エピローグ ドイツさんと私
少し下品な表現があります。ご注意下さい。
一年前の冬に隣に越してきたドイツ人は、その後彼の愛するどこぞの妖精のように、いつの間にかうちに住み着いて。その厳めしい顔や体格に反比例した人懐っこさでこちらの懐にあっさり飛び込むと、あれよあれよといううちに、私の初めてをいくつも奪っていった。
キスされてからなんとなく恋人になって、指輪をプレゼントされてからプロポーズを理解する。なんて、どこかちぐはぐな事を重ねながらの二年目の冬。
遅いにもほどがありますよ!なんて後輩に呆れられながらも、自分の気持ちを強く自覚した私と、それをずっと待っていてくれた優しいゴリラはようやく真の『婚約者』となったのだった。
それから数ヶ月。
彼の仕事であるサッカーリーグが今季閉幕したのに合わせ、私たちは結婚式をあげた。
「コムギっ……コムギぃ……っ」
「ああもう、いつまで泣いてるの、オリーってば」
「だって、オリーは嬉しいんですよ!」
無事に結婚式も披露パーティも済ました私たちは、ちょっと張り込んでとったホテルの一室でさっきからそんなやり取りに終始していた。
目の前にいるこのゴリラさんは本当に感激屋らしく、式が始まる前にすでに涙ぐんでいたことを私は目撃している。そのお陰で、本来なら泣くはずの私がまったく泣けなかったという……。
キングサイズのベットの上、隣に座り背中を丸めるオリーの頭を、私はため息をつきながら優しく撫でてやった。それにしても。
「花嫁からお父さんへの手紙で、なんでオリーが一番泣いてたんだろう……」
「オリーだったら耐えられませんね! オリーとコムギの娘、連れて行かれたらオリーは泣き暮らしますね!」
「まだ欠片も存在してないけどね!」
何を気の早いっと、ちょっと動揺しつつオリーの頭を叩き、私はごろりとベットに寝転がった。なんというか、飲み過ぎた。
会社の同僚たちからも、自分の結婚式であんなに飲酒する新婦を見たことがない!とつっこまれる程度に、飲んだ。えらい勢いで飲んだ。オリーの親戚や関係者であるドイツの方たちに釣られるようにして、飲んでしまった。途中からビールが底をつきかけて、ホテルの人が真面目に青ざめてし。
パーティはお腹が締め付けられないタイプのワンピースで正解だったよ、羊子ちゃん。
「コムギ、疲れましたか?」
アルコールのもたらすぼんやりとした心地よさにそのまま身体を委ねていたら、青い目を真っ赤にしたオリーが寝転がった私を覗き込んできた。
少しだらしなくゆるめられたシャツの隙間から、太い鎖骨と筋肉がちらりとのぞく。今さらながら、なんとなく気恥ずかしい。だってさ、今日ってその、初夜だよね。初夜!
いやまあ実際には初めての夜ってわけじゃないんだけど、それはまあその、なんていうの?もうその言葉自体の響きがあれっていうか。
ひとりであわあわする私を見降ろし、オリーは首を傾げている。
「コムギ?」
「えっとね! つ、疲れたけど平気だよ!? あの、えっと、その……オリーも疲れたでしょ! お、お風呂でも入ってあったまれば!?」
わわわわ、私の馬鹿ああああ!
自らやる気満々なことを示してどうする!どうするの!?
いや、やる気があるのかないのかと問われれば、それはもうあります。充分にあるんだけど、その……奥さんになったんだなあ、とか思うと気恥ずかしいというか。
そのままごろごろとベットの上を転がりながら唸る私を見て、何を思ったのかオリーも一緒になってごろりと寝転がってきた。そして、自分のほうへと私を引き寄せる。
「コムギ、一緒に入ってくれますか?」
「なっ」
ぎゅっと広い胸の中に抱き留められて、耳元でささやかれた言葉に全身が即発熱する。
なにその高度なプレイ。無理だよ、無理。無理無理無理無理無理っ!
