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桜人 ―― 源氏異聞  作者: 塔真 光
第2章 幼なじみ
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2-1

 式部が源氏物語の新帖を秘匿してから、五年がすぎた。孫娘の藤原桜子は十才になり、母の賢子とともに東宮御所で宮仕えをつづけている。同い年である速仁の学友だ。といっても、桜子にとって速仁は、そりがあわない口げんか相手でもある。

東宮御所の一画にある速仁の曹司(ぞうし)で、ふたりは毎日、かならず言いあらそうのだ。今日も、文机をまえにして書物を読んでいた桜子が、寝転んでいる速仁に語りかけて騒動がはじまった。


「宮ちゃん! この唐詩を覚えておかないと、明日(あした)、先生に(しか)られるよ」

 桜子から〈宮ちゃん〉とよばれる速仁は、手を右ほほに当て片ひじをついたまま、顔だけを桜子にむけ、面倒そうに答えた。

「ぼく、からうたは、すきじゃない。女の子は、いいなぁぁ。かん字をおぼえなくて、いいもん。桜ちゃんは女の子なのに、なぜかん字がとくいなんだ? あっ、桜ちゃんは女じゃないか。かみの毛、みじかいもんね。エヘへッ」

 桜子の片眉がピクッと動いた。

「それじゃ、お絵かきの勉強をする? 光る君のお話のなかに、絵合戦(えがっせん)があって……」

 桜子が言いおわらないうちに、速仁がまた軽口をたたいた。

「絵は、桜ちゃんが好きなんだろ。ぼく、あんなかったるいのもイヤだ。それに桜ちゃんは、いっつも、式部ばあちゃんが書いたものがたりの話だよな。だったら、そこにでてくる女君のように、かみの毛も長くしたらどうなんだ。たしか、すえつむ花とかいう、ぶさいくなおばちゃんも、かみの毛は長かったんだろ」

 桜子の目がとがってきた。髪の毛の短さを速仁がもう一度からかったら許さない、という面もちだ。ただ言葉だけは、

「絵も嫌なら、歌の手習いをする?」

と、まだ穏やかだ。

「そうだなぁぁ。光る君の話にでてくる歌を、手習いしようかなぁぁ。〈あおい〉のなかの歌だよ。きのう、いっしょにここで、乳母ちゃんに、よんでもらっただろ、エヘッ」

 そう言って口もとをおおきく緩めた速仁の笑い顔に、桜子は嫌な予感がした。

 速仁は、顔をうかがうような眼差しを桜子にむけたまま、ゆっくりと口をひらいた

「はかりなき ちひろのそこの みるぶさの おひゆくすえは われのみぞみむ――光る君からこの歌をもらった若むらさきちゃんって、かみみじか姫の桜ちゃんと正反対なんだよな……。これを書いて、桜ちゃんにあげようか、エヘヘッ」

 バチッ! 桜子の右手が速仁の頭にのびた。

「いたぁぁぁ。あたま、たたくなよ!」

 とびおきて両手で頭を押さえる速仁に、桜子は目をつりあげながら、

「いくらたたいても、それ以上は絶対に頭悪くならないから、だいじょうぶよ」

と言いはなった。

「そういうモンダイじゃないだろ! いたいなぁぁ、もぉぉぉ。これからぜったいに人形あそび、してやらないからな!」


 速仁の曹司では、毎日、こんなやりとりが繰りかえされていた。

 速仁は、東宮御所での堅苦しい暮らしが苦手だった。乳母の賢子はかわいがってくれた。しかし、藤原兼隆の意をくんだ女房たちが、東宮になるにふさわしい教養と素行を速仁に身につけさせようと、起床から就寝まで、速仁の一挙一動に、きびしく目を光らせていた。勉強の予習と復習という名目で、賢子がほかの女房の口出しを抑えて与えてくれる、自分の曹司で桜子とふたりきりですごす時間が、速仁にとっては、うれしくてしかたない息抜きだった。たいていは言いあらそいで終始するが、それでも速仁は楽しかった。勉強が苦手なことを桜子にからかわれるのは嫌だったが、桜子が学友でなければ、ますます勉強が億劫(おっくう)になりそうだった。


 さきほど桜子から頭をたたかれた速仁は、しばらくのあいだ、ふてくされてひとりで手習いをしていた。となりの文机では桜子が、速仁にひとことも話しかけず、絵筆を動かしている。

 速仁は、けんかの種になった和歌を料紙にしたため、「桜ちゃんも、そのうち、かみがながくなるよ」と添え書きし、桜子の目のまえに置いた。だが桜子は、それをチラッと見たきり、あいかわらず絵筆を走らせつづけた。

 速仁は、

「ふぅぅぅ」と、

大きなため息をつき、投げるようにポイと筆をおいた。そして、あらためて桜子の顔をうかがった。

「ねぇ、桜ちゃん。ぼく、もう、おこってないよ」

「そっ!? わたしはまだ怒ってる」

「!………」


 速仁は、またしばらく口をへの字に結んでいたが、気を取りなおしてふたたび口をひらいた。

「いまからにわで、こっそり、まりあそびしない? してくれたら、あとで人形あそびしてあげるから。ねっ」

 ようやく桜子は速仁に顔をむけた。

「投げっこならいいけど……」

「うん、それじゃ桜ちゃんは手でなげて。ぼくは足でけるね」

 桜子は、あまり気乗りしなかったが、人形遊びという言葉につられて、速仁といっしょに曹司を出た。


 曹司わきの簀子縁(すのこえん)では、速仁付きの家臣がひとり、格子を背にして端座していた。年のころ十七、八歳の青年だ。兼隆に仕える身だが、兼隆に命じられ、数日まえから速仁の世話をつとめている。

