スリル、ショック、サスペンス編⑦
『ねえ『クローン』って何なの?』
日仏自動車に勤め始めた天野は朝のニュースをテレビで見ながら、純に離乳食をスプーンで食べさせようとしている春枝に話しかけた。
ニュースでは『ロシアでクローン牛が生まれた』というニュースが流れていた。
乳離れするか否か、という娘と向き合っている春枝はそれどころではない。
純は中々、離乳食には口を付けない。
『乳のほうが良い』と。
しかし春枝は天野の言う事を邪険にはしない。
今までも邪険にした事はない。
『イヤイヤ』する娘に離乳食を食べさせようと格闘しながらも、天野の言う事にも誠実に答える。
「クローンて実は広義なのよ。
再生医療も『クローン』
一つの受精卵から双子を人工的に産み出すのも『クローン』
絶滅動物を剥製や化石から遺伝子を採取して現代に蘇らせよう、というのも『クローン』
この場合は『人工的に双子を産み出す事』をクローンと呼んでいるわね」と春枝。
『ふーん。
再生医療って言うのは?』と天野。
「聞いた事ない?
大火傷をおった人のお尻の皮の細胞を人工的に培養するのよ。
・・・で育てて大きくした皮膚を火傷部位に移植するって。
でも培養速度には限界があって、あんまり実用的な技術じゃないんだけどね」
『だから家族や他人から皮膚移植が行われるのか』
「多分そういう事ね。
医療は専門じゃないから詳しくはわからないんだけどね」
『・・・で、春枝ちゃんが研究していた『クローン技術』はその中でいったらどれ?』
春枝は普段なら絶対に天野には言わない、言いたくない事を娘に離乳食を食べさせる事に気を取られ過ぎていて思わず口走ってしまう。
「私の研究していた『クローン技術』は今話したどれでもないわね。
私が研究していた『クローン技術』を敢えて分かりやすく言うなら『死者蘇生』かしら?」
春枝は自分が口走ってしまった内容を思い返して『しまった!』と天野を方を振り返る。
しかし天野は出社前の日課である『今日の占い』を見る事に気を取られている。
春枝はホッと胸を撫で下ろし、日記にその事を暗号で書き込む。
―――――――――――――
~アウロラが解読した春枝の日記の内容の一部~
ここに懺悔を書き込む。
天野は偶然学食で会った、と思い込んでいる。
でも出会いは私が仕組んだモノだ。
天野は毎日、5号館入り口付近にあるカレー屋で『唐揚げカレー』を頼んで食べるのが日常だ。
しかし、それは私にとって都合が悪いのだ。
カレーを頼んだ天野は5号館を出て晴れている時は芝生の上でカレーを掻き込む。
その時間、おおよそ5秒。
『カレーは飲み物』というのを聞いた事があるがあながち冗談ではないらしい。
私が芝生の空いているところを探している間に天野はカレーを食べ終えてどこかへ行ってしまう。
お陰でここ二週間は天野に話しかけるチャンスを狙い続けて、カレーばかり食べた。
だが、結局は天野のいない芝生の上でカレーを15分以上かけて食べただけだった。
大体、辛いモノは苦手だ。
カレーは甘口でも辛く感じてしまう。
嫌いじゃない。
ただひたすら苦手なのだ。
何とかカレーを食べ進めようと慌てて飲み物に手を伸ばす。
しかし、それが罠なのだ。
飲み物を飲めば飲むほど舌の痺れは増す。
辛口が得意な人は、水分を取らないと言う。
そんなのは知った事か!
水がないとカレーなんて食べられる訳がないだろう!?
二週間失敗を繰り返して結論に達する。
『カレーは無理だ』と。
天野がカレーを食べるからいけないのだ。
天野に何とかカレーを食べさせない方法はないだろうか?
・・・カレー屋が開いているのがいけないんだ。
カレー屋が閉まっていたら天野は学食で食事をするしかなくなるんじゃ?
しかしどうやってカレー屋を休ませよう?
