第一話 ルルシル・ヴァン・ヴェリテ公爵令嬢【前編】
春の終わりを迎えた朝。
やわらかな陽光が木々の隙間から降り注ぎ、若葉を黄金色に染めていた。
朝露をまとった草花は静かに風に揺れ、小鳥たちのさえずりが森の奥深くまで響いている。
そこは、人の立ち入りを許さない神聖な場所――精霊の森。
森の中央にある大きな古木の根元で、一人の少女が静かに眠っていた。
透き通るような銀色の長い髪は白い花びらの上へさらりと広がり、朝日を受けて淡く輝いている。
白磁のように白い肌。
長い睫毛に縁取られた整った顔立ちは、眠っているだけで一枚の絵画のような美しさだった。
身にまとっているのは、白いワンピース風の寝巻き。
森を吹き抜ける風が裾を優しく揺らし、その姿をまるで森そのものが慈しんでいるかのように包み込んでいた。
少女の名は、ルルシル・ヴァン・ヴェリテ。
青。桃色。黄金色。翡翠色。
彼女の周囲では、様々な色の羽を持つ小さな蝶のような精霊たちが楽しそうに舞っていた。
精霊たちは、花から花へ飛び回るようにルルシルの周囲をくるくると旋回し、ときおり頬へ触れたり、銀色の髪へととまったりする。
『ルルシルー!』
『起きてー!』
『朝だよー!』
『今日は学園の日だよ!』
鈴を転がしたような愛らしい声が森へ響く。
けれどルルシルは微笑むような寝顔のまま、小さく寝返りを打っただけだった。
精霊たちは困ったように顔を見合わせる。
『まだ起きない……』
『どうしよう?』
『誰か呼んできて!』
その時だった。
草木がゆっくりと揺れ、大きな影が森の奥から姿を現す。
精霊たちは嬉しそうに一斉に道を空けた。
現れたのは、一際大きな雄鹿の精霊。
堂々とした体躯を持つその身体には、長い年月を生きてきた証のように苔や草花が芽吹いている。
枝分かれした立派な角には若葉が芽吹き、小さな花々が可憐に咲いていた。
穏やかな黄金色の瞳は、慈愛に満ちている。
雄鹿の精霊はゆっくりとルルシルへ歩み寄ると、その美しい寝顔を静かに覗き込んだ。
そして大きな鼻先で、そっと頬へ触れる。
もう一度。
優しく。
まるで幼い子どもを起こすように。
その温かな気配に、ルルシルの長い睫毛が小さく震えた。
「……ん……」
ゆっくりと瞼が開く。
透き通るような蒼い瞳が朝の光を映した。
「あ……」
目が合った瞬間、小さな精霊たちは嬉しそうに一斉に飛び上がる。
『起きた!』
『おはよう!』
『やっと起きたー!』
彼らはぱっと散り、それぞれが楽しそうに空を舞い始めた。
雄鹿の精霊の周囲をくるくると飛び回り、まるで「起こせたね」と褒めているようだった。
ルルシルはゆっくりと身体を起こし、首から提げていた銀の懐中時計を手に取る。
蓋を開けば、小さく時を刻む音が静かな森へ溶け込んだ。
「もうこんな時間なのね」
侍女が部屋へ起こしに来る頃だ。
今日は学園へ向かう日。
少しだけ長く眠りすぎてしまったらしい。
ルルシルは苦笑しながら懐中時計を閉じると、目の前に立つ雄鹿の精霊を見上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「起こしてくださって、ありがとうございます」
雄鹿の精霊は安心したようにゆっくりと目を細める。
その様子を見ていた精霊たちが、森のあちらこちらから姿を現し、一斉にルルシルのもとへ集まってくる。
『おはよう!』
『今日もいい天気!』
『急いで急いで!』
『また遊びに来てね!』
賑やかな声が森いっぱいに広がる。
「えぇ、おはようございます」
一人ひとりに微笑みながら応えるルルシルは、雄鹿の精霊の首元へそっと手を伸ばした。
柔らかな毛並みをゆっくりと撫でる。
雄鹿の精霊は心地よさそうに静かに目を閉じた。
「また来ますね」
そう告げると、ルルシルは懐中時計を胸の前で握りしめる。
静かに魔力を込めると、時計から淡い銀色の光が溢れ出し、足元へと流れ落ちていく。
やがて複雑な紋様が描かれ、幾重にも重なる魔法陣が静かに輝きを増した。
森の空気がふわりと揺れる。
精霊たちが名残惜しそうに手を振る。
