7-10
俺は背中から触手か何かが生えている化け物に向き合った。生まれて28年間、喧嘩らしい喧嘩などしたことがない。
そもそもそういう局面を、俺はこれまで注意深く回避しながら生きてきた。自分が誰かと戦うなんてことを、俺はつい1週間前に想像だにしなかった。
だが今は違う。俺がやらないといけない。誰かがこいつらを止めないといけないという使命感が、俺を動かしていた。
『トモッ!!』
ノアの声と同時に、化け物が触手を振り回してきた。俺は咄嗟に手に魔力を込める。触手は見えない壁に当たったかのように弾き返された。化け物が驚いたように目を見開く。
『……何だと?』
念話は使っていないが、何を話しているかは理解できた。俺が魔法を使えるようになったのも、メジア語が分かるようになったのも、「魔紋」で魔力だけでなく知識もノアとある程度共有したからに違いなかった。
*
3時間ほど前。俺たちは横浜・関内の「ユーカリ総合病院」にいた。一般病棟の個室に移されたノアは、既に意識を取り戻し上半身を起こしていた。
「もう大丈夫なのか」
最寄りのビジホを早々にチェックアウトし、俺は彼女の病室に駆け付けた。一命をとりとめたのは分かっている。ただ、昨日は意識を取り戻さないままだっただけに正直不安だったのだ。
コクン、と小さくノアが頷いた。
『トモがやってくれたのね……ありがとう』
微かに微笑むノアを、俺は抱きしめた。
「良かった……そして、すまない。君を助けるためとは言え……」
『分かってるわ。『魔紋』を完全に見た、ということでしょ』
「……気付いてたのか」
『うん』と頷くノアに、俺はもう一度「すまない」と呼びかけた。『はは』とノアが笑う。
『謝る必要なんてないわ。それしか手段がなかったのは分かるし、覚悟の上だったのも分かってる。あたしがトモの立場なら、きっと同じようにした』
「……だが、君の命は」
『あたしはある程度そうなってもいいと思ってた。番になる前に、こういう形になっちゃったのは不本意だけど。この世界で言う『ロマンチック』じゃないって感じかしら』
俺は少し驚いた。ノアの方は、とっくにそうなってもいいと思っていたのか。それに、番ということは……
「……俺でいいのか」
『あたしはね。むしろ、トモがどう思ってるか心配だった。多分、あなたにとってあたしはまだ番の対象には見られてない。こんな身体でもあるし』
「そんなことはない」と俺は即答した。むしろ、職も何もない俺が彼女を支えていけるのか自信がなかったことの方が大きい。異性としての彼女は魅力的すぎるほど魅力的だ。今の俺は、全く釣り合っていない。
『ありがと』と口にしようとするノアの唇を、俺は不意に奪った。『んっ』とくもぐった声が漏れるのを無視し、俺は黙ってキスを続ける。頬に熱いものを感じた。俺ではなく、ノアの涙だ。
身体を離すと、『本当に……いいの』と訊いてくる。俺は小さく頷いた。
「ちゃんとしたのは、この一件が終わってからにしよう。俺たちには、やるべきことがある」
ノアの表情がハッとしたものに変わり、すぐに真剣なものになった。
『……そうね。2つ、お願いがあるの』
「何だ」
『まず、医者に頼んでこの首の管を取って。トモが言ってた『中心静脈栄養』ってやつだろうけど、正直動きにくくて仕方ないの。もう、これはなくて大丈夫』
「分かった。2つめは」
『もう一度、口吸いをして。別にふざけているわけじゃないの。あたしの知識を、あなたに送り込む』
一瞬、何を言われているのか理解できなかった。思わず「は?」と声が漏れる。
『そういう反応になるのも無理はないわ。口吸いは確かに男女の親愛の情を示す愛撫行為だけど、魂と魔力が共有された相手とだと違った意味も持つわ。それは、知識の相互共有。番としての一体度合いを高めるために必要な儀式でもあるの』
*
そしてそれから1時間後。退院の手続きを取った俺たちは、五島警視からの一報を受けていた。
町田市、青梅市と干からびたミイラのようになった死体が相次いで発見されたという。2人とも木村会の構成員であるらしく、ペルジュードの手によるものではないかとのことだった。
ノアの顔色がサッと変わる。
『エオラだわ』
「エオラ?誰だそいつは」
『ペルジュードの副官。魔術学院ではあたしの同級生でもあった。魔族交じりで、身内以外の命など屁とも思わないような奴よ。こっちの世界の人間を魔力供給源として吸い尽くすというのは、いかにもあいつがやりそうなことだわ』
「しかし、魔力を吸うって……魔力欠乏症になりかけているってことか?」
『多分それだけじゃない。ペルジュードの発見報告がない辺り、多分連中は隠密魔法をかけながら飛行魔法で向かってると思う。そのために、魔力の補充が必要だったと考えれば筋は合うわ』
