7-17
朝顔の姫君は、桜子たちがみつめるなか、二つの手箱から、小さな香壷と香炉を取りだした。緑釉や灰釉の陶器、舶来の白磁や青磁、それに紺や白の瑠璃が、とりどりに十個、横二列にならべられた。
『式部さまは、源氏の新帖を求める者が現れれば、あることを問うようにと、わたしにお言いつけになられました。それが、この薫香です』
朝顔の姫君はそう言うと、光源氏に顔をむけた。
『光る君さまは、よくごぞんじで、いらっしゃいますでしょ?』
光源氏はうなずき、
『わたしが三九歳の、春二月のことでした。〈梅枝〉の帖で、……』
と、その五種類の薫香にまつわる話しを語りだした。――
御年十一歳の明石の姫君を、成人式である〈裳着〉のあとに、東宮へ入内させる計画が進んでいた。明石の方と光源氏とのあいだに生まれ、三歳からは紫の上が育てた姫君だ。光源氏は、裳着の式を華やかに彩るために、名香を祝いの品にくわえようと思いつき、所有していたさまざまな種類の香木を、朝顔の姫君と、主邸の六条院に住まわせている女君たちのもとへ言付けた。それぞれ二種類の薫香を調合するよう、頼んだのである。――
『わたしが調合した薫香のひとつが、これですのよ』と、
朝顔の姫君は、紺瑠璃の香壷から練香を一粒とり出し、熱灰が敷かれた香炉のなかに置いた。おくゆかしく落ちついた匂いが、ゆっくりと漂いはじめた。
『これは〈黒方〉です。式部さまは、この匂いを、〈心にくく しづやかなる〉と書かれました。――式部さまから預かった五種類の薫香を、よい匂いが保たれるようにと、有栖川の水ぎわに埋めておきました。それを取りだすのに手間どりまして、孫姫さまがたをお待たせするのが忍びなく、源典侍に香炉だけを持たせて先に遣ったのです。千年有余をへだてても、このように芳しい匂いを放ち、うれしく思います』
朝顔の姫君がほほえみをたたえて言いおわると、光源氏が、また語りだした。――
広大な六条院は、四つの季節を表す四町に区切り、それぞれに女君を住まわせている。東南部分の〈春の町〉の庭には、桜、紅梅、藤、山吹、ツツジが植わっている。この町の女主人は紫の上で、光源氏自身も、もっぱらこの屋敷で日をすごす。紫の上は、この町で自身が育てた明石の姫君のために、〈黒方〉と〈梅花〉〈侍従〉の三種の薫香を調合した。
〈春の町〉の北隣は〈夏の町〉だ。日陰ができるようにと高木を植え、涼しげな泉も配した庭には、花橘や撫子、菖蒲が彩りを添えている。この町を差配する花散里の女君は、〈荷葉〉という薫香を調合してくれた。
その西隣にあたる北西部分は〈冬の町〉で、庭の奥に、雪景色が楽しめるようにと、松の木をたくさん植えた。この町では、明石の方が八年ものあいだ、すぐ近くに住んでいる幼い実の娘との交渉をいっさい断って暮らしている。明石の方は、〈百歩〉を調合して贈ってくれた。
もとは六条御息所の旧邸があった西南部分の〈秋の町〉は、御息所の遺児で、光源氏の養女である斎宮女御が里邸として使っている。紅葉の色が濃い木々を選んで庭に配したこの屋敷で、明石の姫君の裳着をおこなうこととし、光源氏は、中宮となっていた斎宮女御に裙帯を結ぶ役目を頼んだ。
『わたし自身も〈黒方〉と〈侍従〉を、懸命にこしらえましたよ』
光源氏がそう言って話しを終えると、朝顔の姫君は、別の香壷から練香を取りだし、新しい香炉のなかに置いた。はなやかで、少し刺激的な匂いが流れだした。
