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大陰は、朝はやくに紫式部の屋敷を飛びたってからというもの、ハクガンに変化したままで、式部の動向を探りつづけた。
陽が西におおきく傾いた今は、式部一行と離れ、寒空を飛んでいる。だが、もう疲れきっていた。式部が寺社に参詣していたあいだは枝に留まり翼を休めることができたのだが、それは、あわせてもわずかな時間だった。
おまけに、式神は陽射しが苦手だ。そのうえ、暗い水から長時間離れていると力が弱まり、変化能力も落ちる。朝には風切り羽さえつややかに白かった大陰の羽根は、いまや黒と灰色のまだら模様となり、羽先もボロボロになってしまった。ようやく日暮れが近づきつつあったが、こんどは視力がいちじるく低下してきた。夜目のきくフクロウに姿を変えたくても、それに必要な力は尽きていた。
ハクガン姿の大陰は、残っているわずかな力をふりしぼりながら、安倍晴明の屋敷へむかっているのだった。
その屋敷では、主が軒下の廂に座り、ハクガンが虚空に描く不安定な軌道をのんびりと目で追っていた。
すると、コーン、クルクル、ドーン……
ハクガンは、屋敷の庭に植わる梅の木にクチバシをぶつけたあげくに、その反動で、晴明の正面に転がり着いた。
「みごとな着地だな、アハハ」
晴明は、ひょうひょうとした顔で、大陰を迎えた。
変化力をすっかりなくした大陰は、本来の老婆姿となり、
『お見苦しいところをお目にかけ、もうしわけありません、ゲホ、ゲホ』と、
せきこみながら低頭した。
「花を咲かせないあの梅も、役にたつことがあるものだ。あのまま飛んでおれば、わしの目のまえを通りすぎるところであったぞ、アハハ」
晴明は、もういちど声に出して笑ったあと、下級の式神を操り、柄杓を大陰のまえに運ばせた。
「ほれ、この水を飲め」
樽にくみおきされていた堀川の水が、たっぷりと張られていた。
一息ついた大陰は、式部一行がこの屋敷にむかっていることを伝えた。
『日が落ちるころに到着されるかと思います。そのことを急ぎお伝えしようと、一足先に飛んでまいりました』
まさか式部が来訪するとは思っていなかった晴明は、眉根をわずかに寄せながら、大陰の報告に耳をかたむけつづけた。
『式部殿は源氏の新帖をたずさえ、日中ずっと、牛車で洛中を東西南北あちこち巡っておられました。さいわいなことに、洛外へ出られることはございませんでした』
晴明は、おだやかな顔になり、ちいさくうなずいた。
晴明といえども、洛中に留まっているかぎり、その呪術を洛外に及ぼすことができない。もし式部が洛外に出ていったなら、大陰は、あとを追うことができなかったのだ。
『式部殿が牛車から降りられたのは、いくつか寺社に参詣される時だけでございました』
大陰の言葉に、晴明の顔がふたたびくもった。晴明が操る式神は、洛中から出られないだけでなく、寺社の境内にも立ち入れないのだ。そこは、それぞれの仏神が支配する場だからである。
『ですが、ご心配にはおよびません、ゲホ。山門や鳥居のそとからでしたが、式部殿の動静を十分にさぐることができました。ゲホゲホ、式部殿は……』
はげしくせきこみながらも口を開こうとする大陰に、晴明は右手をかるく差しだして制止した。
「ご苦労であった。式部殿がどこに立ち寄られたのか、くわしくは明朝に聞くとしよう。今日は、もうさがって休むがよい」
『ありがとうございます。ゲホ』
「口をいたわれよ。たいそう腫れておる、ハハハ」
晴明は、ふだんのひょうひょうとした顔にもどっていた。
それからほどなくして、式部の乗る牛車が一条戻橋をゆっくりと渡ってきた。下男と、手綱を持つ牛飼童は、くたびれ果てていた。
