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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第7章 薫香
88/160

7-18

 スズメ姿の大陰は、雲林院のむかいにある建物の屋根で、桜子を待ちつづけていた。


 雲林院の山門まえで桜子たちの姿がとつぜん消えたとき、大陰は期待に心がおどった。異界への扉を、桜子は開いたにちがいない。そこには、源氏の新帖につながる第三の品があるはずだ。

 だが大陰は、不安に襲われもした。自身は異界へ導かれなかったのだ。大陰は、桜子が新帖を得ることを願っていても新帖を探し求めているわけではない。だから、異界へ入れなかったことはしかたなかった。問題は、芦屋道満の存在だ。万が一にも、力を増した道満の呪術が異界へ及びでもしたらどうしよう。大陰にとって、そこは手出しのできない世界なのだ。

 大陰は、道満が現れはしないかと警戒しながら、ジリジリとして桜子の帰りを待った。

 ――悠斗と速仁では、頼りないからのう。ましてや形代では、お話にならない。


 三時間ほど待ち、ようやく桜子たちが、ふたたび雲林院のまえに姿をみせた。

『チュン、チュン』

「わぁぁ、シロちゃんだ! 迷子になっていなくて、よかった!」

 桜子が、左肩に飛び乗ってきた白スズメに、歓声をあげた。

 悠斗は感心した顔で、そして夕霧はもの珍しそうに、それぞれ白スズメに目をやった。速仁は、また鳥のまねをして、両腕をばたつかせた。

 白スズメは、赤みがました目で速仁をにらみつけた。だが、速仁の童直衣の衿から榊の小枝が先端をのぞかせているのに気づき、掻こうとして上げた右脚をピタッと止めた。

 ――第三の品が手に入ったようじゃな。一の宮が預かっているということは、このおバカでも手助けになったということか……。珍しいことも、あるものじゃ。

「ね、シロちゃん。いっしょに鞍馬に帰りましょうね」

 桜子の呼びかけに、白スズメは、

『チュン』

と、かわいげにさえずった。


 桜子たち一行は、バスで出町柳へもどることにした。悠斗は四条河原町で速仁の服を買いもとめようとしたが、速仁が断ったのだ。着替えたままで千年まえにもどることになったら、部屋で帰りを待っているはずの賢子に、裸を見られてしまう。それは恥ずかしすぎると、速仁は、こっそり悠斗だけに打ち明けた。これまで二度、裸でもどってしまったと速仁から聞いた悠斗は、おもわず吹きだした。

 バスに乗るとすぐに、白スズメが、桜子のバッグのなかでクークーと寝息をもらしはじめた。大陰は疲れきっていたのだ。道満が現れなかったことで、気がゆるみもしていた。桜子と悠斗、速仁の三人は、寝息をたてる鳥がめずらしく、目くばせして笑いあった。

 そして出町柳に着くと、悠斗は、鞍馬行きの電車に乗るまえに、出町デルタを見わたすカフェへ、みなをさそった。二週間まえ、鴨川の流れにたたづむシラサギ姿の大陰に、高田が手をふったカフェだ。悠斗は、朝顔の姫君から教わった春日神の(やしろ)について、それがどこなのか、夕霧と膝をまじえて相談するつもりだった。


 『朝顔の姫君が仰っていた神社は、大原野(おおはらの)神社ではないでしょうか? 春日神を祀る藤原一門の氏社ですし、物語のなかで、冷泉帝さまが大原野で鷹狩りを楽しまれ、わたしもお供をいたしました。〈行幸(みゆき)〉帖のお話です』

 夕霧はそう言うと、悠斗が注文したコーヒーをおそるおそる一口すすった。そして、その苦味と酸味に顔をしかめながら、自分の浅葱色の袖をヒラヒラさせて言葉をついだ。

『そのときのわたしは、このような低い官位ではなく、中将という立派な官職に就いていたのですよ。それになんと言っても、父上は物忌みのせいでお供をなされず、六条院で留守番でした。ですから大原野神社では、父上を呼びださず、わたしだけが、孫姫と大学の君のお手伝いをいたしましょう。それがいいです。ぜひそうしましょう!』

 はずんだ声で提案する夕霧に、悠斗も相づちを打った。

『それにしても、この、こうひい、とかいう飲み物は、とても奇妙な味ですね。そのうえ異様に黒くて、……これは薬湯(やくとう)ですか?』

「アハハ、これ、どちらかというと、おとなの飲み物なんです。いまの夕霧さんは体が十三歳だから、苦すぎるのですね。砂糖とミルクをたくさん入れると、苦味がおさえられますよ」

 悠斗がそう返事すると、速仁が、砂糖もミルクも入れず、自分のコーヒーに口をつけた。

 ――ウェェ、苦くてまずいや……。

 だが速仁は、

「おいしいね。おれは、悠にいちゃんとおなじで、おとなのこの味がわかるぞ」と、

作り笑顔を桜子にむけた。

 ところが桜子は、ピーチパフェを一匙食べたあと、満足げな顔を、コーヒーをしずかに飲んでいる悠斗と、膝に乗せたバッグのなかで眠りつづけているスズメに、交互にむけるだけだった。

 ――もぉぉ、おれの話も聞いてくれよな!