「……マズいじゃないか!?」
ノアは『今すぐ追いかけないと』と俺の手を握る。その瞬間、彼女が何を考えているのか即座に理解できた。
さっきのディープキスの後、俺は彼女の思考がテレパシーのようにある程度理解できるようになっていた。特にこうやって肉体的な接触があるとなおのことだ。
「最速で飛ばすんだな。だが、こっちにいるプレシアは……」
『彼女は後でいい。多分、連れて行ってもべルディアにはそこまで揺さぶりにはならないから。あの男は、任務とあれば躊躇なく身内も殺せる人間よ』
昨日のことを思い返せば確かにそうだ。向こうは完全に尻に火が付いている。この状況で彼女を連れていくことはあまり意味がない。
「……分かった、行こう」
自分の中にこれまでになかった活力というか何かがあるのを感じた。これが魔力というヤツか。そして、それをどう使えば空を飛べるのか、俺はノアを通じて知識として知っている。
大地を蹴ると急激に身体が浮くのを感じた。周囲の好奇と驚きの目が、一気に遠ざかっていく。
ノアはまだ上昇を続けている。ふと地面を見たら目がくらみそうなほどの高度だ。間違いなくこれは100mや200mではない。このクソ暑い猛暑なのに、肌は微かに寒さを感じていた。
『このぐらいなら多分地上からは発見されないわ。方角はどっち?』
俺は周囲を見渡す。スカイツリーや東京タワーが微かに見えた。後方にはランドマークタワーがある。
この分だと、秩父は北西だ。スマホの電波も入る。GPSを使いながら飛べば、そう道には迷わないはずだ。
「あっちだ」
指で方角を示すと、物凄い勢いでノアは空を飛んだ。俺もついて行くが、このスピードは……
「おいノア、飛ばし過ぎじゃないのか??」
『大丈夫。このぐらいなら魔力欠乏症にはならないから』
「どういうことだ?」
『『魔紋』で番相手が確定することで、魔力は大幅に増幅されるの。それと引き換えの生命の制約ってわけ』
リスクに見合ったリターンはあるということか。時速は推定で100km/hは余裕で越えている。先行するペルジュードの連中に追いつけるだろうか。
*
そして今、俺はこうして立っている。目の前にいる化け物は「死病」患者かと思ったが、昨日のあいつのように正気を失っているわけじゃない。どういうことだ。
ノアが対峙しているべルディアの様子もおかしい。20歳ぐらい一気に老け込んだように見える。まだ戦える状況にはあるようだが、向こうに倒れている高松が何かしたのだろうか。
触手のようなものが俺に向かって振り下ろされる。俺は肉体強化魔法を使ってそれを避けると、一気に階段を駆け上がった。
ボロボロになっているアムルに「避けろっ」と告げると、俺は知っている中で最も簡単な魔法である「魔力の矢」を再び化け物の胴体に放つ。的が大きいのもあって、それは奴の脇腹に命中した。
『ぐっ……小癪なあっっ!!!』
今度は腕を振り回してきた。直撃したら流石にまずい。だが、今の俺には対抗する手段がある。
肉体強化魔法で瞬発力も格段に上がっている。それで懐に入り込むと、俺は魔力の塊を掌底の要領で鳩尾へと叩き込んだ。
『が……あっ……!!!?』
奴はその衝撃で階段を転げ落ちた。轟音がホールへと響く。
『べギルっっ!!!』
ノアの相手をしているべルディアが叫ぶ。ノアは徹底して距離を取る戦術を取っているようだった。俺の物よりさらに太い魔力の矢をべルディアに向けて放つと、奴は右手一本でそれを弾く。
『あなた……本調子とは程遠いようね。来なさいよ』
ノアが挑発しても、べルディアは乗ってこない。チラチラと胸元を見ているように思えた。何かまだ策があるのか?
奴は意を決したようにべギルと呼ばれた大男の方を向いた。
『べギル、撤収だっっ!!!』
『ぐうっ……』
大男も胸元の辺りを見た。そこには首飾りのようなものがある。まさか、あれを使ってどこかに逃げるつもりなのか??
『トモッ!!!』
「分かってるっ」
俺が与えたダメージはかなり深いもののはずだ。俺に戦闘の経験は全くと言っていいほどないが、ノアの知識からそのことを察した。彼女はああ見えて少なくない戦場を渡り歩いているのだ。
だから、今距離を詰めてあの首飾りを奪取するか破壊するかすれば、こいつは逃げられなくなる。そう踏んだのだ。
……だが、その時あまりに予想外のことが起きた。
『ギ……ギィッ……ギギギギギ』
奇声と共に大男の身体が膨れ上がる。そして、人間の要素をまだ残していたその顔は昆虫とも蛸とも言えぬ異形へと変わった。
……まさかっ!!?
『ギギィィィォォォォッッッ!!!!!!』
「死病」の第二段階によって顕現した怪物の咆哮が、辺り一帯に響いた。




