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ド田舎無職の俺の近所に異世界の国が引っ越してきた件  作者: 藤原湖南
第15章 中華人民共和国日本大使館第一書記官 王成明
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15-5


「こちらです」


巡査に案内され、僕は白い殺風景な廊下を歩く。留置所というともっと小汚い場所なのかと思っていたが、女性容疑者が主に収監されるこの「菊屋橋分室」はその性質上かなり清潔に保たれているようだった。

接見室に入る前に身体検査を受ける。「一応規則ですので」と前置きされたが、どうにも落ち着かない。


数分待つと、長い髪の女性が現れた。両脇には制服の警察官2人がいる。見るからに彼女を警戒しているのが分かった。

それとほぼ同時に、僕の方の部屋に初老の男性が入って来た。こちらは確か、昨日東京ドームに入る前に会ったことがある。岩倉さん、という方だったか。


『何の用なの』


戸惑いと敵愾心が入り混じった表情で、彼女が訊いてきた。言葉は明らかに日本語でも英語でもないけど、何故か意味は分かる。


僕の横に座った岩倉さんが静かに切り出した。


「司法取引だよ」


『取引?』


「ああ。昨日の東京ドームの一件は重大犯罪だ。君が主犯格でないのは分かっているが、まあこのままなら実刑判決は免れない。

それを一定の条件で無罪放免にしてやろう、というわけだ。悪くない話だろう」


『……無罪放免』


「繰り返すが、君は主犯格ではない。『脅されて手を貸した』と言えなくもない。実際、その側面が大きいだろうからね。エオラ・フェルティアさん」


少しだけ女性——エオラが驚いたように『どうして私の名を』と呟く。岩倉さんは「フフフ」と笑った。


「イルシアから情報はもらっているからね。君がペルジュードなる部隊の一員であることも、勿論そこに含まれる。

そして、君は東京ドームではほとんど何の役割も果たしていない。ここにいる、猪狩瞬選手の言うことを信じるのであれば、むしろ足手まといですらあった」


エオラは絶句している。


そう、僕らはエオラ・フェルティアを交渉で「落とす」ために浅草に来ていた。

来るべき衝突のためにだ。




昨日、僕は所沢から東京へと戻された。僕が一義的にはイルシア関係者ではなく、ただの協力者であったというのが大きかった。

有事においては対魔法戦ができる貴重な戦力ではあるけれど、無理強いはさせられない。そういう判断が政府の方にはあったらしい。


とはいえ自宅に戻るのも違う気がした。何かあった時のために東京にいた方がいいのではないかと思い、自腹で赤坂のホテルに泊まることにしたのだった。

会長からは随分心配されたが、しかし僕の意思は尊重するとも告げられた。曰く「やっとお前が自分の意思で動いてくれて、俺は嬉しいんだよ」とのことだ。

確かに、明白な理由をもって試合に臨んだことはここ数年記憶になかった。それしかできないし、それが自分の仕事だからやっていた。それ以上でもそれ以下でもなかった。


今は違う。自分は誰かのために拳を振るっている。


兄さんの気持ちが少し分かった気がした。あの人は、この実感を得るために傭兵になり、異世界でも特殊部隊に入ったのだろう。

そう思うと、気分が高揚した。震災以来、人間らしい感情を僕はどこかで失っていた。それが少しずつ戻っているような気がする。


そして、今朝。僕の元に連絡が来た。大河内という議員からであるらしい。


「もしもし」


「大河内と言います。お話しできて光栄です。イルシア関連の一件では、私と岩倉警視正で音頭を取ってます」


イルシア関連の人なのか。心拍数が高まる。


「何かあったんですか」


「可能であれば、政府にご協力いただきたく。無論、嫌ならば結構です。貴方には断る権利もある」


僕は昨日の東京ドームでのことを思い出していた。確か、あの怪物は逃げたままのはずだ。

あいつに対抗できるのはほとんどいない。だから僕にお鉢が回ってきたということか。


「阪上市長のことですか」


「話が早い。彼は逃走中です。ただ、大まかな居場所は分かっています。警察が確保に向けて動いていますが……」


「また怪物になった場合に、どうするかですか」


