8-2
吉田神社へむかった桜子と悠斗は、参道の長い石段を上りきった本殿前広場で、速仁が時空を超えて現れるのを待っていた。
ふたりの後ろでは、物語世界から呼びだされたばかりの夕霧が、山中に開かれた境内を、もの珍しそうに見やっている。源氏の御曹司である夕霧は、藤原一門の氏神である春日神と縁が薄い。
だが、夕霧の亡母である葵の上は、藤原氏の出である。妻の雲居雁も、葵の上の兄である頭中将の三女だ。源氏物語は、光源氏や夕霧といった源氏の男たちの物語であると同時に、藤原氏の男や女が脇役として副旋律を奏でる物語なのだ。
四日まえのこと、夕霧は出町柳の河川敷で悠斗と、源氏物語と吉田神社とのかかわりを話しあっていた。紫式部が新帖の秘密を吉田神社の春日神に託していたとすれば、仁和寺と六道珍皇寺、そして今は檪谷七野神社となっている春日神の祠のときとおなじように、物語中の人物といっしょに参詣したのだろう。それは、藤原一門の重要人物にちがいない。でも、だれなのか。葵の上か、雲居雁か、それとも頭中将だろうか。朱雀帝の母である弘徽殿女御や、その妹で、光源氏の愛人である朧月夜だって藤原氏だ。
夕霧は、自分を産んですぐに亡くなった葵の上と吉田神社で対面することになれば、どうあいさつしたらよいだろうかと、四日まえも、そして今も、考えあぐねていた。
――この恰好で、冥界での父上のように、母上の膝に乗るというわけにはいきませんしね……。
夕霧は、身につけている直衣の袖を見やった。一八歳の晩春に頭中将の屋敷に招かれ、雲居雁との結婚を許されたときにまとっていた、薄い藍色の豪華な直衣だった。
――母上が今のこのわたしを見たら、どう思われるかな……。
「夕霧さん、どうしたんですか? ニヤニヤして……」
悠斗に問いかけられて、夕霧はわれにかえった。
『いや、なにも……』
と、顔をひきしめて夕霧が言葉を返したとき、三人の耳に、正午を告げる京都大学時計台の鐘の音が響いた。
すると、猛烈な風が参道の石段を吹きあがり、空から境内を覆うように伸びている老杉の枝を、はげしく震わした。大陰を禁断の地に押しやった突風だ。そして、風が桜子たち三人のあいだを吹きぬけると、速仁が桜子の目のまえに現れた。
「宮ちゃん、ありがとう。大風が吹いたから、宮ちゃんが来てくれると思った。今日は、約束どおりの時間に来られたのね」
さっそく話しかける桜子だったが、速仁は、うなずき返しただけで口を開かない。悠斗と夕霧にもかるく会釈したあと、すぐに、不安そうな顔であたりを見わたした。そして、特段に変わったようすがないことを確認すると、ようやく頬をゆるめ、桜子に声をかけた。
「ここが吉田神社なのか? おれ、ここへ参拝するの、はじめてだよ」
桜子は、
「わたしはよくお詣りした。本殿のようすや、あそこの池も、千年まえと変わらない」
と言いながら、本殿前広場の南端で緑色の水をたたえている小さな丸池を指さした。そして悠斗にむきなおり、言葉をついだ。
「龍沢池と、父上が呼んでおられました。水を司る龍神さまが棲まわれるようにと、春日大社がある奈良の猿沢池をまねて設けられたそうです。二年まえの春、この池で父上がおこなわれた雨乞いの儀式を見たことがあります。その年は、雨がしっかりと降って、豊作になったようです」
悠斗はおおきくうなずいた。
「やっぱり吉田神社は、平安京での、藤原氏の氏神なんだな。源氏物語の新帖の秘密が、きっと、ここに隠されてるよ」
悠斗にうながされ、桜子たちは、四体の春日神を祀る本殿へむかった。
