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式部が源氏物語の新帖を秘匿してから、五年がすぎた。孫娘の藤原桜子は十才になり、母の賢子とともに東宮御所で宮仕えをつづけている。同い年である速仁の学友だ。といっても、桜子にとって速仁は、そりがあわない口げんか相手でもある。
東宮御所の一画にある速仁の曹司で、ふたりは毎日、かならず言いあらそうのだ。今日も、文机をまえにして書物を読んでいた桜子が、寝転んでいる速仁に語りかけて騒動がはじまった。
「宮ちゃん! この唐詩を覚えておかないと、明日、先生に叱られるよ」
桜子から〈宮ちゃん〉とよばれる速仁は、手を右ほほに当て片ひじをついたまま、顔だけを桜子にむけ、面倒そうに答えた。
「ぼく、からうたは、すきじゃない。女の子は、いいなぁぁ。かん字をおぼえなくて、いいもん。桜ちゃんは女の子なのに、なぜかん字がとくいなんだ? あっ、桜ちゃんは女じゃないか。かみの毛、みじかいもんね。エヘへッ」
桜子の片眉がピクッと動いた。
「それじゃ、お絵かきの勉強をする? 光る君のお話のなかに、絵合戦があって……」
桜子が言いおわらないうちに、速仁がまた軽口をたたいた。
「絵は、桜ちゃんが好きなんだろ。ぼく、あんなかったるいのもイヤだ。それに桜ちゃんは、いっつも、式部ばあちゃんが書いたものがたりの話だよな。だったら、そこにでてくる女君のように、かみの毛も長くしたらどうなんだ。たしか、すえつむ花とかいう、ぶさいくなおばちゃんも、かみの毛は長かったんだろ」
桜子の目がとがってきた。髪の毛の短さを速仁がもう一度からかったら許さない、という面もちだ。ただ言葉だけは、
「絵も嫌なら、歌の手習いをする?」
と、まだ穏やかだ。
「そうだなぁぁ。光る君の話にでてくる歌を、手習いしようかなぁぁ。〈あおい〉のなかの歌だよ。きのう、いっしょにここで、乳母ちゃんに、よんでもらっただろ、エヘッ」
そう言って口もとをおおきく緩めた速仁の笑い顔に、桜子は嫌な予感がした。
速仁は、顔をうかがうような眼差しを桜子にむけたまま、ゆっくりと口をひらいた
「はかりなき ちひろのそこの みるぶさの おひゆくすえは われのみぞみむ――光る君からこの歌をもらった若むらさきちゃんって、かみみじか姫の桜ちゃんと正反対なんだよな……。これを書いて、桜ちゃんにあげようか、エヘヘッ」
バチッ! 桜子の右手が速仁の頭にのびた。
「いたぁぁぁ。あたま、たたくなよ!」
とびおきて両手で頭を押さえる速仁に、桜子は目をつりあげながら、
「いくらたたいても、それ以上は絶対に頭悪くならないから、だいじょうぶよ」
と言いはなった。
「そういうモンダイじゃないだろ! いたいなぁぁ、もぉぉぉ。これからぜったいに人形あそび、してやらないからな!」
速仁の曹司では、毎日、こんなやりとりが繰りかえされていた。
速仁は、東宮御所での堅苦しい暮らしが苦手だった。乳母の賢子はかわいがってくれた。しかし、藤原兼隆の意をくんだ女房たちが、東宮になるにふさわしい教養と素行を速仁に身につけさせようと、起床から就寝まで、速仁の一挙一動に、きびしく目を光らせていた。勉強の予習と復習という名目で、賢子がほかの女房の口出しを抑えて与えてくれる、自分の曹司で桜子とふたりきりですごす時間が、速仁にとっては、うれしくてしかたない息抜きだった。たいていは言いあらそいで終始するが、それでも速仁は楽しかった。勉強が苦手なことを桜子にからかわれるのは嫌だったが、桜子が学友でなければ、ますます勉強が億劫になりそうだった。
さきほど桜子から頭をたたかれた速仁は、しばらくのあいだ、ふてくされてひとりで手習いをしていた。となりの文机では桜子が、速仁にひとことも話しかけず、絵筆を動かしている。
速仁は、けんかの種になった和歌を料紙にしたため、「桜ちゃんも、そのうち、かみがながくなるよ」と添え書きし、桜子の目のまえに置いた。だが桜子は、それをチラッと見たきり、あいかわらず絵筆を走らせつづけた。
速仁は、
「ふぅぅぅ」と、
大きなため息をつき、投げるようにポイと筆をおいた。そして、あらためて桜子の顔をうかがった。
「ねぇ、桜ちゃん。ぼく、もう、おこってないよ」
「そっ!? わたしはまだ怒ってる」
「!………」
速仁は、またしばらく口をへの字に結んでいたが、気を取りなおしてふたたび口をひらいた。
「いまからにわで、こっそり、まりあそびしない? してくれたら、あとで人形あそびしてあげるから。ねっ」
ようやく桜子は速仁に顔をむけた。
「投げっこならいいけど……」
「うん、それじゃ桜ちゃんは手でなげて。ぼくは足でけるね」
桜子は、あまり気乗りしなかったが、人形遊びという言葉につられて、速仁といっしょに曹司を出た。
曹司わきの簀子縁では、速仁付きの家臣がひとり、格子を背にして端座していた。年のころ十七、八歳の青年だ。兼隆に仕える身だが、兼隆に命じられ、数日まえから速仁の世話をつとめている。
