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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第8章 かぐや姫
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8-3

 桜子たち四人は、龍沢池の水が流れ落ちはじめていた参道の石段を、ゆっくりと下りていった。

 そして、下りきったところで、悠斗はたじろいだ。想像していた以上の異界だったのだ。

 一の鳥居はスクッと立っていたが、そのほかの建物はすべてなくなっていた。人影もまったくない。しかも、あたり一面が水におおわれている。京都盆地全体が、巨大な湖と化しているのだ。吉田山や、仁和寺近くの双ヶ丘といった孤立丘が、島のように浮かんでいる。


 一の鳥居が立つ場所まで、湖水がおしよせていた。白鹿たちは、水をものともせず、鳥居をくぐり西方へ歩いていく。

 水は鹿の(ひづめ)を隠すほどしかなく、水深は浅いようだと、悠斗は思った。だが、速仁と夕霧は、布地がたっぷりの指貫をはいている。ジーンズのパンツをはいてきた桜子も困るだろう。どうしようかと、悠斗は考えあぐねた。

 速仁は、水におかまいなく、いまにも白鹿のあとを追っていきそうだ。

 すると、白鹿たちが悠斗たちのところに引き返してきた。そして、前脚を折って、ひざまずいた。


「おれたちに、乗れって言っているのかな? おれ、鹿に乗るの、初めてだよ!」

 速仁は、うれしそうにそう言うと、鹿に飛び乗った。

 夕霧はヤレヤレという顔つきで、もっとも大きな鹿を選んで乗り、桜子と悠斗もふたりにつづいた。


 澄みわたる青空の下、湖面のあちこちで、水が噴きあがっている。京都盆地にもともとあった池泉(ちせん)や井戸から、地下水が噴出しているのだ。

 神使の白鹿たちは力強い。桜子たちをそれぞれ背中に乗せ、しだいに速度を増しながら、水の噴出地を避けつつ湖面を進んでいく。水深も増してきた。

 しばらくして、鴨川の岸辺で白鹿たちは立ち止まった。川も水かさを増し、河岸と流路の境が見えなくなっているのだ。だが、夕霧を乗せて先頭を行く雄鹿が、わずかに水没している木橋を見つけた。そして、そこを渡りおえると、白鹿たちはいっそう速度を増し、大きな水しぶきを巻きあげながら、西南方向へ疾走(しっそう)した。


 やがて堀川に達し、そこでも水面下の橋を渡りきると、桜子たちの目に、優美な築地塀(ついじべい)が見えてきた。先頭の雄鹿が、その東門へまっすぐ進んでいく。

 一行が門を通りぬけると、寝殿造りの建物が目のまえに広がっていた。悠斗は、水が床下まで押しよせているそのようすを、まるで、中学校の修学旅行で訪れた広島の厳島(いつくしま)神社のようだと思った。

 一行は、さらに中門をくぐり、藤の花が咲いている寝殿の南庭へ入った。花房が風に揺れ、その下方の水面が花の色を映し紫水晶のように輝いている。空気までもが、薄紫の光につつまれているようだった。

 白鹿たちは、その柔らかな光を全身に浴び、なびくような水紋を作りだしながら、寝殿の中央までゆっくりと歩を進めた。そして、三分の一ほどの高さまで水に浸かっている五段の(きざはし)のまえで膝を折り、桜子たちを降ろした。


 四人は階で履物を脱ぎ、簀子縁にあがった。そして、吉田山の方へ去ってゆく白鹿たちを見送っていると、母屋の奥から大声がした。

『孫姫が新帖を求めてここまで来られるとは、思ってもおらなかった。しかも連れがおありのようだ。わたしの役目が、これで無事に果たせるとよいのだが……、アハハ』

 桜子たちは一斉にふりむいた。陽射しが届かない室内に、背の高い男の影が、ほのかに見えた。

 その人影が、大ぶりの草紙箱を左脇にかかえ、右腕はよこに広げながら簀子縁に近づいてくる。男の顔もはっきりと見えてきた。

 とたんに、夕霧が相好(そうごう)を崩した。藤原一門のなかでは、夕霧がもっとも近しくつきあってきた人物だったのだ。亡母の実兄にして、妻の父でもある頭中将だった。

 夕霧は、近づいてくる頭中将にふかく頭をたれたあと、桜子にソッと耳打ちした。

『ここは、伯父上の屋敷のようです。伯父上は、雲居雁との結婚を認めてくれる印として、庭の、あの藤の花を折ってわたしに贈ってくれました』

 ――翌日は雲居雁といっしょに朝寝坊したから、伯父さんは苦笑いしていたよな……。

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