第一話 35歳営業マン
佐藤蓮、三十五歳。
都内にある中堅のオフィス機器メーカーで、法人営業を担当している。
始業時間は午前九時。
八時四十分、蓮は会社の自動ドアをくぐった。
「おはようございます」
「おはようございます、佐藤さん」
受付を通り、営業部のフロアへ向かう。
蓮の席は窓際から三列目。
パソコンを立ち上げると、今日の予定を確認した。
午前中は社内で資料作成。
午後は取引先との打ち合わせが一件。
その後、後輩の営業に同行してもらう予定が入っている。
特別忙しいわけではない。
かといって、暇でもない。
月の残業時間は三十時間ほど。
給料は年収にして五百五十万円前後。
仕事に大きな不満はない。
「佐藤さん、ちょっといいですか?」
隣の席の後輩が声をかけてきた。
「どうした?」
「この見積書なんですけど……」
画面を覗き込む。
数字を確認して、蓮は一か所を指差した。
「ここ、前回の見積もりと金額が違ってる」
「あ……」
「たぶん去年の単価が残ってる。こっちの資料見てみ」
「すみません」
「大丈夫。出す前に気づいてよかったな」
後輩は何度も頭を下げた。
蓮はそれ以上何も言わず、自分の仕事に戻った。
昼休みは会社近くの定食屋で済ませた。
午後一時。
取引先との打ち合わせ。
「現在の機械、特に不具合はないんですよね?」
「そうですね。まだ普通に使えています」
「でしたら、急いで入れ替える必要はないと思います」
蓮がそう言うと、先方の担当者が少し意外そうな顔をした。
「営業なのに、そういうこと言うんですね」
「必要がないものを入れてもらっても、お互いよくないですから」
「なるほど」
その後、先方が困っている部分について話を聞き、蓮は別の機器を提案した。
商談が終わる頃には、担当者の表情も柔らかくなっていた。
「佐藤さんには相談しやすいですね」
「ありがとうございます」
会社に戻る途中、後輩から電話が入った。
「佐藤さん、すみません。さっきの案件なんですけど……」
どうやら先方への説明で少し詰まっているらしい。
「じゃあ、一回俺から先方に電話するよ」
「いいんですか?」
「その代わり、電話終わったら経緯を説明するから。次は自分で対応できるようにしよう」
「はい!」
電話を切る。
腕時計を見ると、午後三時二十分。
会社に戻る。
パソコンの右下に表示された時刻は三時十九分だった。
特に気にする様子もなく、蓮は仕事を続けた。
その日の仕事を終えたのは、午後七時過ぎだった。
会社を出ると、駅へ向かう。
今日は大学時代からの友人と飲む予定があった。
「おー、蓮。久しぶり」
「久しぶり。高橋」
待ち合わせ場所にいたのは、高橋だった。
大学時代からの友人で、今では結婚している。
「旦那さんは?」
「今日は遅いみたい。そっちは?」
「俺は一人」
「知ってる」
「なんで即答なんだよ」
「だって、もう三十五でしょ?」
高橋は笑った。
二人は近くの居酒屋に入り、昔話をしながら酒を飲んだ。
「蓮、そろそろ結婚とか考えないの?」
「一応、考えてはいる」
「一応なんだ」
「仕事もあるし、タイミングがな」
「昔からそういうところ変わらないね」
高橋が笑う。
「そういう高橋は?」
「私はもう結婚してます」
「知ってるよ」
「旦那、いい人だよ」
「それも知ってる」
二人で笑った。
「でもさ」
高橋が少しだけ真面目な顔になる。
「蓮、昔から女の子に結構モテたじゃん」
「そうだったっけ?」
「そうだったよ」
「覚えてないな」
「嘘つけ」
高橋は笑いながらビールを飲んだ。
「大学の頃だって、蓮のこと好きだった子、結構いたんだから」
「そうなの?」
「そうなの」
高橋はそれ以上は言わなかった。
昔の話だった。
今の二人にとっては、それだけの話だった。
店を出る。
「じゃあ、またね」
「ああ。また」
「今度、旦那も一緒に飲もうよ」
「いいよ」
高橋と別れ、蓮は一人で駅へ向かった。
改札前の時計は午後十時二十分。
腕時計は十時十八分を示していた。
駅の時計は少し進んでいることもある。
蓮はそのままホームへ向かった。
スマートフォンが一度だけ振動した。
画面を見る。
通知はない。
しばらくして、電車が到着した。
いつものように帰宅する。
そういう一日のはずだった。
駅を出て、自宅へ向かう途中。
交差点の信号が青になる。
蓮が横断歩道を渡り始めた、そのときだった。
遠くから、車のブレーキ音が聞こえた。
続いて、短いクラクション。
周囲の音が、一瞬だけ遠くなった。
次の瞬間。
強い衝撃が、蓮の身体を襲った。
視界が大きく揺れる。
夜空が見えた。
そして――
佐藤蓮の三十五年の人生は、そこで終わった。