速仁は、簀子縁から庭へつづく階を、トントンと身軽に下りた。だが、袿を重ね着している桜子は、ゆっくりとしか下りられない。青年が、手を取って桜子を助けた。
「ありがとう。お名前は……?」
「惟清ともうします」
「ありがとう、これきよさん」
――優しそうなお兄さん。宮ちゃんと、おおちがいだ。
ようやく沓をはいた桜子に、速仁が庭のまんなかで鞠をかかえながら、大声でよびかけた。
「はやく、おいでよ!」
だが桜子は、速仁にかまわず、惟清にあらためて辞儀をした。そしてそのあと、袿の前裾を手に持って、ようやく庭へ歩を進めた。
庭は、暖かい陽射しにあふれ、桜の花がほころびはじめていた。冬眠から目ざめたカナヘビが、池縁の大きな石のうえで日向ぼっこをしている。それを目ざとく見つけた桜子が、
「カナヘビちゃんだぁぁ!」
と歓声をあげ、速仁を捨ておいて走りだした。
カナヘビは一目散に草むらへ逃げた。
桜子は、カナヘビを追いかけ、逃げこんだと思われるあたりの小石を持ちあげた。
「うわぁぁ、かわいいぃぃ!」
石の下に、ダンゴムシが群れをなしていた。
桜子は一匹つかみ、片手に握りしめて速仁のもとへいそいだ。
「宮ちゃん、いいもの見せてあげるね」
「!?………」
桜子が、手をゆっくりと開いた。
「ヒエェェェ!」
速仁は顔をひきつらせた。虫やトカゲが大の苦手なのだ。
「ど、どうして桜ちゃんは、そんなきみのわるいものが、すきなんだよ!」
「宮ちゃんこそ、どうして嫌いなの?」
桜子は、自分の服を伝って素速く逃げていくダンゴムシを目で追いながら、無邪気に問いかえした。
「は、はやく、まりであそぼうよ!」
「うん、わかった」
速仁は、桜子が見まもるなか、しばらくひとりで鞠を蹴りあげていた。十歳にしては、なかなかの足さばきだ。練習をつづければ蹴鞠の達人になれそうだった。
「それじゃ投げて、桜ちゃん!」
「うん! ――はーい、いくよ」
桜子が投げた鞠を直接に足の甲で受けた速仁は、高く三度蹴りあげ、そして桜子に蹴り返した。鞠は狙いどおり桜子のまえに落ち、はねてきたそれを桜子は両手で受けとめた。
「宮ちゃん、すごーい」
「エヘへッ。そうでもないよ。それじゃもう一回ね」
ふたりは鞠遊びに興じた。
だが好事魔多し。桜子にほめられて調子に乗った速仁が、まだ習得しきれていない、踵での〈うしろ蹴り〉をしたのだ。鞠が桜子の顔面を直撃した。
「あっ、桜ちゃん!」
両手で顔をおさえ跪く桜子に、速仁は血相を変えてかけよった。
「うわぁぁぁぁぁ」
痛いというよりも驚いてあげた桜子の大声だった。だが、速仁をうろたえさせるに十分だった。
「桜ちゃん、だいじょうぶ? だいじょうぶ? ごめんね、ごめんね」
階の下で控えていた惟清も、走りよってきた。
「いかがなさいましたか?」
惟清から声をかけられた速仁と桜子は、ふたりともバツが悪そうな顔で地面を見つづけた。
「もうお部屋にもどる」
そう言って桜子が立ちあがったので、速仁はホッとした。だが、情けなくてしかたなかった。
「いまからお人形あそびしよ。明日も明後日も、これからずっと毎日、お人形あそびしよ。だから、……ごめんね」
しょげきってあやまる速仁に、桜子はうつむいたまま、なにも言わず歩きだした。よこについて歩きながら、速仁はなんども桜子の顔をのぞきこんだ。
痛くないと、桜子は言えなかった。さっき自分があげた大声が恥ずかしかった。平気だとすぐに言えばよかったのに、これだけ心配する速仁にいまさらなにも言えない気がした。速仁がおもいがけずやさしい言葉をかけてくれたことにも驚いた。どう返事したらよいのか、桜子はとまどっていた。
階のちかくまで来たとき、桜子は立ち止まり、地面にむかってボソッと小声をだした。
「三日だけでいい」
「えっ、なに?」
「だ・か・ら、三日だけでいいって、言ってるの」
親仁の顔を正面からみつめ、桜子は言葉をつづけた。
「宮ちゃんは、ほんと頭悪い。三日間だけお人形遊びしてくれたらいいって、言ってるの」
つっけんどんな言葉づかいだったが、それでも、速仁の頬はおおきくゆるんだ。
「そんなふうにボーっと笑っていると、ますます頭が悪く見えちゃうよ」
「あっ、ごめん」
速仁は、そう言ったものの、おもわず謝ってしまったことに、なんとなく納得がいかない面もちだった。
そんな親仁に、桜子は、
「宮ちゃんが赤ちゃんで、わたしがお母さん役ね」
と一言かけたあと、階へむかってまた歩きだした。
とりのこされた速仁は、しょぼくれた目で桜子の背中を追い、くちびるをとがらせた。
「えぇぇぇ、赤ちゃん!? うーん、それでもいいけどぉぉ。明日は光る君だよ」
ふたりのあとを歩いていた惟清は、内心、おかしくてしかたなかった。
――若宮さまの初恋の相手は、一の君さまか……。でも、たいへんそうだ。若宮さまは、尻にしかれそうだよな。