「そうです」と大河内さんは答える。声のトーンが少し低くなった。


「……ただ、イルシアからは人が出しにくい状況にあります。昨日貴方と一緒に動いた町田さんは、ある事情で今日はイルシアを離れられない。

イルシア本国の守りも手薄にできない状況です。手数が足りない」


「まさか、僕が全部担えとでも?」


「そんな無茶は言いません。むしろ、貴方よりも重要な人物がいる。彼女の説得に動いてほしいのです」


重要な人物?誰だろう。しかも「彼女」というけど、心当たりがない。


「どういうことですか」


「貴方が昨日対峙した女性、エオラ・フェルティアを対阪上に動員したい。彼女は、歌と踊りを見せた人間を操作できる魔法を使えるとのことです。

阪上は声を聞くだけで緩く人の行動を支配できます。つまり、奴がその気になれば死をも厭わない兵隊を多数作れてしまう。

それをキャンセルできるとすれば、彼女の魔法しかない。しかも、行動の支配力は彼女の方があると聞いています。彼女の協力が、阪上確保には必要というわけです」


「……それは分かりました。ただ、僕が何故説得を?」


「貴方がムルディオス・べルディア―—いや、猪狩一輝の弟だからですよ。

不思議に思いませんでしたか?彼女が昨日、東京ドームでほとんど何もしてこなかったのを」


確かにそうだ。彼女があの角の男と一緒に攻撃してきたなら、僕は今こうして無傷でいられたか分からない。

何故か彼女は僕に攻撃するのを躊躇っていたように思えた。どういうことだろう。


「……確かに」


「彼女は猪狩一輝の部下でした。強い信頼関係があっただけではなく、恋慕の情があったとこちらと協力関係のあるペルジュードの構成員から聞いてます。

貴方に彼の面影を見たから、彼女は昨日動かなかった。とすれば、彼女を『落とす』なら貴方が適任だと踏んだわけです」


「……理屈は分かりました。ただ、どうやって説得を?僕はただのボクサーに過ぎない、交渉人じゃないんです」


「あなたのお兄さんが生きていたらどうしていたか。それを伝えればいいのではないですか」


「……!!」


確かにそうかもしれない。それで彼女の心が動くかは分からないけど、やってみる価値はある。


「彼女は今どこに」


「浅草の菊屋橋分室という場所にいます。岩倉警視正も同席する予定です。

司法取引が成立次第、麻布に向かいます。作戦はその時に」



そして今、僕はエオラと対峙している。彼女の視線が、僕に向いた。


『……だから、あなたがここに来たというの』


「……僕には異世界のことはよく分かりません。あなたがどういう想いでここに来たのか、どうして昨日東京ドームでテロを起こそうとしたのか……それも分かりません。

ただ、あなたは進んで動こうとはしていなかった。それが真意じゃないから、違いますか」


エオラは絶句した。そして天井を見上げる。

彼女の目に、薄っすらと涙が溜まっていくのが分かった。


『……仕方ないじゃない……それしか、生き延びる方法がないのだから』


「……それはどういう」


エオラの視線が、岩倉さんに移った。


『あなた、取引って言ったわよね。条件は』


「これからしばらく、私たちの指揮下に入ってもらう。そして、阪上龍一郎捕縛に協力してもらうことが条件だ。

勿論、そこから当面の間身柄はこちらが預かる。無罪放免と言ったが、行動の自由はしばらくは制限されたままだ。少なくとも、『大魔卿』の一件が片付くまでは」


『……あいつを裏切れ、ということ?』


「平たく言えばそういうことだ。勿論、私たちが君を守る。

正直、裏切って君が生きていられる保証なんてどこにもない。それでも、できることはしよう。君が追加で出す条件にも、極力応じる」


エオラは涙を拭い、しばらく考えている様子だった。そして、何かを決心したように僕を見た。


『数分だけ、あなたと話をさせて』


「話?」


『ええ。そして、私が納得したなら取引に応じる。これが前提条件』


「前提……他にも条件が」


彼女は小さく頷いた。その次に出てきた言葉は、僕の予想外のものだった。



『あなたと2人きりで、1時間だけいさせて。その結果次第で、私は全面的に協力する』




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