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高田が情けない顔でビジネススーツの汚れをぬぐっているとき、千年さかのぼった世界では、速仁が賢子邸の曹司で、惟清を供にして持仏の観音像とむかいあっていた。幼い観音が、不満顔の速仁に、予定よりも早く呼びもどした理由を、噛んでふくめるように言いきかせているのだった。というのも、――
日没まえのこと、速仁の不在が露見しないように惟清がひとりきりで詰めていた曹司に、石山観音が二体、こっそり現れた。幼い観音の、母と父だ。末っ子が持仏の務めをしっかり果たしているのか、心配のあまり、ようすを見にきたのだった。親観音は口をそろえ、千年先の世界で天変地異を起こさないように気をつけなさいと、あらためて注意をうながした。速仁がむこうの世界に長時間とどまると、時空の歪みが大きくなるのだ。
『人びとの暮らしむきに心を砕くようにと、つねづね東宮さまも仰っているでしょ。この御代だけでなく、このさき代々の人びとの暮らしにも、一の宮くんは責任があるのだよ』
「………」
無言で口をとがらせている速仁に、子観音は、ため息を交えながら言葉をつづけた。
『このところ一の宮くんはよく勉強しているから、願いをかなえてあげたいよ。でもね、天変地異が心配だろ。だから一の宮くんには、父上と母上が石山寺へ発たれたあとすぐに、念のために予定よりはやくもどってきてもらったのだ。なにか変わったことはなかった?』
観音の問いかけに、速仁はすぐに返答せず、顔を床にむけた。
そしてようやく、
「だいじょうぶです。むこうの世界では、だれもがみな、楽しそうに暮らしています」
と、うつむいたままでボソボソと答えた。だが、また口をつぐんだ。
『川が氾らんしたり、大風が吹いて建物が壊れたりしなかった?』
「………」
『どうだったの?』
速仁は、うなだれたまま、口を閉ざしつづけた。突風や地震があったと、今日の昼間、桜子から聞いたばかりだ。速仁自身も、快晴から大雨への天候の急変を、いましがた身をもって経験した。だが、事実を明かすと、桜子がいまいる世界に、もう送ってもらえないかもしれない。
――そんなことになったら、おれ……。
速仁は、ためらいがちに、ふたたび口を開いた。
「おれがむこうの世界に現れるとき、直前に、風や地震がおこるらしいです。でも、羅城門を倒したような大風ではないです。地震も、清水寺の舞台を壊すようなものではなかった。それに、むこうにいるあいだ、きゅうに天気がおおきく変わるなんてこと、まったくなかったです。小雨は降ってきたけれど、鴨川が氾らんするほどではなかったです」
うつむいたままで言いおえると、速仁は顔を上げ、すがるような目つきで観音の顔を見た。
観音は押し黙り、心根を見すかすような半眼で、速仁の瞳をみつめかえした。
「わたしからも、お願いもうしあげます」
惟清が、速仁のうしろから観音に懇願した。
「源氏の新帖が見つかるまで、若宮がなんどか時空を超えることをお許しください。そして、新帖が見つかったあとは、せめて一年に一度、若宮をむこうの世界へ通わせてさしあげてくださいませ」
惟清は、平伏しながらそう言うと、顔を上げ、速仁の背中にむかって言葉をつづけた。
「若宮も、それでよろしいですね。彦星と織姫ですよ」
速仁は、ふり返らず、ちいさくうなずいた。そして、右手の甲で両目をぬぐったあと、両の手を、膝のうえに置いてつよく握りしめた。
するとほどなく、観音像が、光り輝く左手を速仁に差しだした。
『これを受けとりなさい。父上と母上から、さきほどいただいたものです』
観音の手のひらに、黄水晶の小さな宝珠がのっている。
『これを持つ者は、自分の意志で、一度だけ、時空を超えることができるそうです。ぼくは、千年先の世でどのような天変地異がおこるのか、この目で見ることはできない。それを見るのは、一の宮くんだ。君の目でそれをしっかりと見て、判断しなさい。その世界の人びとが、時空の歪みによって苦しむことがないのかどうか。それを見きわめなさい。そして、人びとを天変地異から救わなければならないと思えば、この宝珠をたたき壊しなさい。そうすれば、一の宮くんはこちらの世界にもどり、時空の歪みが収まる。ただし、これを使った人間は、もう二度と時空を超えることができないよ』
速仁は、両手に包むようにして宝珠を受けとった。
「ありがとうございます。おれ、人びとが困らないように、父上と観音さまの言いつけを守ります。――でも、きっと、宝珠を使わなくてもだいじょうぶです。ほんとうに、そんなたいした雨じゃなかったから。それに、雨も降らなければ、作物がよく育たないでしょ。そういうこと、おれ、勉強してわかるようになったから、エヘッ」
速仁は、桜子にまた会うことを観音に許してもらい、心が軽くなった。深刻な天変地異は、きっと起こらないよ。速仁には、そうとしか思えなかった。
――だって、桜ちゃんと見た鴨川の水は、あんなにおだやかに流れていたもの。どれだけの大雨が降っても、洪水なんかにならないよ。
速仁が目をこらして宝珠のなかをのぞき見ると、細長い金色の光が、ゆっくりと浮遊していた。とうとうたる大河のなかを泳ぐ龍のようだ、と速仁は思った。