 速仁は、簀子縁から庭へつづく(きざはし)を、トントンと身軽に下りた。だが、(うちき)を重ね着している桜子は、ゆっくりとしか下りられない。青年が、手を取って桜子を助けた。

「ありがとう。お名前は……?」

惟清(これきよ)ともうします」

「ありがとう、これきよさん」

 ――優しそうなお兄さん。宮ちゃんと、おおちがいだ。


 ようやく(くつ)をはいた桜子に、速仁が庭のまんなかで鞠をかかえながら、大声でよびかけた。

「はやく、おいでよ!」

 だが桜子は、速仁にかまわず、惟清にあらためて辞儀をした。そしてそのあと、袿の前裾(まえすそ)を手に持って、ようやく庭へ歩を進めた。


 庭は、暖かい陽射しにあふれ、桜の花がほころびはじめていた。冬眠から目ざめたカナヘビが、池縁の大きな石のうえで日向(ひなた)ぼっこをしている。それを目ざとく見つけた桜子が、

「カナヘビちゃんだぁぁ!」

と歓声をあげ、速仁を捨ておいて走りだした。

 カナヘビは一目散に草むらへ逃げた。

 桜子は、カナヘビを追いかけ、逃げこんだと思われるあたりの小石を持ちあげた。

「うわぁぁ、かわいいぃぃ!」

 石の下に、ダンゴムシが群れをなしていた。

 桜子は一匹つかみ、片手に握りしめて速仁のもとへいそいだ。


「宮ちゃん、いいもの見せてあげるね」

「!?………」

 桜子が、手をゆっくりと開いた。

「ヒエェェェ!」

 速仁は顔をひきつらせた。虫やトカゲが大の苦手なのだ。

「ど、どうして桜ちゃんは、そんなきみのわるいものが、すきなんだよ!」

「宮ちゃんこそ、どうして嫌いなの?」

 桜子は、自分の服を伝って素速く逃げていくダンゴムシを目で追いながら、無邪気に問いかえした。

「は、はやく、まりであそぼうよ!」

「うん、わかった」


 速仁は、桜子が見まもるなか、しばらくひとりで鞠を蹴りあげていた。十歳にしては、なかなかの足さばきだ。練習をつづければ蹴鞠(けまり)の達人になれそうだった。

「それじゃ投げて、桜ちゃん!」

「うん! ――はーい、いくよ」

 桜子が投げた鞠を直接に足の甲で受けた速仁は、高く三度蹴りあげ、そして桜子に蹴り返した。鞠は狙いどおり桜子のまえに落ち、はねてきたそれを桜子は両手で受けとめた。

「宮ちゃん、すごーい」

「エヘへッ。そうでもないよ。それじゃもう一回ね」

 ふたりは鞠遊びに興じた。


 だが好事魔(こうじま)多し。桜子にほめられて調子に乗った速仁が、まだ習得しきれていない、(かかと)での〈うしろ蹴り〉をしたのだ。鞠が桜子の顔面を直撃した。

「あっ、桜ちゃん!」

 両手で顔をおさえひざまずく桜子に、速仁は血相を変えてかけよった。

「うわぁぁぁぁぁ」

 痛いというよりも驚いてあげた桜子の大声だった。だが、速仁をうろたえさせるに十分だった。

「桜ちゃん、だいじょうぶ? だいじょうぶ? ごめんね、ごめんね」


 階の下で控えていた惟清も、走りよってきた。

「いかがなさいましたか?」

 惟清から声をかけられた速仁と桜子は、ふたりともバツが悪そうな顔で地面を見つづけた。


「もうお部屋にもどる」

 そう言って桜子が立ちあがったので、速仁はホッとした。だが、情けなくてしかたなかった。

「いまからお人形あそびしよ。明日も明後日も、これからずっと毎日、お人形あそびしよ。だから、……ごめんね」

 しょげきってあやまる速仁に、桜子はうつむいたまま、なにも言わず歩きだした。よこについて歩きながら、速仁はなんども桜子の顔をのぞきこんだ。

 痛くないと、桜子は言えなかった。さっき自分があげた大声が恥ずかしかった。平気だとすぐに言えばよかったのに、これだけ心配する速仁にいまさらなにも言えない気がした。速仁がおもいがけずやさしい言葉をかけてくれたことにも驚いた。どう返事したらよいのか、桜子はとまどっていた。


 階のちかくまで来たとき、桜子は立ち止まり、地面にむかってボソッと小声をだした。

「三日だけでいい」

「えっ、なに?」

「だ・か・ら、三日だけでいいって、言ってるの」

 親仁の顔を正面からみつめ、桜子は言葉をつづけた。

「宮ちゃんは、ほんと頭悪い。三日間だけお人形遊びしてくれたらいいって、言ってるの」

 つっけんどんな言葉づかいだったが、それでも、速仁の頬はおおきくゆるんだ。


「そんなふうにボーっと笑っていると、ますます頭が悪く見えちゃうよ」

「あっ、ごめん」

 速仁は、そう言ったものの、おもわず謝ってしまったことに、なんとなく納得がいかない面もちだった。

 そんな親仁に、桜子は、

「宮ちゃんが赤ちゃんで、わたしがお母さん役ね」

と一言かけたあと、階へむかってまた歩きだした。

 とりのこされた速仁は、しょぼくれた目で桜子の背中を追い、くちびるをとがらせた。

「えぇぇぇ、赤ちゃん!? うーん、それでもいいけどぉぉ。明日は光る君だよ」


 ふたりのあとを歩いていた惟清は、内心、おかしくてしかたなかった。

 ――若宮さまの初恋の相手は、一の君さまか……。でも、たいへんそうだ。若宮さまは、尻にしかれそうだよな。

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