『これは、紫の上さまの手になる〈梅花〉です。わたしも、同じ種類の薫香を調合いたしました』
朝顔の姫君は、そう言うと、そのあとは無言で、残り三種の薫香をつぎつぎに薫らせた。
最後の薫香が香炉から匂いを漂わせはじめたとき、悠斗は困り果てていた。すべてよい香りであることはわかる。だが、あとの三種の、どれが〈侍従〉であり〈荷葉〉〈百歩〉なのか、さっぱり見当がつかない。新帖につながる第三の品は、あの五つの香壷にちがいない。薫香の名が答えられたら、渡してもらえるのだろう。
――でもおれ、こういうの全然ダメだ。しかたない、今回は桜ちゃんと一宮に、全面的に任せよう。
悠斗がそう考えながら桜子と速仁の顔を見ると、ふたりともうれしそうにしている。悠斗と同じようにふたりも、薫香の名前を当てれば香壷と香炉が渡され、それが第三の品なのだと考えていた。しかも、ふたりにとって薫香は、日頃から親しんできたものだ。名前など、すぐにわかった。
速仁が勢いこんで口を開いた。
「三つ目の薫香は〈荷葉〉で、つぎが〈侍従〉、そして、いま匂っている最後の薫香が〈百歩〉です」
『はい、そのとおりです、一の宮さま』
朝顔の姫君がそう返事すると、速仁の顔がパッと輝いた。
――やったぁぁ、エヘッ。それじゃ、香壷をもらいに行こうーっと。
速仁は勇んで立ちあがろうとした。だが、そのとたん、小さく尻餅をついた。うしろから、源典侍に袖を引かれたのだ。
――えぇぇ!? 手のつぎは、袖? もぉぉ、この婆ちゃん、なんとかしてよ……。
速仁は、顔をしかめてふり返った。すると、源典侍の流し目を、まともに正面からとらえてしまった。
――うあぁぁぁ!
源典侍は、若むきのまっ赤な扇を広げ、すぼんだ口をそれで隠してはいたが、肉が落ちて窪んでしまったまぶたまでは隠せない。白粉が剥げ落ち黒ずんでいた。だが源典侍は、言葉づかいだけは若々しい。
『一の宮さま、お帰りになるのは、まだお早いですよ。ゆっくりなさいませ。この苔の上で横になり、一晩を語り明かしても、わたしはかまいませんのよ、ほほほ』
年甲斐のない媚態に、速仁は怖じ気づき、悠斗と源氏親子は、それみたことかと、笑いを押し隠すのに苦労していた。
「一宮、おまえのおかげで、ククク、第三の品がもらえたよ。ありがとな。せっかくだから、もうしばらく薫香を楽しもうよ。おまえは、源典侍さんの話し相手になっていろ。ククク」
悠斗は、速仁に助け船を出そうとしたのだが、どうしても助けにはならず、笑い顔でそう言うと、朝顔の姫君にむきなおり、言葉をつづけた。
「おれ、薫香なんて初めてでした。とても貴重な経験をさせていただき、ありがとうございます。――これからも、桜ちゃんに協力し、源氏物語の新帖を探します」
朝顔の姫君は、ゆっくりとうなずき、おもむろに口を開いた。
『わたくしも、新帖が見つかることを、心より願っています。――それでは、五種のこの薫香について、式部さまから頼まれた質問を、いまからお出ししましょう』
朝顔の姫君の言葉に、桜子たち全員が驚いた。
『ですから、お帰りになるのは早いと、もうしあげましたでしょ、ほほほ』
源典侍はそう言うと、速仁の右腕を引いた。老婆とは思えない、強い力だった。速仁は、源典侍の膝の上に仰むけで倒れてしまった。
『まぁぁ、おかわいいこと、ほほほ』
速仁は、源典侍に乱れ髪をなでられ、顔をひきつらせた。
――ウエェェ、助けてぇぇぇ!
