのように。
「ここは……」
小さく呟きながら辺りを見回す。
視界の端に大きな白銀の鬣が映り、ルルシルはゆっくりと顔を向けた。
「アルディオン……?」
その隣にはクレイスの姿。
さらに支えられながらこちらへ歩いてくるエリザが見えた。
驚いたように紫色の瞳が揺れる。
「……お母様?」
その声を聞いたエリザは、ほっとしたように微笑んだ。
「おはよう、ルルシル」
懐かしく、優しい声。
その一言を聞いた瞬間、張りつめていた心がふっとほどける。
「……お母様」
クレイスも安堵したように小さく息をついた。
「ようやく目を覚ましたな」
「……お兄様」
二人の姿を見つめながら、ルルシルは少しずつ記憶を辿っていく。
穢れに蝕まれた森。
苦しむ精霊たち。
精霊魔法を使い続けたこと。
そして、急速に遠のいていった意識――。
「あ……」
全てを思い出したルルシルは、申し訳なさそうに俯いた。
「私……皆様に、ご心配をおかけしてしまいました」
『謝る必要はありません』
穏やかな声が森へ静かに響く。
ルルシルはゆっくりと顔を上げ、ルシェルネオルネスを見つめた。
慈愛に満ちた眼差しは、まるで我が子を見守る母のように優しい。
『可愛い子は、誰かを救いたい一心で、その身に宿る精霊力をほとんど使い果たしてしまいました』
ルルシルは胸元へそっと手を添える。
確かに身体には力が入らない。
魔力も精霊力も、空になってしまったような感覚だった。
「ですが……私は、どうして目を覚ますことができたのですか」
その問いに、ルシェルネオルネスは穏やかに微笑む。
『可愛い子の中には、ごくわずかですが精霊力が残っていました』
『私はその小さな精霊力へ、そっと呼びかけただけです』
大樹の枝葉がさらさらと揺れ、柔らかな木漏れ日がルルシルを包み込む。
『眠っていた精霊力は、可愛い子の声に応えるように再び巡り始めました』
『だからこそ、可愛い子は目を覚ますことができたのです』
ルルシルは静かに胸へ手を当てる。
心の奥に残る温かなぬくもり。
それが、ルシェルネオルネスの呼びかけだったのだと理解した。
『命を繋ぎ止めたのは私ではありません』
『可愛い子自身が持つ命の力です』
『私は、その小さな灯火が消えぬよう、風を送ったに過ぎません』
ルルシルはルシェルネオルネスを見上げる。
その瞳には、深い感謝の色が宿っていた。
「……ありがとうございます、ルシェルネオルネス様」
『礼には及びません』
『可愛い子が再び笑顔を見せてくださること。それが私にとって何よりの喜びなのですから』
その言葉に、森中の精霊たちも嬉しそうに舞い始める。
穏やかな風が木々を揺らし、祝福するように葉擦れの音が森いっぱいに響いた。
エリザはそっとルルシルの肩へ手を添えた。
「あなたが無事に目を覚ましてくれた。それだけで十分よ」
その温かな手のぬくもりに、ルルシルは静かに目を伏せる。
クレイスも安堵したように息をついた。
「……目を覚ましてくれてよかった」
その短い一言に、張りつめていた想いが滲んでいた。
ルルシルは二人を見つめ、小さく微笑む。
「……ありがとうございます」
その穏やかな空気を包み込むように、守護樹の枝葉がさらさらと揺れる。
『可愛い子』
ルシェルネオルネスの優しい声に、ルルシルは顔を上げた。
『可愛い子は、自らを責める必要はありません』
『誰かを救いたいと願う心は、とても尊いものです』
『ですが、その優しさは自らを犠牲にするためのものではありません』
ルルシルは静かに耳を傾ける。
『可愛い子の中に残っていた精霊力は、本当に小さな灯火でした』
『その灯火へ、私はほんの少しだけ呼びかけました』
『眠っていた精霊力が応え、再び可愛い子の身体へ巡り始めたのです』
『だからこそ、可愛い子は目を覚ますことができました』
ルルシルは胸へ手を添え、静かに息を吐く。
心の奥には、まだあの温かなぬくもりが残っている。
『ですが、失われた精霊力が戻ったわけではありません』
『今の可愛い子は、とても弱っています』
『しばらくは、この森でゆっくり身体と心を休めなさい』
ルルシルは静かに頷いた。
「……はい」
その返事を聞いたルシェルネオルネスは、安堵したように穏やかな微笑みを浮かべた。
森中の精霊たちも嬉しそうに舞い、木漏れ日は祝福するように四人を優しく照らしていた。