晴明邸の門をくぐった車から、これも疲れたようすの式部と女房が降りてきた。式部は、小櫃のなかから手箱を取りだし、その上に絹布を載せ、赤子のように抱えた。そして、式神に案内されてひとり屋敷内に入っていった。
式部は廂に座り、晴明とふたりきりで向かいあった。
「とつぜんに参上いたしましたこと、お許しくださいませ」
「いやなんの、光る君の、生みの母殿にお越しいただけることは、わが家の誉れです。源氏の物語はすべて、わが家にもございます。たしか、五四帖だったと思うのですが、ちがっておりましたかな?」
問われた式部は、眉ひとつ動かさない。だが心のうちでは、希代の陰陽師だとたたえられている晴明のことだ、新帖の存在に勘づいているのではないだろうかと、いたく感じいっていた。
式部は晴明の目をまっすぐみつめ、ふたたび口を開いた。
「わたくしは、物語の生みの親かもしれません。ですが、それを育てるのは、お読みくださる方々だと考えております」
そして両手をつき、言葉をつづけた。
「とりわけ殿には、養い親になっていただけないかと思い、失礼をかえりみず参上いたしました」
そして式部は、手箱から草紙を一冊取りだすと、絹布とならべて晴明のまえに置いた。
「この布をお納めください。またこの草紙は、殿のお力で守り慈しんでいただきたいものでございます。ただ勝手ながら、隠し子としてあつかっていただきたく、ふしてお願いもうしあげます」
「ほぉぉ、隠し子ですか?」
晴明は、なにくわぬ顔で、
「いまここで拝読してよろしいかな?」
と、言葉をついだ。
「はい、ですが世間に……」
式部が言いおわらないうちに、晴明はうなずきを返した。
そして、
「わかっております。隠し子ですね」
と言ったあと、晴明は草紙を手に取らず、帖名だけが書かれている薄桜色の表紙を、半眼でにらみつけた。
ほどなくして、晴明の口もとがかすかにゆるんだ。
「あのぉぉ、お読みになっても結構でございますよ」
式部は、半眼のままで身動きしない晴明に、けげんな声をあげた。
すると晴明は顔をあげ、
「いや、あまりにおもしろうて、感心しておるのです」と、
おだやかな口調で式部に答えた。
その返事に式部の顔がとまどいを濃くすると、晴明は、ひょうひょうとした顔ながら、鋭い目差しで言葉をつづけた。
「心眼で、最後までいっきに読ませていただいたのです。隠し子として育よ、ということでしたので、物の怪に盗み読みされないよう、草紙を開くことはいたしませんでした」
「えっ、物の怪!?」
おもわずそう言ってまわりを見る式部に、晴明は、あいかわらず穏やかな声で話しつづけた。
「イヤイヤ、ご心配にはおよびません。強い結界を張ってありますので、無理に忍びこもうとすれば、あそこの梅の木のようになってしまいます。あれはかつて物の怪だったのです。ですから、花を咲かせない。ただ、用心するに越したことはないですからな、アハハ」
晴明は、ひとしきり笑ったあと、あらためて居ずまいをただし、式部をまっすぐみつめた。
「この草紙は、源氏の新帖ですな。ところで、これを隠しておかなければならない理由が、なにかございますのかな? 現実になさそうでありそうな、おもしろい物語だとしか思えませんが……」
わずかな笑みを目もとにのこしたまま晴明がそう問うと、式部は沈痛な面もちで答えた。
「じつは、わたくし自身も腑に落ちないのです。先夜、楊貴妃とも見紛う美しい物の怪が部屋に現れまして、源氏の物語を五四帖で打ち止めとし、新しい話を世に問うな、と脅されました。もし従わなければ、子々孫々に危害がおよぶともうすのです」
「ほぉぉ、美女のなりをした物の怪ですか!?」
晴明は、あいかわらずとぼけた顔で、たずねるともなく一言もらした。
式部は、ちいさく相づちをうったあと、ますます顔をくもらせながら話しつづけた。
「おそらく、不用意に取り散らかしていた下書きに死霊か生き霊が目をとめ、どこかの件を恨みに思い、あの物の怪をわが家に遣わしたのでしょう」