心のなかでそう叫びながら、速仁は桜子と悠斗の横顔を見た。だがふたりは、先ほどとは打って変わった真剣な眼差しで、朝顔の姫君をみつめていた。
『式部さまは、源氏の物語を読む方々が、物語のなかの人物に共感し、あるいは反発することを願っておられました。それが、物語を愉しむ、ということなのでしょう』
朝顔の姫君はそう言うと、五個の香炉を横一列にならべなおし、さらに言葉をつづけた。
『しかし、共感するにしても反発するにしても、その人物の心に寄り添える深い情感を持ちあわせていることが必要です。孫姫さまたちは、〈梅枝〉帖をお読みになったとき、わたしを含め、薫香を調合した女君たち四人の心のひだについて、どのようにお感じになられましたか? この薫香の匂いが、わたしたち四人の心を表していると、式部さまは仰っていました』
朝顔の姫君がすべてを言いおえたとき、夕霧は口の端をかすかにゆるめ、光源氏の目を、射ぬくように見ていた。
――さぁぁて、父上の身勝手さが、白日の下に晒されようとしておりますよ。ククッ。妻を三人、となりあわせの建物に住まわせ、しかも、そのうちのふたりは養母と生母という立場なのですから、そりゃ、まずかったのではないですか。おまけに、花散里さまや、恋人だった朝顔の姫君にまで、べつの女君が産んだ子へのお祝いをせがむとは、……わたしにはとうていできません。
光源氏も、夕霧の目をまっすぐみつめ、口の端をゆるめた。
――おまえは、どうも、わたしが女君たちをひとつ処に集めたのが気にくわないようだな。雲居雁と落葉の宮の屋敷を行ったり来たりするおまえは、ほんと、ご苦労なことだ、ククッ。
光源氏と夕霧の視線は、ぶつかって火花をあげそうだった。
源氏親子のにらみあいがつづいている横で、桜子と悠斗は、おたがいに困った顔をしてみつめあっていた。
――悠斗さんは薫香が初めてだったようだから、わたしが答えなければいけないよね……。
桜子は、あらためて居ずまいをただし、口を開いた。
「朝顔の姫君さまは、光る君さまから頼まれたとおり、過不足なく二つの薫香、〈黒方〉と〈梅花〉を調合なさいました。光る君さまからの求婚は拒んでも、心を通わしあう友としての、誠実なおつきあいを望んでおられたからだと思います。〈黒方〉は、冬を表すと同時に、お祝いの品として用いるものだと、母から聞いております。そして〈梅花〉をお贈りになったのは、調合を頼まれた季節が春だったからなのだと思います。形式をだいじにした薫香二種類の選択にも、愛情とは一線を引きたい、というお気持ちが現れていると、わたしは思います」
桜子が言いおえると、光源氏は、閉じたままの扇子で、耳の上をトントンとたたいた。
――そうなんですよねぇぇ、朝顔の姫君は友情の一線を越えようとはなさらない、トホホ。
夕霧は、いかにも満足そうだ。
――友情と、型どおりの薫香ですか……、愛情は、かけらもなしですね、ククッ。
悠斗は桜子を、感心した顔でみつめていた。ようやく源典侍の膝から逃れた速仁も、
――さすが桜ちゃんは、賢いや、
と、自分のことのようにうれしげだった。速仁は座りなおし、
「おれ、桜ちゃんの話しを聞いていて、紫の上さんの気持ちが、なんとなくわかったような気がします」
と、朝顔の姫君にむかって口を開いた。そして、桜子に、
「今度は、おれが自分の考えを言ってみる。いいだろ?」と、
話しかけた。桜子がうなずき返すと、速仁は、あらためて朝顔の姫君にむきなおった。