 桜子は、悠斗と夕霧が大原野神社へ行く段取りを話しあっているのを、パフェを食べながら聞きつづけた。はじめは、話の中身よりもパフェに心を奪われていた。だが、ふたりの話しに、小首をかしげだした。そして食べおえると、ふだんとちがう低い声でたずねた。

「悠斗さんは、大原野神社に参詣されたことが、おありですか?」

「ああ、あるよ。でもおれ、大原野神社が藤原氏の氏神だったなんて、さっきまで知らなかったよ。今年の冬に行ったんだけど、西山のふもとだから、けっこう遠かった。大原野が舞台になる〈行幸〉帖も、冬のことだったよな」

 悠斗の返事に、桜子はますます眉をくもらせた。

「おばあちゃまは、皇后の彰子さまのお供をして、大原野神社へ参詣したことがあったそうです。若いときにもなんどか参詣したようで、曾祖父とともに越前国(えちぜんのくに)に住んでいたとき、雪をかぶる日野山(ひのやま)を見て大原野の小塩山(おしおやま)を思い出し、歌を詠んでいます」

 桜子は、その和歌を口にした。

〈ここにかく 日野の杉むら (うず)む雪 小塩の松に 今日(けふ)やまがへる〉

「でも、おばあちゃまが新帖につながる品を大原野神社でどなたかに託したとは、わたし、思えない。大原野って、桂川のむこう側にあるのですよ。おかしくはないですか?」

 桜子の言葉に、悠斗と夕霧の顔色も一瞬にしてくもった。


「どこがおかしいんだ、桜ちゃん? おれにもわかるように説明してくれよ」

 そうたずねる速仁に、桜子が顔をむけた。

「宮ちゃんがいま勉強中ってことになっている母とおばあちゃまの屋敷は、この出町柳の、すぐ近くにあるの。夜明けと同時にここを牛車で出発したとして、大原野に行ったあとで紫野の雲林院に行くとなると、到着するのは、どうしても昼すぎになる。雲林院の観音さまが仰っていたわ。おばあちゃまが雲林院に来られたのは、まだ朝のうちだって。おかしいでしょ。おばあちゃまがその日に参詣された春日神さまのお社は、京の都のなかにあるはずよ」

 速仁も、桜子の考えがようやくのみこめた。


『たしかに、大原野神社は、式部殿が新帖の秘匿を相談された〈京の都の寺社〉というには、遠すぎますね。――わたしの浅知恵でした。もうしわけありません』

 頭を下げて謝る夕霧に、桜子は首をよこに振った。

「もうしわけないのは、わたしのほうです。春日神さまはわたしの氏神さまなのに、お社が京の都のどこにあるのか、わたし、よく知らないのです。わたしがおばあちゃまや両親とお詣りしたことのある春日神さまのお社は、京都だと、屋敷に近かった吉田神社だけだったから……。でも、吉田神社は、源氏の物語の舞台ではないでしょ」

 桜子は、意見を求めるような眼差しを、悠斗にむけた。


 悠斗は、桜子の口から吉田神社の名前がでたので、内心とても驚いていた。

 悠斗たち京都大学の学生にとって、吉田神社はなじみが深い。神社の表参道がキャンパスを区切っているほど、両者はご近所なのだ。だが、大半の学生とおなじように、悠斗は吉田神社の祭神名を知らなかったし、知ろうとしたこともなかったのである。

 悠斗は、カップに残っていたコーヒーをいっきに飲みほし、カップをソーサーに置きなおすと、

「ごめん、おれ、吉田神社が春日神を祀ってるなんて、知らなかった」

と言って頭を下げた。そして顔を上げ、言葉をついだ、

「吉田神社と源氏物語とのあいだに、なにかつながりがあるのか、調べてみるよ。吉田神社は、京都大学の、すぐとなりにある。だから、つながりがなくても、来週、行ってみよう。一宮も、またこっちに来られるだろ」


 桜子と速仁が悠斗にうなずき返したとき、高田が、息せき切ってカフェに入ってきた。

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