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「失礼します」
ボクは深々と一礼をして部屋に入る。独特の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
部屋の主の返事はない。もはや、言葉を発することができないほどに弱っているからだ。彼女が生き永らえているのは、ボクら一族の存在があるからに他ならない。
彼女は目を閉じ、ベッドに静かに横たわっていた。寝ている時もあるが、今は違う。「食事」をする時だけ、彼女は目を覚ます。そして「食糧」であるボクら一族を呼びつけるのだ。
ベッドのそばに近づくと、彼女が薄く目を開けた。『早く』と脳内に直接声が響く。
ボクは手に持っていたナイフで、右の人差し指を軽く切った。痛みと共に鮮血が滲みだす。そしてそれを、彼女の唇へと近付けた。
ペロリ
その瞬間、激しい脱力感と快感がボクの中を走り抜けた。局部が一気に固くなる。
本来であれば、血よりも精液の方が魔力を吸収しやすいと聞いていた。だから、本来ならここで咥えてもらうなり彼女の中に出すなりするのが正しいのだろう。だが、彼女がそのようにするにはあまりに衰弱しすぎていた。ボクの父と「シた」のが最後であるらしい。
何せ、自称200歳を超える「怪物」だ。見た目こそまだ妙齢の女性だが、流石に年々衰えていっている。ボクがこうやって魔力を供給しなければ、すぐにでも死んでしまうだろう。
それでもボクたち――柳田家が彼女——メリア・スプリンガルドを生かし続けているのには理由がある。
明治期以来、日本の繁栄を支え続けてきたのが彼女だからだ。
勿論戦争なり災害なり色々浮き沈みはあった。それでも、肝心な時には彼女が常に動いたと聞いている。悲劇の全てを止められたわけではないが、彼女がいなければ起きていたであろう大惨事は幾つもあるらしい。
そして、「護国の魔女」として彼女は君臨し続けてきた。その存在を知っているのは、国の頂点に立つことが約束された極々僅かな人間と、ボクたち柳田家だけだ。
メリアが目を薄く開く。『美味であったぞ』という思念が流れ込むと共に、彼女は微笑んだ。
「ありがとう、ございます」
『うむ』と彼女が小さく頷く。魔力を供給してしばらくの彼女は饒舌だ。少しだけだが、全盛期に近い魔力を行使することもできるらしい。
『お主の魔力は歴代でも屈指の濃さじゃ。若いというのもあるのじゃろうが、妾との相性は頗る良い。早めに代替わりして正解じゃったわ』
「そう言って頂き、光栄です」
正直、この勤めはかなりの負担だ。「食事」のたびに、マラソンで10kmを走った後以上の疲労感に襲われる。これを毎日というのは、流石に身体がもたない。
実際、柳田家は短命の血筋だ。父も40半ばにして亡くなった。その理由が彼女にあるのは、誰の目から見ても明らかだった。あるいは、意図的に父は彼女に「殺された」のかもしれない。
それでも、ボクは当主として彼女の「食糧」であり続けねばならない。それが国から求められた、柳田家の使命であるからだ。そして、その報酬としてボクらは巨額の富を与えられてもいた。
メリアの顔から笑みが消えた。鋭い視線でボクを見る。
『して、この世界に紛れ込んだのは何者ぞ。イルシアなる国が現れたのは聞いておるが』
ボクはさっきの大河内尊代議士からの連絡を思い返す。状況は、かなり厄介な方向に進み始めていた。
「イルシアを追って、対立する国家から追っ手が送られてきたと聞いています」
『ふむ……確か、メジアの話よの。イルシアなる国には、余程重要な誰かがいるとみえる。
そうなると……妾の悲願も成るやもしれんな』
「悲願?」
『そなたらには関係のないことじゃ。それに、この身体では満足に動けぬ。誰かの力を借りぬことにはの』
「誰か、ですか」
『うむ。妾は不老不死じゃが、衰えはしておる。この魔素の薄い世界では、生きることそのものが厳しいのじゃ。ここに来て150余年、何とか誤魔化しやってきたがそれも難しくなりつつある』
メリアが歪んだ笑みを浮かべた。
『それこそ、お主の全ての命を妾にくれれば話は別じゃがの』
ボクは思わず一歩後ずさった。彼女ならできなくはない。恐怖が一気に全身を駆け巡った。
メリアが『ククク』と嗤った。
『冗談じゃよ。何せ、お主はまだ17の童じゃ。それに、そうしたところで妾が動けるようになるとも限らぬ。もっと大量の魔力を持つ人間が必要じゃ。……まあ、そんな者がいるとは到底思えんがの』
「追っ手の件は」
『様子見じゃな。もし世間に露見するようなことがあれば、妾が動かざるを得なくなるかもしれんが』
ボクの背筋に冷たいものが走った。実際に魔法を使う際には、大量の「食糧」の供給が必要だ。それは即ち、大量の血が必要ということでもある。
父は医師の立会いの下、大量の血液を彼女に輸血していた。頻度は決して多くはなかったが、その後の父は数日間立ち上がれないほど衰弱していたのをよく覚えている。今度は、ボクがあの立場になるのか。
メリアが僕の目を見た。
『もし政府の者が誰か来たら、くれぐれも大事にはしてくれるなと伝えておけ。イルシアの方は、まだ世間には知られていないということじゃな?』
「え、ええ。誰か協力者がいて、綿貫という若手代議士と組んで動いているようです。その者が、捜査にも協力するらしいとさっき連絡が」
『うむ、分かった。我が悲願のためにも、穏当に話が進むことを願うぞ』
そう言うと、彼女は再び目を閉じた。「念話」を使うだけでも相当に消耗するらしい。
それにしても、悲願とは何なのだろうか。そして、それが見えてきた時、ボクはどうなってしまうのだろうか。
大量の魔力を持った人間など、そうそういるわけもない。柳田家は遺伝から相当多くの「魔力」を持って生まれてくるらしいけど。そういう人間がもし見つかれば、代わりに差し出すことができるのだろうか。
ボクは部屋を出て溜め息をついた。そんな人間が、都合よくいるはずもない。
ボクにできるのは、その日が来ないことを祈ることだけだ。
*
そういう人間がいると知るのは、それからすぐのことだった。
まさか、クラスメートの市川朝人がその人物だったとは。
第2話 完