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千年をさかのぼる同じ日、桜子たちが吉田神社の本殿へ足をむけたこのとき、藤原兼隆も、おおぜいの供を連れて、本殿へつづく石段を上ってきた。千年の時をへだてて、兼隆と桜子たちは、吉田神社の境内ですれちがったのである。
兼隆は本殿まえで頭をたれた。宿願がかなったのだ。速仁を次期東宮とすることが、昨日、ついに内定した。あとは、詔書の宣布を待つだけだ。
本殿で願ほどきをおえた兼隆は、龍沢池に小さな赤い玉をひとつ投げ入れた。玉は龍の好物だと言い伝えられている。
兼隆は、この池に棲むとされる青龍に、千年さきの世で桜子が源氏の新帖を見いださないよう助力してくれと祈願した。桜子はきっと、氏社である吉田神社に参詣するだろう。そのとき、青龍が姿を現し、新帖をこれ以上探すなと桜子に脅しをかけてくれることを、兼隆は願ったのだ。この世では芦屋道満に、さきの世では氏社の青龍に、兼隆は念には念を入れて、源氏の新帖の秘匿を託したのだ。
兼隆が投げ入れた赤玉は、池底へ沈み、藻が付着している小岩のような物体のわきに転がった。すると、そのヌルヌルしたものの中心から、白い光がカッと輝いた。はたしてそれは、蛇のようにとぐろを巻いて眠っていた青龍の左目だった。
まぶたを開けて妖しく目を輝かせた青龍は、左腕をスクッと伸ばし、鷹のような爪で、赤玉をつかんだ。そしてそれを、灰色の瞳でギロリとにらだあと、すぐにポイと投げ捨てた。池底には、さまざまな色をした大小の玉が大量に転がっている。兼隆が寄進した赤玉は、それらの宝玉に混ざると、かなり見劣りがしていた。
青龍は、牛のような耳をそばだてて兼隆の祈願を聞きながら、あらためて赤玉を見やった。そして、つまらなそうにあくびをしたあと、ふたたび目を閉じて眠りについた。
兼隆は、青龍に貢ぎ物をささげたあと、家臣をひとりだけ連れ、狭い石段をさらに上っていった。毎月一回の、秘密結社の集まりが、山頂近くの殿舎で開かれようとしている。速仁が東宮になることが内定したことを結社の仲間たちに伝えようと、兼隆は勇んでいた。
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兼隆が意気揚々と吉田山を大股で登っていたとき、桜子たち四人は、龍沢池のほとりで立ちつくしていた。桜子たちが本殿まえで拝礼し、速仁と夕霧がいっしょに落蹲を舞って奉納しても、境内のようすは変化しなかったのだ。四人は、がっかりした顔でおたがいを見あった。
とりわけ悠斗は、悔しかった。自分の頭を右手で小突きながら、夕霧にあやまった。
「おれの見当ちがいだったです。せっかくの舞だったのに……、すみません。――エッ!?、みんな、どうしたんだ?」
悠斗は、わけがわからなかった。桜子は悠斗の頭上を見あげながら両手で口を覆い、速仁は目を見ひらきおびえている。夕霧にいたっては、あとずさりして逃げ腰だ。
「ゆ、ゆ、悠にいちゃん……」
と、速仁が悠斗の頭上を、声をふるわせながら指さした。
悠斗は、悪い予感をおぼえつつ、うしろをふりむいた。
龍沢池の水面から、青龍が頭を高く突きだし、桜子をギロッとにらんでいた。
「ワァァァ!」
悠斗は、おもわず大声をあげた。身がすくむ思いだった。だが、勇気をしぼりだして青龍に面とむかい、桜子をかばうように両手をひろげた。速仁も、東宮から授かった懐剣を取りだし、その刃を龍にむけた。
青龍は、
『グワァァ』と、
口をおおきく開けてうなり声を発し、ますます恐ろしげな顔で桜子をにらみつけた。
だが、
「きゃぁぁ、かわいいぃぃ!」
桜子は、仁和寺の増長天や冥界の獄卒鬼王にむかって叫んだと同じような歓声を、悠斗の背中越しにあげた。
――エッ、またかよ!?
