7-11
目の前で起きている事態を、私は受け止めきれずにいた。ベギルが「発症」?そんな馬鹿なことがあっていいはずがない。
ベギルは「死病」の罹患者だ。しかし、それを克服しその力を我が物とした者でもある。その身体に流れるオーガの血が関わっているのかどうかは分からない。ただ、「死病」は彼の身体を蝕みきることなく、共存しているかのように見えた。
ぺルジュードに身分の低い彼が在籍し得たのも、その特性によるものだった。彼は「死病」の力を使いこなし、ペルジュード内でも戦闘能力だけで言えば私に次ぐほどになっていた。だからこそ、エオラではなくベギルをここに連れてきたのだった。
ベギルの状態はこの異世界に来てもなお安定していた。彼が魔力供給をエオラに提案したのも、おそらく魔力欠乏症にはならないという自信がある程度あったからなのだろう。
だからこそ、彼が「死病」の第二段階に変態することは全く想定の外にあった。それこそ、自ら望まなければこのようには……
『タイ、チョウ……イマノ、ウチニ……!!』
ベギル「だった者」が声を発した。……まだ理性がある??
ということは、これは……紛れもなく、彼自身の意思によるものだ。ジュリ・オ・イルシアをモリファスに連行するために、この男は自ら犠牲になろうとしているのだ。
状況ははっきり言って極めて厳しい。私は切り札を既に切ってしまった。無理をすればタカマツもノア・アルシエルらもここで一掃はできる。ただ、その代償として私は死ぬ。そうなればジュリ・オ・イルシアを連れ帰ることもできない。
任務の達成のためには、誰かがここで彼らを足止めしなければいけない。ベギルは、そこまで判断したのだ。
私は「すまない」と呟き階段を駆け上がる。ベギルが私を護るかのように触手を振り回した。ノア・アルシエル、そして彼女と一緒に来た男も、回避するのが精一杯だ。ユウジ・タカマツもまだ回復にはほど遠いようで身体を起こし切れないでいる。
目の前には黒髪の女がボロボロになって立っていた。確か、アムルとかいう純血の魔族の女だ。私の姿を見るや否や、右手を振り下ろす。傷口からは血が迸り、私へと浴びせかけられた。
私はそれをダッキングの要領で回避する。向こうの狙いは分かっている。体液を介して相手を操作する「誘惑」だ。だが、この程度なら今の私でも問題なく対処できる。
右拳に「消失」の力を込めた。もう魔力は無駄遣いできない。残りの寿命をこれ以上削るわけにもいかない。これが、このイルシアで使う最後の魔法だ。
ダッキングの状態から右アッパーを放つために身体を一段と沈み込ませた、その時。背後から強烈な一撃が私を襲った。
『ぐうっ!!?』
「アムルッッッ!!!」
階段下には、オールバックの男と金髪の女が立っている。その女の背中からは、ベギルのものよりは細いものの触手が4本生えていた。まだ戦力を残していたかっ!!
『ワタヌキ様っ!!?』
ベギルが『ゴオオッッ!!!』と咆哮を上げながら彼らに向けて触手を振るう。ノアとその相方の男が割って入り、二人がかりで防護壁を張ったのが見えた。
触手は彼らの前で止まるが、その力の差は歴然だ。じりじりと押し込まれていく。私はそれを確認すると体勢をもう一度立て直し、改めて魔族の女へと向かった。
刹那、足元がぐにゃりと沈んだ。いや、沈んだのは足元だけじゃない。……階段全体??
『キシャァアアアッッッ!!!?』
ベギルが奇声を上げ、タカマツが「ニィ」と嗤う。私はすぐにこれが奴の「恩寵」によるものだと知った。
飛行魔法で何とか沈む階段から脱出する。残り少ない魔力をここで浪費するとはっ。
だが、魔族の女を沈黙させるのに「消失の力」は不要だ。急所に一撃を食らわせれば、少なくとも昏倒はできる。
そのまま突っ込もうとしたその時、扉から小柄な少年が現れたのが見えた。
『何っ!!?』
激しい衝撃が全身を襲う。まるで見えない壁か何かにぶち当たったかのようだ。私は耐えきれず階段を転げ落ちる。ベギルはなおも体勢を立て直せず、触手を無闇矢鱈に振り回しもがいていた。
「そこまでだよ」
少年の背後から、長い金髪の少女が現れた。……ジュリ・オ・イルシアだ。
『……終わってはいないっ』
「いや、もう無駄だよ」
全身が見えないロープのようなもので締め付けられた。……「拘束」、それも相当強力なやつだ。
それは「死病」の第二段階に入ったベギルの巨体をも安々と止めている。これが……「御柱」の魔力かっ。
ベギルの目が私へと向いた。それは一瞬だけ閉じ、再び見開かれた時には黄金の光を放っていた。
同時に、私は彼の思念を受け取っていた。
『隊長……ここまでです。どうか、ご武運を』
ベギルの全身が発光を始める。私はこれが何かを理解した。
ベギルは……自ら病状をさらに進めた。周囲ごと自らを滅する「第三段階」だ。
私は唇を嚙んだ。彼はプランAを放棄し、最後の手段であるプランBを選択しろと私に伝えている。
ジュリ・オ・イルシアなしにモリファスの、そしてメジアの救済が成るかは極めて怪しい。それでも、彼は……わずかな可能性を私とエオラに託した。「彼女」とその支援者が、救済策を持っているというごくわずかな可能性だ。
『……すまない』
私は呟き、首にかかったアミュレットを握ろうとした。これに魔力を伝えれば、私は「彼女」のいる国へと転移する。
それがどういう意味を持つか、分からない私ではない。しかし、もはやそれしか手段は残されていないようだった。
私は残りの魔力を、全てアミュレットに注ぎ込もうとした。だが……
「無駄だって言ったのに」
力を入れようとしても、指一つ動かせない。これほどまでに、ジュリ・オ・イルシアの魔力は強力なのか??
そしてベギルを見ると、光が急激に失われていくのが見えた。私はすぐに、彼に何が起きたかを知った。
……ノア・アルシエルと一緒に来た男が、あのタカマツの持っていた剣をベギルの脚に突き刺していたのだ。
ベギルの身体はあっという間に萎んでいく。そして、ノア・アルシエルが私の首にかかったアミュレットを引き千切った。
『……これで、本当の終わりね』
私は、作戦が無残な失敗に終わったのを悟った。