「紫の上さんは、養女の明石の姫君を心からかわいがっていたので、光るじいさんから二つだと言われていたのに、三つも薫香を調合したのだと思う。お祝いの薫香としてもっとも格の高い〈黒方〉をまず贈った。そして姫君に、〈春の町〉ですごした年月を入内してからも時々思いだして欲しいと願って、〈梅花〉を贈った。それから、入内が秋に予定されていたので、そのお祝いの気持ちをこめて、秋の薫香である〈侍従〉も贈ったのだと思います」
速仁が言いおわると、桜子は、
「すごいわぁぁ、宮ちゃん! きっとそうよ!」
と、目を輝かせた。
「エヘッ、そうかな……。おれ、乳母ちゃんに育ててもらったようなものだろ。だから、乳母ちゃんだったら、おれの元服のときに、どんな気持ちでいてくれるだろう、って考えたんだ」
速仁がそう返答すると、桜子が無邪気な笑顔を速仁にむけた。
「元服のときには、きっと、とびきりかわいいお姫さまと結婚できるよ、うふふ。光る君も、元服の夜に、葵の上さまと結婚されたでしょ」
「!………」
速仁は、潤みだした目を桜子から背けた。そして、
「おれの頭では、これ以上はわからない。花散里と明石の方のことは、桜ちゃんと悠にいちゃんが考えろよな」と、
つぶやくようにボソボソと言ったあと、黙りこんでしまった。
悠斗は、桜子の横顔越しに、速仁のようすをうかがった。目に入った角髪をあらためてよく見ると、桜子の好きなピンク色の紐で結われている。桜子にたいする速仁の気持ちが、痛いようにわかった。
――でも、桜ちゃんは譲れないからな! ただし、ジャマはしない。おれも頑張るから、おまえも頑張れ。勝負がついたら、ノーサイドだ!
悠斗は両ひざに手を置き、背筋を伸ばして空を見あげた。
――やはり知ったかぶりはダメだ。三人で力を合わせればいいんだ!
悠斗は桜子に顔をむけなおし、ようやく口を開いた。
「〈荷葉〉と〈百歩〉も、季節の薫香なのかな?」
「はい、〈荷葉〉は、蓮の花を思わせる、夏の薫香だと言われています。でも〈百歩〉は、季節に関係のない薫香です。百歩先の遠くまで薫るような、しっかり芯のある匂いを放つので、そう名づけられているのです」
桜子の説明に、悠斗は、二度三度とうなずいた。そして、両手の指を組み、それを口に押しあてながら、花散里と明石の方の心のなかを、懸命に探った。
朝顔の女君が、〈百歩〉をもう一粒、香炉のなかに置いた。桜子が言ったとおりの、一本芯が通っているような、力強い匂いだと、あらためて悠斗は感じた。そして、みんなが見まもるなか、悠斗は口を開いた。
「花散里は、紫の上に張りあおうとはせず、なにかにつけ控えめな態度で光る君に接してきた女君でしょ。それで薫香についても、きっと何種類も調合できる能力があるのに、卑下して一種類しか作らなかったのだと、おれは思います。そしてその一種類を、〈夏の町〉の女主人として、夏の薫香である〈荷葉〉にしたのだと思う」
『そういう控えめな花散里の母上が、わたしは好きです』
そう言って相づちを打ったのは、夕霧だった。光源氏は花散里に、元服後の夕霧の母親代わりを務めるよう頼み、実子のない花散里も、装束の支度など、夕霧の身のまわりの世話に心を砕いたのだ。
『それで、明石の方も、おなじように自分を卑下して、ひとつだけ調合されたとお思いですか?』
朝顔の女君にそうたずねられた悠斗は、首を左右に振った。
「明石の方は、どの女君にもひけをとらない教養と品格を持っていたけれど、それを見せびらかすようなことはせず、贈る薫香はひとつだけにした。そういう点では、花散里と同じだと思います。でも、まったくちがう心で、ひとつを選んだような気がします」
悠斗はそう言うと、光源氏をチラリと見たあと、朝顔の姫君に顔をむけた。
