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桜子たち四人は、龍沢池の水が流れ落ちはじめていた参道の石段を、ゆっくりと下りていった。
そして、下りきったところで、悠斗はたじろいだ。想像していた以上の異界だったのだ。
一の鳥居はスクッと立っていたが、そのほかの建物はすべてなくなっていた。人影もまったくない。しかも、あたり一面が水におおわれている。京都盆地全体が、巨大な湖と化しているのだ。吉田山や、仁和寺近くの双ヶ丘といった孤立丘が、島のように浮かんでいる。
一の鳥居が立つ場所まで、湖水がおしよせていた。白鹿たちは、水をものともせず、鳥居をくぐり西方へ歩いていく。
水は鹿の蹄を隠すほどしかなく、水深は浅いようだと、悠斗は思った。だが、速仁と夕霧は、布地がたっぷりの指貫をはいている。ジーンズのパンツをはいてきた桜子も困るだろう。どうしようかと、悠斗は考えあぐねた。
速仁は、水におかまいなく、いまにも白鹿のあとを追っていきそうだ。
すると、白鹿たちが悠斗たちのところに引き返してきた。そして、前脚を折って、ひざまずいた。
「おれたちに、乗れって言っているのかな? おれ、鹿に乗るの、初めてだよ!」
速仁は、うれしそうにそう言うと、鹿に飛び乗った。
夕霧はヤレヤレという顔つきで、もっとも大きな鹿を選んで乗り、桜子と悠斗もふたりにつづいた。
澄みわたる青空の下、湖面のあちこちで、水が噴きあがっている。京都盆地にもともとあった池泉や井戸から、地下水が噴出しているのだ。
神使の白鹿たちは力強い。桜子たちをそれぞれ背中に乗せ、しだいに速度を増しながら、水の噴出地を避けつつ湖面を進んでいく。水深も増してきた。
しばらくして、鴨川の岸辺で白鹿たちは立ち止まった。川も水かさを増し、河岸と流路の境が見えなくなっているのだ。だが、夕霧を乗せて先頭を行く雄鹿が、わずかに水没している木橋を見つけた。そして、そこを渡りおえると、白鹿たちはいっそう速度を増し、大きな水しぶきを巻きあげながら、西南方向へ疾走した。
やがて堀川に達し、そこでも水面下の橋を渡りきると、桜子たちの目に、優美な築地塀が見えてきた。先頭の雄鹿が、その東門へまっすぐ進んでいく。
一行が門を通りぬけると、寝殿造りの建物が目のまえに広がっていた。悠斗は、水が床下まで押しよせているそのようすを、まるで、中学校の修学旅行で訪れた広島の厳島神社のようだと思った。
一行は、さらに中門をくぐり、藤の花が咲いている寝殿の南庭へ入った。花房が風に揺れ、その下方の水面が花の色を映し紫水晶のように輝いている。空気までもが、薄紫の光につつまれているようだった。
白鹿たちは、その柔らかな光を全身に浴び、なびくような水紋を作りだしながら、寝殿の中央までゆっくりと歩を進めた。そして、三分の一ほどの高さまで水に浸かっている五段の階のまえで膝を折り、桜子たちを降ろした。
四人は階で履物を脱ぎ、簀子縁にあがった。そして、吉田山の方へ去ってゆく白鹿たちを見送っていると、母屋の奥から大声がした。
『孫姫が新帖を求めてここまで来られるとは、思ってもおらなかった。しかも連れがおありのようだ。わたしの役目が、これで無事に果たせるとよいのだが……、アハハ』
桜子たちは一斉にふりむいた。陽射しが届かない室内に、背の高い男の影が、ほのかに見えた。
その人影が、大ぶりの草紙箱を左脇にかかえ、右腕はよこに広げながら簀子縁に近づいてくる。男の顔もはっきりと見えてきた。
とたんに、夕霧が相好を崩した。藤原一門のなかでは、夕霧がもっとも近しくつきあってきた人物だったのだ。亡母の実兄にして、妻の父でもある頭中将だった。
夕霧は、近づいてくる頭中将にふかく頭をたれたあと、桜子にソッと耳打ちした。
『ここは、伯父上の屋敷のようです。伯父上は、雲居雁との結婚を認めてくれる印として、庭の、あの藤の花を折ってわたしに贈ってくれました』
――翌日は雲居雁といっしょに朝寝坊したから、伯父さんは苦笑いしていたよな……。