私はカレー屋のおばさんが頻繁にペットボトルのお茶を飲んでいるのに注目した。
そりゃ火を使ってるんだ。
水分補給は必要だろう。
私はおばさんがトイレに行っている隙を見計らい、お茶のペットボトルと下剤が仕込んであるお茶のペットボトルを入れ換えた。
下剤は遅効性だ。
今飲んだら今晩から明日の朝にかけて、強烈な便意に襲われるはずだ。
つまりおばさんは明日の朝、カレー屋を開店する準備が出来ない。
カレー屋は臨時休業になるはずだ。
そうなれば天野は学食に来るはずだ!
・・・どこかでパンやおにぎりを買ってテキトーに昼ご飯を済ませたらどうしよう?
いやいや、今までだって出来あいのモノで昼ご飯を済ませる事は可能だったのに『カレー』に拘ったんだ。
『温かいモノ』『カレー』のどちらかに拘りがあるはず!
そして、それを求めるなら学食に来るはず。
学食にだってカレーはあるからね。
ただ「肉が豚肉じゃなくてチキンなのが許せない」という人が多いらしいけど。
案の定、カレー屋のおばさんは5号館に現れなかった。
臨時休業だ。
私は2限を途中で抜け出して学食へ行く。
大学院の研究内容も、研究スケジュールも自分で決めるモノだ。
自分を律しなくては研究は進まない。
でも『二限はこれでおしまい!』と言うのも自分で決められる。
だからま研究を早々に打ち切って、学食が空いているうちに席を取るなんて事も容易だ。
勿論担当教授が自由に研究を打ち切る事を容認するなら、の話だ。
ただ理系の『実験の結果待ち』なんて、間で2~3時間の空き時間が出来る事はザラだったし、何より春枝の研究室の担当教授が春枝の事を怖れて何も言えなかった。
それだけ春枝の『奇人ぶり』『狂人ぶり』は知られていたし、更に尾ひれがついていた。
ありもしない『マッドサイエンティスト』としての噂を春枝は否定するのも面倒臭かった。
でもその噂のお陰で、春枝はその美貌をもってしても男子生徒達に全く声をかけられなかった。
だから春枝にとって『その噂』は研究に専念出来る都合の良いモノだった。
実際春枝は『マッド』だった。
春枝は研究に鼠を使う。
よくある『クローン研究』なら受精卵に遺伝子を埋め込む、もしくは一つの受精卵を2つに割る、そして人工的に双子を創る。
だから多くの場合『クローン牛』と言えば、大概見分けがつかないくらいそっくりな双子の牛を指す事が多い。
だが、春枝が行っていた『クローン技術』はまるで別物だった。
分裂する前の単細胞の受精卵を研究対象にするのではない。
一匹の成体の鼠の『核』になる部分に遺伝子を埋め込むのだ。
つまり、一匹の成体の鼠を『遺伝子の性質を持つ』鼠に変えるのだ。
こんなイカれた実験、滅多に成功はしない。
成功するのは70回に1回だ。
一回で500匹の鼠を注文し、一週間もしないで500匹の鼠を消費する。
尋常じゃない。
春枝は狂ってる。
周りの人間は春枝を『狂った天才』と呼んだ。
理論上は完璧のはずだ。
なのに成功確率は低い。
なぜ失敗するのか。
精密な作業を人力が担当しているからだ。
電子顕微鏡の精度が低いからだ。
精密なロボットは存在するのか?
精度の高い電子顕微鏡は存在するのか?
春枝は避けられている。
しかし春枝を神のように崇めている『頭のおかしい連中』もまた存在する。
春枝はそんな連中など相手にしないが、こういった時には利用しない手はない。
春枝を神のように崇めている男の中に、ハッカーがいた。
ハッカーは帝都大のデータベースに侵入し、帝都大の論文を漁る。
そして『精密なロボットの研究者、精密なカメラの研究者』として天野を見つけだした。
その後、ハッカーは何者かに『機密情報へのアクセス』を告発され、逮捕された。
ハッカーには余罪が沢山あった。
しばらくは塀の外には出れないだろう。
そんな話はともかく、春枝は天野をターゲットに絞ったのだ。
――――――――――――――――
~天野視点~
天野は5号館のカレー屋が何故か開いてなかったので、仕方なく学食に行く事にした。
独り暮らしを始めて五年『手作り』なんて贅沢は言わない。
でも『温かいモノ』に飢えている。
結局毎日カレーを食べていた。
だからパンもおにぎりも食べたくない。
『作りたて』のモノなら何でも良い。
私はカレーうどんを注文するために食券を買う。
カレーうどんを取りに行く前に座る席を確保しよう。
しかし学食って混んでるな。
どこも空いてないじゃんか。
・・・何か知らんけど、一つだけ空席がある。
訳がわからん。
不潔なヤツの隣とかならわかるよ?