「光る君は六条院を、自分が理想と考える住居にしようと考えたのだと思います。四つの季節の、それぞれの美しさを楽しめる庭を、まず作った。そして、正妻である紫の上を、もっとも華やかな春の町にすえた。幼いときには若紫と呼ばれていた紫の上に光源氏が初めて出会ったのは、山桜が満開の〈北山のなにがし寺〉でした。だから、それを思いだせるような屋敷にしたのだと思います。秋好中宮とも呼ばれる斎宮女御の住まいを〈秋の町〉にしたのは、中宮が、その呼び名のとおりに秋の庭が好きだったことにくわえ、中宮の母である六条御息所との思い出を、光源氏が忘れていなかったからだとも思う。光源氏と六条御息所が胸をわって夜を語り明かした〈野宮の別れ〉は、秋も深まったころだったですよね。そして花散里を〈夏の町〉に住まわせたのも、思い出とかかわりがあったのだと思います。源氏物語のなかで光源氏が花散里のもとを訪れるのは、初夏の、橘の花が咲くころだったですよね。紫の上と秋好中宮、そして花散里の三人は、それぞれにふさわしい季節の屋敷に住まわせた光源氏の配慮に、満足してたのだと思います」
悠斗は一息おき、朝顔の姫君の目を、あらためてまっすぐ見た。その目は輝きを増していた。悠斗は、ここまではまちがっていなかったようだと確信した。
悠斗が光源氏を見ると、得意そうに口の端をゆるめていた。
――光る君は、おれがほんとうに言いたいことを、なにか勘違いしてそうだ……。
悠斗は心のなかでそうつぶやいたあと、おおきく深呼吸し、言葉をついだ。
「でも、〈冬の町〉に住むことになった明石の方の場合は、ほかの三人と事情がまったくちがうような気がします。明石の方にとって、冬という季節は、つらい思い出と重なってるからです。嵐山の山荘で明石の方が最愛の娘を手放したのは、雪が舞う真冬だったでしょ。明石の方は、〈冬の町〉で松に積もる雪を見るたびに、娘との悲しい別れを思いおこしていたにちがいないです。明石の方にとって、住みたい町は〈秋の町〉だったと思う。だって、明石の方が光源氏と初めて出逢ったのは秋で、京都での再会を約束されて光源氏と明石でいったん別れたのも秋だったでしょ。明石の方は、あてがわれた〈冬の町〉で、やるせない思いを胸のなかにしまい、ひっそり暮らしていたのではないでしょうか」
悠斗がそう言うと、夕霧はおおきくなんどもうなずき、目に涙をためながら、とぎれとぎれに口を開いた。
『ウウッ、気の毒な、悲しい、お話ですね……』
そして夕霧は、光源氏を横目でにらんだ。だが、光源氏は素知らぬふりで、朝顔の姫君に流し目を送っている。
――やはり父上には、なにを言っても無駄だ……、
と、夕霧が舌打ちしているあいだも、悠斗は話しつづけた。
「光源氏は、四季を表す四つの町を作り、六条院を、調和のとれた世界にしようとしたのだと思う。紫の上と花散里は、その思いに応えて、季節を表す薫香を調合した。だけれど明石の方は、季節とは無関係な薫香を贈り、光源氏の思いに、目立たないかたちで異を唱えたのだと思います」
悠斗が言いおわると、夕霧が光源氏を、強い口調でとがめだてた。
『父上! 大学の君の、いまのお話を、お聞きでしたか!』
光源氏は、おうように、
『もちろん、聞いておったぞ。よい話しだったな』
と言いながらも、目は朝顔の女君から離さない。
そして、その朝顔の女君も、光源氏の目をとらえ、うなずき返した。
『光る君さまは、憎めないお人ですこと。どの女君にも、その場その場は、精一杯の愛情を注がれますものね。どなたも、それに、ついほだされてしまうのでしょう』
