7-3
桜子と悠斗は、潤一郎たちが鞍馬堂を立ちさったころ、嵐山駅に着いた。
悠斗はリュックサックを背負っている。第三の品を手に入れるのに、またどんなことが待ち受けているのかわからない。そう考えた悠斗は、懐中電灯やサバイバルナイフなど、非常時用グッズを詰めこんできたのだ。
ふたりは、駅前でおにぎりと飲み物を買いこみ、まっさきに亀山公園へむかった。嵯峨野・嵐山観光のメインルートから外れているこの公園で、正午に桜子のまえに現れるはずの速仁を待つつもりだ。
源氏物語において、上洛した明石の方が一時的に住んでいた山荘は、現在の、この亀山公園のあたりに設定されている。実際にも、平安時代の嵐山から嵯峨野にかけての一帯には、その風光明媚さゆえに、貴族や親王たちの別荘が数多く設けられていた。
桜子も、亀山公園に行く途中で、桂川に架かる渡月橋を目にしたとき、ここには父母に連れられて二年まえに来たことがあるのを思いだした。対岸に横たわる嵐山のなだらかな山容は、およそ千年の時をへだてても、まったく変わっていなかった。橋のすぐ上流に石堰が築かれており、大堰川とよばれるそのあたりが、満々と水をたたえて緩やかに流れるようすも、さほど変わっていないように思われた。かつては平安貴族たちが詩歌管弦の舟遊びを楽しんでいた水面に、いまは貸しボートが浮かんでいる。
桜子は、岸辺を悠斗とならんで歩きながら、
「宮ちゃんもいっしょだったの。舟には乗らなかったけれど、楽しかったなぁぁ」と、
懐かしい思い出を悠斗に語った。
「おれも、両親と来たことがある。こんなふうに歩かず、タクシーで通りすぎただけだったけどね」
悠斗は、母の闘病生活を冷静にふり返ることができる自分がうれしかった。
「たくしい、って、車のことですか?」
「ああ、車の一種で、お金を払って乗るんだ」
「それって、便利ですね。歩き疲れたら、乗せてもらえますものね」
「ああ。そのとき母さんは病気で、長い距離を歩けなかったんだ。春に嵐山と嵯峨野にみんなで来て、その年の夏に、手術が間にあわなくて死んじゃった」
桜子の顔が、一瞬にして強張った。
「ごめんなさい。哀しいことを思いださせてしまって……」
だが、悠斗はほほえんでいた。
「いいや、そんなことないよ。嵐山は、もう悲しい思い出じゃなくて、きっと楽しい思い出の場所になる。今日、桜ちゃんといっしょに来られたから」
そう言いながら、悠斗はさりげなく、左手で桜子の手を取った。すると、桜子もやさしく握りかえしてくれた。
――ヨシ!
悠斗は、口もとも頬も、おおきく緩ませた。だが、桜子はハキハキとした声で、
「わたしたち、源氏の新帖を探す仲間ですものね! 第三の品を見つけて、思い出の場所にしましょうね」
と応じた。
悠斗は、冷水を頭から一気に浴びせられた気分だった。
「ああ、そうだね。仲間、……だもね……」
悠斗は、ガックリしたものの、桜子との散歩はやはり楽しかった。今日はまだ光源氏と夕霧のどちらも呼び出していないのも、速仁が現れる正午までの時間を、桜子とふたり、恋人気分で満喫したかったからだ。
ふたりは、亀山公園に着くと、人影のないベンチを選び、速仁が現れるのを待った。
だが今日も速仁は、時間どおりに姿をみせない。
「もぉぉ、宮ちゃんたら! あんなに約束したのに……」
口をとがらせながらも、桜子は速仁の身を案じている顔だった。悠斗は、速仁をかばうと同時に、桜子を安心させたかった
「抜けだせなくなったんじゃないか。きっと、そのうち現れるよ」
桜子はちいさくうなずいたあと、悠斗に顔をむけた。
「お願いがあるのだけれど……」
「ああ、なに?」
「以前に宮ちゃんと嵐山に来たとき、大堰川で舟遊びがあったの。でも宮ちゃんは、万が一のことがあったらって言われて、舟に乗せてもらえなかったの。わたしね、宮ちゃんがかわいそうだから、がまんして、岸辺で宮ちゃんといっしょに舟遊びをながめていた。――いまから、舟に乗りに行きましょうよ」
「そりゃおれも、いっしょに乗りたいけど……。おれたちがボートに乗ってるときに一宮が現れたら、あいつ、川にドボンかもしれないよ」
「きっとだいじょうぶだと思います。観音さまが、ぼおと、とかいう舟のなかに、宮ちゃんを送ってくださいますよ」
桜子はそう言うものの、悠斗は不吉な予感がした。だが、悠斗にとって桜子とのボート遊びは、そんな不安を吹き飛ばすぐらいに魅力的だ。それに、速仁が川に落ちても、救い出す自信が悠斗にはあった。
「よし、乗りに行こう!」
「うん! ぼうとで、おにぎりも食べましょうね」
最初は悠斗がボートを漕いだ。だが、五分もするうちに、ふたりは横にならんでいっしょに漕ぎだした。残暑が厳しく、陽射しも強かったが、それでも、川面をときおり吹き抜ける微風が心地よい。上流へ行けば、山が両岸に迫り、木が川縁近くまで濃い緑の枝を伸ばしていた。シロサギが木々のあいだで見え隠れし、その白さが緑に映えてもいる。
桜子は、つい一月ほどまえの、宇治川での自分を思いだしていた。速仁が待つ対岸の別荘へ、小舟で渡ったのだ。あのときは、浮舟の女君とちがい恋することも恋されることもない自分が、たまらなく情けなかった。でもいまは、想いがつのるばかりの相手がいた。
悠斗は、源氏物語のなかで詠まれる和歌を、あれこれ思いうかべていた。
――ここで和歌のひとつでも口ずさめば、桜ちゃんはおれのことを……。
悠斗の口もとが、おおきく緩んだ。
――でも、いいのが思いつかないよなぁぁ。おれ、やっぱり頭悪いわ、
と、悠斗は浮かない顔になった。
――おっ、いいのがあった!
