第一話 ルルシル・ヴァン・ヴェリテ公爵令嬢【後編】
朝食を済ませ、身支度を整えたルルシルは、自室を後にした。
広い屋敷の廊下には、朝の柔らかな陽光が差し込み、磨き上げられた床を淡く照らしている。
ゆっくりと階段を下りるたび、使用人たちは手を止め、恭しく一礼した。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようございます」
ルルシルも微笑みながら一人ひとりへ小さく会釈を返す。
ヴェリテ公爵家の使用人たちは皆、彼女を心から敬愛していた。
決して驕ることなく、誰に対しても穏やかで優しいお嬢様。
それがルルシルという少女だった。
玄関の大扉を抜けると、庭先には学園へ向かうための馬車がすでに待機していた。
御者が恭しく扉を開ける。
ルルシルは静かに乗り込んだ。
車内には、すでに一人の青年が座っていた。
ルルシルと同じ銀色の髪は、柔らかな束感を残しながら無造作に流れている。長めの前髪は片側へと落ち、切れ長の瞳にかかるほどだった。
整った顔立ちはどこかルルシルとよく似ているが、鋭い眼差しと大人びた雰囲気が、彼女とはまた違った印象だ。
すらりとした長身の青年は、仕立ての良い制服を身に纏い、背筋を伸ばして座っていた。
鋭い眼差しを持ちながらも、その瞳にはどこか妹を案ずる優しさが宿っている。
クレイス・ヴァン・ヴェリテ。
ルルシルの兄であり、ヴェリテ公爵家の嫡男だった。
向かいの席へ腰掛けたルルシルを見て、クレイスは手元の書類から視線だけを上げる。
「遅い」
ぶっきらぼうな一言。
だが、その声音には責める色はなく、どこかからかうような響きがあった。
ルルシルは申し訳なさそうに微笑む。
「お待たせしてごめんなさい、お兄様」
「いや」
クレイスはそれ以上何も言わず、再び書類へ目を落とした。
馬車の中には、高く積み上げられた書類の束がいくつも置かれている。
公爵家の印章が押されたもの。
王城から届いたもの。
地方領主からの報告書。
そのどれもが、ヴェリテ公爵家に課せられた重要な案件ばかりだった。
ルルシルは心配そうに兄を見る。
「今日も書類がたくさんありますね」
ペンを走らせていたクレイスの手が止まる。
彼は静かに顔を上げ、優しく微笑んだ。
「そうだな。でも心配するな。これは公爵家の仕事だから」
その言葉に、ルルシルは小さく頷いた。
幼い頃から兄はそうだった。
決して弱音を吐かず、家族の前ではいつも頼もしくあろうとする。
だからこそ、ルルシルは時折、その背負うものの大きさが心配になるのだった。
その時、御者の声が外から響く。
「出発いたします」
馬車がゆっくりと動き始めた。
車輪が石畳を転がる音が静かに響き、屋敷が少しずつ遠ざかっていく。
書類へ視線を戻したクレイスは、小さくため息をついた。
「学園に行けば殿下の仕事もあるから」
ルルシルは苦笑いを浮かべる。
王太子の補佐も、クレイスの大切な役目の一つだった。
公爵家の仕事に加え、王家の仕事。
休む暇もない兄の姿を思えば、胸が痛む。
馬車の中に静かな沈黙が流れる。
やがて街並みを抜けると、窓の外には豊かな森が広がった。
その瞬間だった。
風に乗って、小さな笑い声が聞こえる。
『ルルシル!』
『また来てね!』
『今日はお勉強頑張って!』
森の精霊たちだった。
姿は見えなくても、その声だけはルルシルの耳へ確かに届く。
楽しげな声が重なり合い、森全体が賑やかにざわめいている。
そんなルルシルの横顔を見つめ、クレイスは眉をわずかに寄せた。
「ルルシルは大丈夫か?」
その問いには、森のことだけではない、様々な心配が込められていた。
学園でのこと。
公爵家の娘としての立場。
そして――。
「殿下のことだ」
その一言だけで十分だった。
ルルシルはゆっくりと首を横に振る。
「ご心配なさらないでください、お兄様。私は私の勤めを果たしますから」
その言葉を聞いたクレイスは、返事をしなかった。
ただ静かに窓の外へ目を向ける。
妹がどれほど責任感の強い人間なのか、誰よりも知っている。
だからこそ、その言葉が少しだけ切なかった。