朝顔の女君は、頬をゆるめながらそう言うと、桜子と悠斗の顔を順番に見た。
『孫姫さまは、わたくしのことを、わたくしよりも、よくおわかりですね。ほほほ。――そして悠斗の君も、明石の方の心のうちを、よくお考えになりました』
そして、速仁に顔をむけ、言葉をついだ。
『ですが、もっとも感心しましたのは、一の宮さまのお答えです』
「エッ!? おれの?」
驚く速仁に、朝顔の姫君は、笑みをたたえてうなづき返した。
『孫姫さまと悠斗の君のご意見は、良い頭で考えられてのことなのでしょう。ですが、一の宮さまは、賢子さまの胸のうちを想像しながら、頭でなく心でお考えになられました。それは、一の宮さまが、物語の人物を、生身の人間として扱われた、ということだと思います。式部さまから預かった品は、三人を代表し、一の宮さまに受けとっていただきましょう』
朝顔の姫君はそう言うと、五個の香壷が収められていた手箱から、あらたに小枝を取りだし、苔のうえに置いた。糸と紙の作り物の榊で、御幣のように綿布がつけられ、神々しく仕立てられていた。
『香壷と香炉は、源氏の物語のなかから、式部さまが呼びよせられたものです。ですがこの榊は、式部さまが手づからお作りになったそうです。〈賢木〉の帖で、光る君さまは、これと同じような枝を添えて、恋の歌をわたしに贈ってくださいました。神に仕えていたわたしでしたのにね、ほほほ』
『かけまくは かしこけれども そのかみの 秋思ほゆる 木綿襷かな』
と、光源氏は悪びれることなく、にこやかに、その和歌を口ずさんだ。
夕霧は、
――手あたりしだいに恋歌を贈るなんて、父上は、ほんとう、どうしようもない人だ……、
と、また光源氏をにらんだ。
だが、イライラしているのは夕霧だけだった。桜子たち三人は、おたがいに口もとをゆるめ、うなずき合っていた。新帖につながる第三の品が得られたのだ。
速仁は、照れくさそうに朝顔の姫君のまえに進みでると、榊をうやうやしく受けとった。そして、すぐに桜子に手渡した。
「ありがとう、宮ちゃん」
桜子からそう言われた速仁は、ますますおもはゆそうだ。
悠斗も、
「おまえ、やったな!」と、
けれんみなく声をかけた。そして、右の手のひらを頭の高さに上げ、言葉をつづけた。
「おまえも、こんなふうにしろよ」
「?………。う、うん……」
速仁は、みようみまねで手のひらを悠斗にむけた。
すると悠斗が、たがいの手のひらをパチンと打ちあわせた。
「これ、ハイタッチっと言って、祝いの仕草だ。榊がもらえたのは、おまえのおかげだよ。おれからも礼を言う。ありがとな」
悠斗がそう言うと、速仁は、こめかみを指先でかきながら口を開いた。
「うん、おれもうれしい。でもな、頭で考えていないってっことは、バカだと言われたみたいで……」
「アハハ、そんなことはないぞ。頭だけで読んではいけないってことだよ」
悠斗はそう言うと、朝顔の姫君にむきなおり、言葉をついだ。
「そういうことですよね。物語を読むのには、頭も心も必要なんですよね。おれたち、小野篁卿からは、知識を身につけることの大切さを教わりました。そして今日は、登場人物に寄り添う心の大切さを教えてもらいました。ありがとうございます」
悠斗が頭を下げると、桜子と速仁もそれにならった。
桜子が顔を上げると、朝顔の姫君がなんどもうなずき返していた。桜子は、そのうなずきに背中を押されるようにして、おもいきってたずねた。