有り得ないぐらい美人の隣じゃんか。
あの子どこかで見た事あるぞ。
ここ最近、5号館のカレー屋に並んでた女の子だ。
『女に興味ない世捨て人』と言われる私もこれだけ美人だったら、さすがに目に入る。
連日、カレー屋に並んでたって事はカレー好きなんかな?
まあ、どうでも良いや。
あそこに座ろう。
―――――――――――――
~春枝視点~
良かった、どうやら隣に座るみたいだ。
でも何か微妙な顔してる。
眉間にシワ寄せて何か気に入らないのかな?
もしかして"私の隣に座るのがイヤ"とか?
だとしたら心外だ。
私の性格を敬遠する人はいくらでもいるけど、私の見た目を敬遠した人なんて今までいなかったのに。
私は目的を忘れて天野に話し掛けた。
「何か気に入らない事でもあったんですか?」と。
『何でそう思うんですか』と天野。
「そういう顔をしています」と私。
『このカレーうどんの色です。
何で黄色いんですかね?
私は時々出てくる妙に鮮やかで黄色っぽいカレーが苦手です。
カレーって茶色っぽいのが普通じゃないですか。
何をどう手を加えると黄色っぽくなるんですかね?』と天野。
どうでも良い論理を展開する天野。
知るかいな。
でも天野と仲良くならなきゃいけない。
私は実験の高性能作業用ロボットと、高性能電子顕微鏡を手に入れないといけないのだ。
しかもそれは普通に手に入れようとしたら、億じゃきかない金が必要だろう。
だが天野と仲良くなり、協力を取り付ける事でタダ同然で手に入るだろう。
そもそもそういう道具なんて『値段があってないようなモノ』ばかりだ。
知らない話ではあるが、私は話に無理矢理加わる。
「黄色っぽいか、茶色っぽいか、って話ですが、排泄物って元は鮮やかな黄色らしいんですよ。
それに胆汁が混ざると茶色っぽくなる。
で、胆汁が多すぎると排泄物は黒くなるんだそうです」
自分から人に一生懸命話し掛けたのは実は生まれて初めてだ。
周りの人間が私の機嫌を損ねないように、必死で会話を振って来るのが当たり前だったのだ。
天野の表情を一言で表現するなら"無"だ。
怒っている訳でも笑っている訳でもない。
『不思議ですね。
一切の食欲が吹き飛びました。
そして、この先1ヶ月はカレーは食べたくありません。
それでは失礼します』天野は頭を下げると学食の席を後にした。
『食事の時に排泄物の話はしない。特にカレーを食べてる人の前では』という当たり前の事も知らなかった。
いや、知ろうとしていなかった。
人間には『使えるか、使えないか』の二種類しか存在しないと思っていた。
"世界は自分を中心に回っている"と考えていたのだと思う。
宣言通り、天野は5号館のカレー屋通いをやめて学食に通った。
学食に通ってくる天野に私はしつこく話し掛けた。
天野は兎に角、イヤそうな顔してる。していた。
今考えると当然だ。
カレーうどんを食べようとしている人の前で排泄物の話を始めるような女が何故かしつこく話し掛けてくればそんな顔にもなる。
私も意地だった。
『私にそんな態度を取るなんて!』という驕りがあったのかも知れない。
私の目的は『高性能ロボット』と『高性能電子顕微鏡』だった。
なのに、そんな大元の目的を忘れて私は天野に大恋愛をした。
私の懺悔は『不純な目的で天野に近付いた』という事と『カレーを食べている人の前で排泄物の話をした』という事だ。