「げすな妖怪が、自身に都合の悪い新帖の存在を知った、ということですな。さもありなん」
片ほおに笑みをうかべながらそう応じる晴明に、式部は、またうなずきを返して言葉をついだ。
「世に問うな、と物の怪は言いましたので、世間には伏せるつもりでおりますが、五四帖で書ききれなかったことを、新しい帖のなかにしたためました。物の怪に脅されても、どうしても書いておきたかったのでございます。書くことに生きる意味を見ようとする者の、捨てきれぬ業だとお笑いください」
真顔で胸中を吐露する式部の気勢におされ、晴明も、普段のからかい気分をおさえた。
「子細よく分りました。それで、この隠し子を、いつまでお守りすればよろしいのでしょうか」
「いついつまで、とはもうせません。おそらく、わたくしの係累の何十代も先になりましょうか。それほどの長い時がすぎれば、直系とか一系とか、そのような血筋を問うことが、物の怪にとっても意味をなさなくなるにちがいありません」
式部の考えに、こんどは晴明がおおきく相づちをうった。
式部は晴明にあらためて頭をふかくたれ、凜とした声で言葉をついだ。
「いつかそのような時が訪れるまで、この草紙に封印をおかけくださいませ。そして、源氏の物語をこころから愛おしんでくださるかたにこそ、草紙が渡りますように、身勝手な思いから改ざんなどしかねない者の手には、けっして渡りませんように、どうぞ呪術でお守りくださいませ」
「お申出の旨、承知いたしました」
晴明は草紙を、式部が持参した手箱に納め直した。そして、ふたたび半眼となり、両手で印を結びながら、手箱にむけて呪文を唱えた。すると手箱は、光に包まれながら舞い上がり、ゆっくりと回転しながら、溶けるように消えていった。
手箱を目で追っていた式部の顔には、晴明の呪術への驚きと、草紙を秘匿しおえた安堵とが、ないまぜになって広がった。
あらためて礼を述べる式部に、晴明は、さぐるような眼差しをむけた。
「ところで式部殿は、なぜわたしを頼っておいでになったのですか? 源氏の物語を拝読したかぎりでは、さほど陰陽道を信じておられないように思っていたのですが……」
晴明は、〈須磨〉帖のなかで陰陽師の失態が語られていることを挙げた。摂津国の須磨に蟄居する羽目になっていた光源氏は、うららかな春三月の海辺で、積もる心労の原因と思われるものを陰陽師に祓わせようとした。だが、とつぜんの暴雨風と雷鳴に襲われ、祓い自体も中途で投げ出さざるをえなくなった、という事件である。
式部は、
「そのように、細部までないがしろにせずお読みいただいていること、うれしくぞんじます」
と、晴明にふかく辞儀をした。
そしてほどなくして上げた顔には、晴明に寄せる厚い信頼感がにじみ出ていた。
「覚えておられますでしょうか? 娘が身ごもったおり、娘に取り憑いた物の怪の調伏を、殿にお頼みいたしました。みごとに調伏なされ、その直後に、娘は赤児を産みおとしました。殿のお力に、感服いたしました」
そして一息おき、おだやかな笑みとともに言葉をついだ。
「ただわたくしは、神や仏の名において指図する方々を、みながみな、信じることができないのです。神仏は、特定の人を通じてそのお力を顕されますが、僧侶や陰陽師だと名乗り、人からも崇められている方々がみな、殿のような、本当に選ばれた者とは、どうしても思えないものですから。わたしのそのような思いが、源氏の物語のあちこちに、にじみ出ているのでしょう」
人をいざなおうとする、式部の巧みな言葉づかいだった。晴明は、それにふかく感心しながら、口の端を、式部の目に見えるようにわざとゆるめた。
「いや、そのように仰っていただくと、これからも修行に励み、人に悪さをする物の怪の調伏に精をださねばなりませんな。この老体にはつらいことです、ハハハ。――さて、お引き留めしたようで、もうしわけありません」