ぶるぶると首を振りながらオリーの顔を見上げれば、彼はそんなこと予想してました、とでもいうようにいたずらっぽい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
ちゅ、と額に優しいキスが落ちる。
「冗談ですね、コムギ」
「じょっ、冗談てっ……オリー!!」
「でも、いつかは実現したいですね。オリーはコムギの全部優しく洗ってあげたいです……」
少しだけ欲望に掠れる声でとんでもないことを耳に吹き込まれ、私はただ無言で口を開け閉めするだけ。いっさい反論できない。
すると、それを見ていたオリーは突然吹き出し、私の首筋に顔を埋めたまま堪えきれないといった感じで笑い出してしまった。厚い筋肉に覆われた肩が、大きく震えている。た、謀ったな、オリー!
「か、からかうのよくないよ!?」
「だって、コムギ可愛いのが悪いです。でも本当に、オリーはいっぱいコムギとしたいことあるですよ。一緒にお風呂もそうだし、眠る時もずっとコムギの中に入ったままとか……」
「却下! 特に二つ目は絶対に却下!!」
「えー」
「えーじゃないっ!」
神聖な新婚初夜にこのドイツ人は何を言い出すんだ、まったく。
私はさわりさわりと腰とお尻の間で怪しく動くその手の甲を、制裁の意味を込めてぎゅっとつまんでやる。するとオリーは小さなうめき声を上げて、手を元の位置に戻した。欧州人、マジそちら方面の思考がぶっとんでる。
「あのねえ、日本では結婚式の夜はね、『初夜』って言ってとっても神聖な時間なの! そういう危険思想は捨てないといけないの!」
「ショヤ、オリーは知っています! でも、オリーとコムギは初めての夜ではないですね。どうしたらいいですか?」
く、くそう、真正面からきやがった!
青い瞳を睨み付ければ、その中に面白そうにこちらを窺う感情が見え隠れしている。わ、わかってて聞いてるなっ。
どう答えたものかと唸る私の背中を、今度は指が下からつうっとなぞりながら上がっていく。その何とも言えない感覚にびくっと身体を震わせて、私は小さく息を吐いた。だ、だめだ。早く答えないとこのまま食われる!
えーと、えーと、えーと。
「しりとり!」
「え?」
がばりと半分身を起こした私は、そう叫びながらオリーの逞しい胸に両手をつく。そうして今度は私が上からオリーを覗き込んだ。
「そうよ、オリーとはまだしりとりしたことなかったし、初夜にはぴったりだと思うんだよねっ。何も必要ないし、ベットに横になったままできるし!」
「……ずっと、しりとり?」
「『ん』でどっちかが負けるまでは、ずっとしりとり!」
「……」
複雑そうに顔をしかめたオリーも同じように身体を起こし、ふかふかな枕に背を預けるようにして再び私を抱え込んだ。しばらくそのまま考え込んでいたオリーは、わかりました、とやけにあっさりと頷いてしまう。
あ、あれ?思ったより抵抗が少ない?
「え、しりとりで一晩ゴー?」
「Ja、しりとりしましょう、コムギ。オリーからでいいですか?」
その、ひどく無邪気な「世の中に悪い人なんてひとりもいません」的な笑顔にだまされたんだ。ほっとした私が「うん」と言ったその瞬間、ぐるん、と世界が回転した。
えっと声を上げる間もなく、オリーの唇が私のそれを求めて重なってくる。半端に開けられていたそこから、すぐに熱い舌がするりと入り込んできてしまった。えええ!?
