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紫式部が源氏物語の新帖を秘匿して五日後の昼下がり。内裏での公務を終えた藤原兼隆は、少人数の家臣を供にさせ、都の北東方にある吉田神社へむかった。吉田山、あるいは神楽岡とよばれる孤立丘の西麓に、その神社がある。
吉田神社は、藤原一門の氏神である春日神を祀っている。奈良の春日大社から祭神を分霊して創建された。兼隆は毎月一回、この神社にでかけるのだ。そして本宮の参拝をすませると、いつもきまって家臣をひとりだけ連れ、狭い石段を上って吉田山の頂近くまで行く。石段を上りきったところには、高い板垣をめぐらした殿舎が建っている。つねに門番がおり、厳重に警護されている建物だった。
この殿舎を、今日も兼隆は訪れた。いつものように腹心の家来さえ門前に待機させ、ひとり門をくぐった。ほかにも来訪者がおり、そのように待機させられている者たちが十人いた。
格子がすべて下ろされ、燈台の火がゆらめく薄暗い広間に入った兼隆は、すでにふたりが着座している上座の、その中央に座った。左右の列にも四人ずつが居ならんでいる。
「お待たせいたしました」
月に一度の密会が、兼隆のあいさつではじまった。
会合の顔ぶれは、この数年まったく変わらない。大半が藤原姓の公卿である。だが嫡流ではない。そのほかには、橘姓の公卿や、臣籍降下した元皇族、さらに、高齢の親王が混じっていた。あわよくば藤原氏嫡流の道長・頼通の親子に代わって大臣や摂政となり、政治の実権を手に入れようと狙っている面々である。望む官位が得られなくとも、道長・頼通親子を裏で操ってやろうという野心家たちだった。
飛鳥時代に中臣鎌足が天智天皇から藤原姓を与えられて以降、道長と頼通親子が権力をふるう今の時代まで、藤原氏嫡流が政権の中枢を占めてきた。これに対する他の公卿や皇族たちの反感は、時代を超えて綿々とつづいてきた。やがてその反感は、秘密の結社として形をなすようになる。彼らは、政略結婚や養子縁組の斡旋、さらに任官の取引などを通じて結束を固めた。
藤原一門の氏神を祀る神社の境内が、その密談の場だった。奈良に都があったときは春日大社に、長岡京が造営されたときには大原野神社に、それぞれ会合用の建物が造られ、そしていまは、吉田山の山頂近くにある殿舎が、この結社の密会場所になっている。
道長の甥で官位も高い兼隆が、結社の現在の総帥である。藤原氏の家紋が〈下がり藤〉であることに対抗し、この結社は兼隆が総帥になってから、銀杏の葉の紋様を結束の印とするようになった。銀杏は中国から伝来したばかりの樹木で、新奇さと、その強い生命力とに、結社の発展を仮託したのだった。
今日の密会では、次期東宮の擁立をめぐる動きが検討された。東宮の長男である速仁は、外祖父である道長の後押しもあり、次期東宮の最有力候補だった。兼隆たちは、速仁を東宮に就けたのち、道長と頼通の面目は立てるにしても、実権を徐々に握ることを狙っていた。そして実際、道長を脅して実権を奪うための切り札を、兼隆らは持っていたのである。
「一の宮さまは、あいかわらず勉強は不得手のようで、ほかの皇子さまたちに、この面では後れをとっておられます。しかし、活発なご気性を、帝も東宮さまもたいそう愛でておられます。勉強のことも、不出来がかえって愛おしいごようすです。――人の親の 心は闇にあらねども 子を思ふ道に 惑いぬるかな*――ですかな。東宮さまも人の親ですな。しかし、その方がかえって、われわれには好都合というもの、ハハハッ」
冗談めかして語る兼隆は、速仁が東宮になることに自信満々のようすだった。一座も満足げだ。
「例の切り札も、洩れ出ないようにしっかりと握っておりますので、みなさま方、ご安心くだされ。ただ、ご報告しなければならないことが、ひとつございます」
兼隆は、紫式部が書こうとしていた新帖の内容が、この切り札を損ねるものだったことを、一同に明かした。そのうえで、新帖が書かれないことを、力強く請けあった。
「陰陽師を使い、新帖の筆をとらないよう、きつく脅しました。狐が産んだあの晴明に、畜生ゆずりの呪術をふるわせた次第です。相手が姑ですので気後れはしたのですが、われわれの切り札には代えられません。姑が性懲りもなく新帖をまだ書こうとするようでしたら、姑を殺めてでも、と心を決めております」
兼隆のこの覚悟の言葉に、一座が静かに相づちをうった。そしてひとりが口を開いた。
「いや、婿殿としてはおつらい仕事でしょう。万が一のときは、わたしの方で処置いたしましょう。おまかせあれ」
すると、もうひとりが言葉をついだ。
「それにしても、女の妄想とは、げに怖ろしいですなぁぁ。われわれの計略と瓜二つの物語を思いつくとは……。東宮さまたちは、源氏の物語を〈ありそうでなさそうな〉絵空事とお思いでしょうが、もし新帖が世に出ていれば、なさそうで、じつはあった、ということになりますな。ワハハッ」
広間は一座の高笑いでつつまれた。