式部は帰宅の途についた。
明日からの日々を孫との人形遊びですごそうと、式部が桜子の顔を思いうかべながら一条戻橋の脇を通りすぎたとき、橋の下では、老婆姿の大陰が、ひっそりと身を休めていた。
――お帰りのようじゃな。ふぅー、まだ腕の付け根が痛いわ。鳥に変化するのは、ほんに疲れる。
体力の要る、今日のような仕事は他の若い天将たちにあてがってくださればよいのにと、大陰は心のなかで、ぼやきつづけた。
と、そのとき、大陰の耳のおくに晴明の声がひびいた。
〈大陰! 参上せよ〉
――えっ!? また鳥になって式部殿の後を追え、とでも仰るのかいな。
大陰は、もたもたしながらもフクロウに変化し、晴明のもとへむかった。上下にも左右にもふらふらした、おぼつかない飛び方だった。
ようやくたどり着いた屋敷内の廂で、あいかわらずひょうひょうとした顔の晴明が、大陰を迎えた。
「大陰、なぜフクロウになっておるのだ?」
『えっ!?』
フクロウは、赤混じりの金色の目をおおきく開き、頭を傾げて晴明の顔をうかがった。
「まっ、その姿の方が、知恵深そうで、おぬしに似合っているがな。だが、なぜクチバシがカルガモなのだ? あっ、そうだった、そうだった。まだ腫れが引いておらぬのか、ハハハ」
フクロウは、さすがにムスッとした顔になり、
『式部殿を追いかけろ、というご命令を受けるのかと思ったものですから……。昼間の子細については、明日あらためて報告せよとの仰せでした』
と、つっけんどんに言葉をかえした。
「いやすまぬ。歳のせいでせっかちになってな、おぬしから今夜のうちに報告を受けようと気が変わったのじゃ。寝ついてそのまま冥土に行ってしまうことも、あるかもしれないからな……」
フクロウは、心配そうな顔を晴明にむけた。
「それにな、十二天将のなかでも、歳の近いおぬしと話していると、心が安まるのだ。わしも歳だな、式部殿が持ってこられた草紙を封印するだけで、たいそう疲れてしもうた」
『殿のご心中を察することができず、お許しください』
そう言いながらフクロウは、うるんだその目を両翼で覆おうとした。だが短いせいで届かず、頭をまうしろにクルッと回して涙を隠した。
そのようすに、晴明は破顔一笑した
「若い女人でいるより、フクロウでいるほうが、かわいいではないか、ハハハ」
晴明と、フクロウ姿の大陰は、その夜おそくまで、源氏の新帖について語りあった。
「あの兼隆が、あわてふためいてわしに頼んできた理由が、ようやく読めてきたぞ」
晴明は、新帖の中身を知ったおかげで、その公開を兼隆が恐れる理由に思いあたったのでる。
また晴明は、式部が日中に立ち寄った場所を大陰から知らされ、おもわず感心の声をもらした。そして大陰は、そうした寺社をなぜ式部が選んだかについての晴明の推理を聞いているうちに、昼間の疲れを忘れてしまった。
だが、晴明と大陰にとって、心配の種が残っていた。新帖の公開を嫌う者たちの動向である。兼隆なら、まさか賢子と桜子にまで危害をくわえたりしないだろう。だが……
「兼隆殿には、ほれ、仲間がおるだろ。その連中であれば、新帖の公表を妨げるために、式部殿を殺めることも厭わないかもしれない。それに、式部殿は気づいておられぬが、新帖の中身は、賢子殿親子の生死にも関わることじゃ。残念だが、中身がおおやけにならぬ方が賢子殿たちの身のためだと、わしは思う」
フクロウの目が赤みを増した。
「だが、さきほど新帖にかけた封印を、わしが死んだのち、だれかが強引に解いてしまうかもしれんな……」
フクロウは、まだ腫れのひかないクチバシをわななかせた。
「おいおい、大陰。そのような悲しい顔をするな。まだしばらくは、この晴明、くたばったりはせんよ、アハハ」