悠斗の口もとが、またおおきく緩んだ。悠斗は、〈浮舟〉帖のなかで、匂宮が詠んだ歌を思いだしたのだ。〈年経とも 変はらむものか 橘の 小島の崎に 契る心は〉――宇治川を渡る小舟のなかで、永遠の愛を、浮舟の女君に誓った歌である。
――あっ、でもこの歌は、たしか冬の場面だったよなぁぁ。いまは夏だし……。
悠斗は、また冴えない顔になった。
と、そのとき、とつぜん雷が鳴り、小粒ながらも雹がバラバラと激しく落ちてきた。
そして、ドボーン、という大きな水音がつづいた。
「ウワァァァ! ウワァ! ゴボ」
雷鳴も降雹もすぐに止んだが、悠斗が心配したとおり、ボートのすぐよこの川面で速仁がアップアップしていた。
悠斗が、笑いだしそうになる気持ちを懸命に抑え、速仁をボートへ引きずり上げた。
「ゲホ、ゲホ。――ど、どうして、川の真ん中なんかで待っているんだよ!」
ずぶ濡れで、仰むけに横たわったまま怒鳴る速仁に、桜子は、すまなさそうな顔をした。
「ごめんね。石山の観音さまが、舟のなかに宮ちゃんを送り届けてくださると思ったから……。だいじょうぶ?」
「だいじょうぶなわけないだろ! ゲホ。まえにも言ったけれど、あの観音さまはケチなんだよ。それに、まだ修行中の身らしいんだ。気が利かないんだよなぁぁ」
ブツブツ文句を言いつづける速仁に、悠斗も、苦笑いしながら謝った。
「おれが悪いんだ。どうしてもボートに乗りたくなったんだ。おまえが川にドボンするかなとは思ったんだけど、おれ、水泳が得意だし、すぐに助けられると思ったから……、ゴメンな」
ふたりから謝られて、ようやく速仁は気分をなおした。
「助けてくれてありがとう。悠にいちゃんは、命の恩人だよ」
「そんな大げさなもんじゃないぞ、アハハ」
「ううん、だっておれ、ぜんぜん泳げないもの」
「えっ、おまえ、そうなのか!? だったら、とても怖かっただろ? 怖い思いさせて、ゴメンな」
悠斗は真顔で、速仁の身を思いやった。
速仁は、親身になって心配してくれる悠斗の言葉がうれしかった。
「おれのほうこそ、ごめん。約束の時間に遅れたおれが悪いんだよな」
速仁は悠斗にそう言うと、桜子に顔をむけ、言葉をついだ。
「勉強しなかったわけじゃないぞ。今回も、二日間は駄目だけれど丸々一日こっちの世界にいられるように頑張ったんだぞ。でも、こっちへ送ってもらう直前に、乳母ちゃんが桃を持って部屋に入ってきたんだ。いつものようにおしゃべりが長くて、おれ、すごくあせってしまった。部屋を出るとき、乳母ちゃんは、千年後の世界でも桜ちゃんがおいしい桃を食べていられますようにと、おれの持仏の観音さまにお願いしていたよ。桜ちゃんの無事を、いつも、いろいろな仏さまや神さまにお願いしているのです、と言っていた」
桜子は、母のようすを詳しく教えようとしてくれる速仁のやさしさがうれしかった。そのうえ、母のおしゃべりにも我慢してつきあってくれたのだ。母にたいする速仁の思いやりが、ありがたかった。
「宮ちゃん、濡れたままだと寒いでしょ。これに着替えなさいよ」
桜子は、一週間まえに悠斗が見立てた服と靴が入っている手提げ袋を差しだした。
「うん、ありがとう」
速仁がうれしそうな顔でそう言うと、悠斗も、リュックサックからビニール袋を取り出した。
「濡れてる服を、ここに入れたらいいぞ」
「うん、ありがとう」
と言ったあと、速仁は童直衣をササッと脱いだ。だが、指貫に手をかけたところで、モジモジしはじめた。
「桜ちゃん、あっち見ててよ」
「?………。あっ、ごめん」
桜子は、あわてて顔をうしろにむけた。