口の中、意外と敏感な上の辺りを尖った舌が試すように舐めて、私は身体の中心に火をつけられたようにすぐに熱くなってしまう。
舌が、舌の上をなぞる感覚。
微妙に香る、アルコールの匂い。
首を横に向けてそれらから逃れようにも、大きな手のひらが両頬を包み込んでいて動けない。いつもよりずっと性急に、どこか高い場所へ昇っていく感覚。
舌先にちゅう、と吸い付いたオリーはそこでいったん私の唇を開放した。
あまりに突然の行為にいまだ混乱中の私は、とにかく乱された息を整えようと大きく息を吐く。それを、オリーは熱の籠もったような瞳で見つめていた。
「……ず、ずるいっ。ルール、違反だよっ」
半分涙目になってそう訴えれば、彼はまたにっこりと満面の笑みを見せた。そしてぐっと私に顔を近付けて、ささやく。
「だって、オリーはちゃんと『オリーからでいいですか』って始めましたよ? そしたらコムギ、『うん』って『ん』言いました。それに『か』からでもないので、コムギの負けです。負けた人は、勝った人の言うことなんでも聞きますね?」
な、なんじゃそりゃああああ!!
しりとりの始めっていったら、古今東西「しりとり」の「り」からに決まってんでしょうが、このバカチン!
しかも何その恐ろしいマイルール!
何でも言うこと聞くって、何!? 何を聞かせるつもりなの、このドイツ人!!
上機嫌にこちらを見下ろすオリーの顔を唖然と見つめながら、私の脳内にはめくるめく桃色なあんなこんなが駆けめぐる。
どうしよう、お父さんお母さん。娘はついに新しい境地へと旅立つことになりそうです!
「じゃあコムギ、何から始めますか?」
「なにって、なにって、なにがあるのおおお!?」
ぐいっと私の身体を抱き込んで、オリーはもぞもぞとベットの中へと潜り込む。ふたりとも、もうカジュアルな寝間着姿だけど、お風呂も入ってないし今日は色々汗も掻いたし、できるなら綺麗な身体になってから……!
と、半ば覚悟を決めつつ顔を真っ赤にしていた私の額に、オリーはまた優しいキスをした。それからぽんぽん、と宥めるように背中を何度か軽く叩いてくれる。
それはまるで、むずがる子供を落ち着かせるみたいなもので、決して何かを求めるような仕草ではなかった。
てっきりあれやこれやの酒池肉林を想像していた私は、さっきとは反対の驚きをもってオリーを見る。
「お、オリー?」
「コムギ。オリーはコムギに色んなことを知ってほしいです。オリーの産まれた家のこと、ファータァ、ムッタァのこと。小さい時お気に入りだった鉄道のおもちゃとか、好きだった食べ物、学校で一番怖かったレーラァ。……なんでも聞いて欲しい。そして、オリーもコムギのこともっとよく知りたいです」
頬をゆっくり撫でる手が、繊細な動きで私の前髪をそっと後ろへと流す。そうされながら私は、オリーから穏やかに告げられた言葉の意味を、胸の中で反芻していた。
オリーの小さい頃、両親、思い出。それらは全部、まだ私が知らないオリーの過去だ。この人が日本に来るまで、私と出会うまで、どうやって生きて何を考えて、笑って、傷ついたりしたのか。
同じように私のことも知りたいと、そうオリーは言ってくれた。
たったそれだけのことなのに、なぜだかすごく嬉しくてじわりと涙が浮かんできてしまい、私は慌てて目を閉じる。そこに、オリーがそうっと唇が押し当てた。
「これは、一晩かけてもやる価値のあることですよ?」
「うん……」
そして私たちは語り出す。
離れていた時間がどういう風にお互いを作ったのか。ドイツと日本、遠く離れた場所からゆっくりと歩み合うようにして、一歩ずつ。
こんなにも優しく過ぎていく夜は今まであっただろうか。
ひとりじゃなくて、今日からはふたり。当たり前のようで、奇蹟みたいな一日が近づいてくる。愛しい、愛しい、私たちのこれからの人生。
これが、海を越えてやって来た、大好きなドイツさんと私の物語。
ちなみに、夜更かししすぎてチェックアウトの時間に寝坊して、フロント係からの催促電話で飛び起きるのは、また別のお話。
これにて完結しました。長い間読んでくださってありがとうございました!