再び沈黙が訪れる。
馬車は街道を進み、やがて王都の中心部へ。
賑やかな街並みを抜けた先に、大きな門が姿を現した。
白亜の石造りで築かれた壮麗な校舎。
色とりどりの花々が咲き誇る広大な庭園。
そして、多くの貴族の子弟たちで賑わう広場。
フィオレイン王立魔法学園。
国内最高峰の魔法学園であり、未来の王国を担う者たちが学ぶ場所。
馬車が正門前でゆっくりと停車する。
御者が扉を開いた。
「俺はこの書類が終わったら行く。先に行きなさい」
ルルシルは静かに立ち上がる。
「行ってまいります、お兄様」
「ああ。」
ルルシルは小さく微笑むと馬車を降りる。
春の風が銀色の髪を優しく揺らした。
新しい一日が、静かに幕を開ける。
ルルシルは馬車を降りると、ゆっくりと学園の門へ向かって歩き出した。
その姿に気付いた生徒たちが、次々と足を止めた。
「ヴェリテ公爵令嬢だ」
「今日もお綺麗ね……」
「相変わらず近寄り難い雰囲気だわ」
「でもあの方、成績は学年でもトップクラスなんでしょう?」
「見て、今日もキラキラしてる……」
「本当だ。あれって精霊の光なんじゃない?」
「私は精霊は見えないけど、ヴェリテ公爵令嬢の周りだけ光って見えるのよね」
囁き合う生徒たち。
学園の所々で、小さな精霊たちが楽しそうに飛び回る。
花びらのような羽を持つ精霊。
木の葉をまとった精霊。
朝露を抱えた小さな精霊。
彼らの身体から零れる淡い光は、春の木漏れ日と重なり合い、ルルシルの周囲を幻想的に照らしていた。
その光景は、精霊が見えない者にとっても不思議と目を引くものだった。
しかし、ルルシルは周囲の視線など気にも留めず、静かに歩みを進める。
すると、生徒たちのざわめきが一層大きくなった。
「カイン殿下だ……!」
「今日も格好いい……!」
人垣が自然と左右へ分かれる。
その中央を、一人の青年が悠然と歩いてくる。
陽の光を受けて輝く金色の髪。
澄んだ蒼い瞳。
整った顔立ちは、令嬢たちが思わず見惚れてしまうほど美しい。
堂々と歩くその姿には、生まれながらに王族として育った者だけが持つ揺るぎない自信があった。
その反面、人を寄せ付けない冷たい眼差しと、どこか相手を見下ろすような態度は、近寄り難い雰囲気を漂わせている。
フィオレイン王国第一王子。
カイン・フィオレイン。
ルルシルの婚約者である。
ルルシルは立ち止まり、スカートの裾を軽く摘み、優雅に一礼する。
「おはようございます、カイン殿下」
カインはルルシルへ一瞬だけ視線を向けた。
「……ああ」
短く返事をすると、そのまま通り過ぎようとする。
「カイン様!」
弾んだ声が校門前に響いた。
一人の少女が嬉しそうに駆け寄ってくる。
栗色の髪を揺らしながら一直線に走ってきた少女は、ルルシルの肩へ軽く触れるようにしてその横をすり抜ける。
そして、そのままカインの隣へ並んだ。
「おはようございます!カイン様!」
先ほどまで無表情だったカインの口元が、ほんの少しだけ緩む。
「ああ、おはよう」
少女は嬉しそうに笑い、自然とカインの隣を歩き始めた。
二人はそのまま校舎へ向かって歩いていく。
ルルシルは静かにその後ろ姿を見送った。
追いかけることも、呼び止めることもない。
――いつものことだから。
周囲では再び小さなざわめきが広がる。
「またエミリーさんだ……」
「婚約者の前なのに」
「殿下も止めないのね」
「ヴェリテ様がお気の毒……」
そんな囁きが聞こえても、ルルシルは表情一つ変えなかった。
学園にいた小さな精霊たちが、心配そうにルルシルの周りへ集まってくる。
『ルルシル……』
『だいじょうぶ?』
『かなしい?』
淡い桃色の羽を持つ精霊が、そっとルルシルの頬へ触れた。
翡翠色の精霊は肩へ腰掛け、不安そうに顔を覗き込む。
ルルシルは優しく微笑み、小さく首を横へ振った。
「大丈夫よ」
その一言に、精霊たちはほっとしたように笑顔を見せる。
再びルルシルの周囲を楽しそうに飛び回り、小さな光の粒を舞い散らせた。
春の陽光を受け、その光景はまるで祝福のようにきらめく。
ルルシルは前を向き、静かに一歩を踏み出した。