と、悠斗と速仁は顔を見あわせた。
うれしそうな桜子の声に驚いたのは、悠斗と速仁だけではなかった。青龍の目にも、当惑の色が浮かんだ。
と、そのとき、あたりの風景が一変した。社務所や拝殿、回廊がこなごなに崩れさり、桜子たちのまわりの建物といえば、檜皮葺の屋根を優美に広げる本殿だけが残された。そして、龍沢池から水がザーッと激しく噴きあがり、あふれた水にぬれて、境内の敷石が黒く輝きはじめた。
「やったぁぁ! おれたち、異界に入ったんだ」
悠斗が叫ぶと同時に、全身まっ白な大鹿が一頭、山頂からかけ下りてきた。
白鹿は、青龍にむかって前脚で打ちかかり、さらに角を振りまわした。青龍は、おざなりに、もういちど桜子をにらみつけたあと、あくびをしながら水中に姿を隠した。
水を噴きあげつづける龍沢池のほとりで、筋骨たくましいい白鹿がスクッと首をもたげ、桜子たち四人を悠然と見わたしている。白くて豊かなたてがみが、微風に揺れていた。
桜子が、
「使わしめさま、ですか?」と、
おそるおそる口を開いた。たしかに、春日神の神使は鹿なのだ。
白鹿は、桜子の言葉に答えるかのように、首をゆっくりと縦に振った。そして、
『キュウゥゥン』と、
口を空にむけて、するどくひと鳴きした。
たちまち、おなじような雄鹿二頭と雌鹿一頭が、木々のあいだから姿を現した。
四頭の白鹿たちは、桜子たち四人のそれぞれの体を、ツンツンと鼻でつついた。そして、最初に現れた雄鹿を先頭にして、一の鳥居へつづく石段のほうへ、ゆっくりと歩いて行く。
「ついておいで、ってことかな?」
速仁がそうつぶやくと、桜子も悠斗もうなずいた。速仁は、白鹿たちのあとを、いさんで追おうとした。
だが、
「待って! そのまえに、龍神さまにお願いをしてくる」
と、桜子が速仁に声をかけた。
「えぇぇ!? どうしてだよ! なんで、あんなおっかない龍に、願いごとなんかするんだよ! ほんと、桜ちゃんの気がしれない」
速仁は、ぶつぶつと文句を言った。
「だって、かわいいじゃない」
と、まじめな顔で返答する桜子に、速仁は、肩をすくめた。
「はい、はい、そうですか」
「それにね、龍神さまがわたしの目をみつめられたとき、源氏の新帖を探してはならない、という声が耳のおくで聞こえたの。きっと、龍神さまの声だと思う。だから、新帖をわたしが探している理由を、ご説明しておきたいの」
桜子はそう言うと、スタスタと池へむかった。
水がまだ噴きでている。悠斗は、恐ろしい龍がまた現れるのではないかと警戒し、桜子につきそった。夕霧は、最初に現れたもっとも大きな白鹿にピッタリと身をよせ、池に近づこうとさえしない。速仁は、ヤレヤレという顔をしながらも、懐剣をしっかり握りしめて桜子のあとにつづいた。
桜子は龍沢池の水際で、バッグから、真珠とガラス玉の玉鬘を取りだした。五歳のときに式部から贈られ、髪が長くなるようにと願って、石山寺への参詣のおりにも身につけていた髪飾りだ
ポチャン
桜子の手から投げ入れられた玉鬘は、水底に沈んでいく。
ポチャン
また水音がした。悠斗が百円玉を投げ入れたのだ。
源氏の物語を、ますます多くの人に親しんでもらいたい。そのためには、祖母の紫式部が書いたすべての帖を世に知らしめたい。
――だから、新帖を探すことを、どうかお許しください。
桜子は、龍神にそう祈願しおえると、目を開けて悠斗と速仁を見た。ふたりは、まだ目を閉じて熱心に祈っている。
――うふっ、ありがとう。
「それでは、行きましょうか」
桜子から、はずんだ声で呼びかけられ、悠斗と速仁は目を開けた。すると、
ポーン
水中から、桜子にむかって赤い玉が飛びでてきた。
悠斗が素早く右腕を伸ばし、それを空中で受けとめた。
ポーン
まをおかず、また水中から、小さな金属片が飛びでてきた。
こんどは速仁が、左手でそれを受けとめた。百円玉だった。
「龍の好物は、宝玉なんだぞ。悠にいちゃんは、それを知らなかったのか……」
と言いながら、速仁は百円玉を悠斗に渡した。
「そうか、勉強になった。――でも、だったら、これを投げてよこしたのはどうしてだ?」
悠斗は、手のひらに赤玉をのせ、速仁の目のまえに差しだした。
「色が派手で、気にいっていなかったのじゃない?」
「ふーん、そうか。あの龍は、けっこう神経質なんだな。そういえば、怒ったり、驚いたり、あくびをしたり、表情がクルクル変わったよな。変なヤツ、アハハ」
悠斗と速仁は、くったくなく笑いあっていた。だが桜子は、頭のなかがまっ白になっていた。
「その玉は、悠斗さんが預かってください」
桜子は、ふたりに内心の動揺をさとられないように、ようやくのことで小さな声をしぼりだした。
「ああ、わかった。それじゃ、鹿たちのあとをついていこう」
と、悠斗は快活に答えた。だが桜子の耳には、その声がまったくとどかなかった。
――父上が自慢しておられた宝玉が、なぜ、龍沢池にあったのだろう。なぜ龍神さまは、それをわたしによこされたのだろう。それに、源氏の新帖を探すなと、なぜ龍神さまは仰ったの? もしかして……。