『いってらっしゃい!』
『またね!』
『学園がんばって!』
ルルシルは微笑みながら小さく手を振り返した。
次の瞬間。
銀色の光が彼女の身体を優しく包み込み、その姿は朝の森から静かに消えていった。
転移魔法の光が静かに消える。
ルルシルが目を開くと、そこは見慣れた自室だった。
精霊の森とは違い、部屋の中はひどく静かだった。
規則正しく時を刻む時計の音だけが、広い部屋に響いている。
厚手のカーテンは閉ざされたままで、朝の陽射しはほとんど差し込まず、室内は薄暗い。
森の澄んだ空気と生命の気配に包まれていた数秒前とは、まるで別世界だった。
ルルシルは小さく息をつく。
森の香りがまだ寝巻きに残っているような気がした。
その静寂を破るように、控えめなノックの音が部屋へ響く。
「失礼いたします。」
扉がゆっくりと開かれ、一人の女性が入室した。
栗色の髪をきちんとまとめ、落ち着いた藍色の侍女服を身に纏っている。
優しげな表情を浮かべながらも、その所作は一切の無駄がない。
彼女はサラ・リース。
幼い頃からルルシルに仕え続ける専属侍女だった。
部屋へ入ったサラは、すでに起きているルルシルを見ると、穏やかに微笑む。
「あら、お嬢様。おはようございます。もうお目覚めだったのですね」
「おはよう。サラ」
ルルシルが微笑み返す。
その姿を見たサラは、ふと寝巻きの裾へ視線を落とした。
白い布地には、うっすらと土が付着している。
裸足だった足先には草の葉が一枚。
そして髪には、小さな白い花びら。
それだけで十分だった。
サラは小さく微笑む。
「また、精霊に呼ばれたのですね。学園に行く支度をしましょう。坊ちゃんに気づかれてしまいますよ」
ルルシルは少しだけ苦笑した。
「そうね」
この屋敷で、誰よりもルルシルを案じている人物がいる。
兄、クレイス・ヴァン・ヴェリテ。
ヴェリテ公爵家の嫡男であり、いずれ家を継ぐ存在。
精霊との関わりが深い公爵家だからこそ、クレイスは幼い頃から知っていた。
精霊は人に害をなす存在ではない。
だが、人間とはあまりにも時間の流れが違う。
時に精霊は純粋な好奇心から人を森へ誘い、人の常識では考えられない出来事を引き起こすこともある。
その中でもルルシルは、精霊たちにとりわけ愛されていた。
だからこそ、クレイスは心配する。
精霊たちが悪意を持っているからではない。
ルルシルが優しすぎるからだ。
精霊に頼られれば断れず、自分のことを後回しにしてしまう。
そんな妹だからこそ、兄はいつも気を揉んでいた。
「今日はお兄様に見つかる前でよかったわ。」
ルルシルが小さく呟くと、サラはくすりと笑う。
「坊ちゃんでしたら、今朝も執務室で書類と格闘なさっております」
「えぇ」
サラは慣れた手つきでルルシルの銀色の髪を優しくほどいていく。
朝露で少し湿った髪を丁寧に櫛で梳かし、一房ずつ整えていくその手は、とても優しい。
ルルシルは静かに目を閉じ、その心地よさに身を任せた。
続いて、森を歩いた裸足を温かな濡れ布で丁寧に拭いていく。
細かな砂や土を落としながら、サラは何気ない口調で言う。
「森は楽しかったですか?」
「えぇ」
その一言だけで十分だった。
ルルシルの穏やかな笑顔を見れば、どれほど楽しい時間を過ごしたのかは伝わってくる。
サラもまた、それ以上は尋ねなかった。
精霊たちとの時間は、ルルシルにとって何より大切なひとときなのだと知っているから。
髪を整え終えると、今度は学園の制服へと着替えを手伝う。
純白のブラウス。
濃紺の制服。
胸元にはヴェリテ公爵家の紋章が刻まれたブローチ。
銀色の髪との対比が、その美しさをより際立たせていた。
一通り身支度を終えたサラは、満足そうに頷く。
「朝食はお部屋にお持ちしますね」
「えぇ、お願いね」
サラは一礼すると静かに部屋を後にした。
再び静寂が訪れる。
ルルシルは小さく息を吐き、ベッドへ近付く。
そして。
ドサッ。
糸が切れたように、そのまま柔らかなベッドへ身体を預けた。
「……もう少しだけ、このままでいたいわ」