「この榊と、源氏の新帖とのあいだに、どのようなつながりがあるのでしょうか。わたしたちは、仁和寺で朱雀院さまから横笛を、六道珍皇寺では小野篁さまから鏡を譲られました。そして今回は榊でした。いずれも、祖母が委ねたものです。祖母は、この三つの品について、なにか言ってはいなかったでしょうか」
だが、朝顔の姫君は、もうしわけなさそうに首を左右に振った。
『横笛と鏡のことは、今日、はじめて聞きました。――それに式部さまは、榊を渡す理由について、なにも仰いませんでした』
すると悠斗が、桜子に代わって口を開いた。
「新帖につながる品が託された他の場所について、心あたりはありませんか。桜ちゃんのお祖母さんは、仁和寺に参詣されたあと、その日のうちに、野宮にも行かれたそうです。雲林院と春日神の祠のつぎに、どこかの寺や神社に参詣すると、言っておられなかったでしょうか。ひょっとしたら、雲林院のまえに行かれていたのかもしれません」
たずねられた朝顔の姫君は、源典侍と顔を見あわせた。
『姫さま、もしかして、春日神を祀る、べつの社でしょうかね?』
源典侍がそう言うと、朝顔の姫君もうなずき返した。
桜子たちが目を輝かせて見まもるなか、源典侍は、春日神の社について語りはじめた。――
紫式部は、雲林院の近くの、春日神の祠がある境内で、朝顔の姫君と源典侍を物語世界から呼びだした。だが、狭い境内だったので、鳥居のそとで控えている、供の女房と下男、牛飼童たち三人に気づかれないようにするのが一苦労だった。この日、夜明けと同時に参詣した、おなじく春日神を祀る神社は山中にあって広大な境内を擁していたので、そのような苦労はしなかったのだがと、式部は木陰で朝顔の姫君に苦笑した。――
『その木がこれでしたね』
と、源典侍はカシの大木を指さしながら話しを締めくくった。
そして朝顔の姫君が、言葉を添えた。
『京の都には、春日神の社がいくつもあります。あの日に式部さまが参詣された、もうひとつの春日神がどこなのか、それはわかりません。ですが、人目のつかない、奥行きのある境内をもった社なのでしょう』
「ありがとうございます」
桜子と悠斗が口をそろえてそう言うと、朝顔の姫君と源典侍の姿が、ゆっくりと透きとおりはじめた。すると光源氏が、桜子に、
『わたしも、朝顔の姫君といっしょにもどらせていただきましょうか……』
と、ほほえみながら艶やかな声で語りかけた。
桜子がほほえみを返し、夕霧がおおきく眉をひそめるなか、光源氏も透きとおりだした。
『ではな、少年。しっかり勉強しておくのだぞ。また会おう』
光源氏から、からかい顔で声をかけられた速仁は、眉をつり上げた。
「少年って、言うな。もう助けてやらないからな!」
くやしがる速仁に、消えさる直前の源典侍が、しなを作って呼びかけた。
『怒ったお顔も、りりしいこと……。また、物語の外の世界へ呼んでくださいましねぇぇ。つぎは、一夜を語り明かしましょうねぇぇ、ゴホゴホ』
速仁は、感謝の辞儀をしながらも顔をひきつらせ、
『おれは、桜ちゃんとちがって、念じても、物語からだれも呼びだせないよ』
と、源典侍に言葉を返した。
――そんな力、おれはいらない! おれは物語の人物とじゃなくて、桜ちゃんといっしょにいられたらいいもの、……ね、桜ちゃん、
心のなかでそう呼びかけながら、速仁は桜子に顔をむけた。
だが桜子は、悠斗と力強く握手をしていた。
――あっ! ずるいぞ、悠にいちゃん!
速仁は、握りあっているふたりの手の上に、いそいで自分の手も置いた。
そのとたん、まわりの景色がもとの世界にもどった。
桜子たちは、檪谷七野神社の境内で、石畳の上に座っていた。桜子の膝のうえに、榊がポツンと残されていた。




